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2014年11月15日

普通温州 青島系「金峰」みかん

写真は「金峰」みかんですが、今年は秋めくのが早かったせいか、例年より20日程度は早く色づいてきています。何だってこんなに早くからイノシシに食われるのか、試しに糖度を測ってみると、10月下旬で11度もあり酸抜けも進んでいてほぼ食べられる状態になっているのには唖然とします。
「青島」「金峰」など普通温州は12月に収穫して土壁倉庫で貯蔵して3月に出荷するのを常としてきたのですが、今年は酸抜けが早すぎてそこまでは持たないだろうと予想しています。持たないのなら今までに例のない平均糖度14度に仕上がらないかという密かな期待もあります。
普通温州は収穫後1月ほどして皮が萎び始めてからが味の本領が出ます。「金峰」も今年は熟れるのが早くどこまで貯蔵できるかわかりませんが、3L級の大玉でも13度程度の糖度は乗せ酸味が残っている間はその分味が濃厚で、極早生、早生みかんほど水っぽくなく、同じ量食べたとしてもはるかにお腹の水膨れ感は少ないようです。採算を無視しても残すことに決めたのは、その美味しさを味わえなくなるのが私自身が承服できないからです。
みかんの園地まわりにイノシシ防止柵がとりあえず完成しています。これでどこまでイノシシを防げるかかですが、今のところイノシシ小僧の侵入もほぼ止まっています。あとカラス対策も必要ですが、そこまでは手が回らないので今年はこれで様子見です。
11月も半ばになってふと思うのは、今年はキノコ採りも釣りも行こうという気にもならないということです。ブドウから解放されてじりじりするほど待っていたブドウ以外の事ごとに目下全開モードです。これほど仕事人になるとは自分でも想像もしていませんでしたが、植物相手の物作りは趣味も遊びもその中にあって、仕事というより生活そのものであるのだろうと実感しています。005.JPG004.JPG
posted by 明石 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年11月08日

試論

人口減少に伴い全国1800市区町村の約半分が2040年頃までに消滅するという地方消滅論が物議を醸していますが、そのことの正否は別として、農林水産業の衰退と共に地方から国の崩壊が始まっているのは確かで、リーマンショック前年の原油高不況辺りからの急加速には凄まじささへ覚えます。食っていけない農林漁業は消滅するのだろうと思っていますが、企業だけのいわば経済オンリーの国を想うと寒気がします。
経済は世界が連動しているだけに不安定不確定要因が多く、何時何が起こるか針のむしろで世界の動向を注視し続けねばなりません。確かさと安定にはほど遠いのが常態だということです。日本が経済力がある間はいいとして、そうでなくなった時、この国はどうなるのだろうと考えるとぞっとします。国の基本的な在り方を問うことなく経済一辺倒でひた走ったつけはその時一気にきます。
私は農林漁業の第一次産業は国の基盤であり、そこを確保できなければ国は崩壊すると思っていますが、この国の政治家や官僚、経済界は長きに渡っていまだにそんな考えは持ち合わせてはいないようです。経済がこけた時どうやって国民が食ってゆくのか、ぜひとも教えてもらいたいものです。
資本主義市場経済は勝者に富を独占させる弱肉強食社会であるが故に、資本力のある富める者がますます富み貧しき者は更に貧しくなる、貧富の格差拡大社会であることは既に端的に世界で露見している通りです。行き着く末の悲惨さが見えているのに新自由主義とか、更にこれを推し進めようというのは狂気としか思えず、自由主義の内実は独占欲支配欲以外の何物でもないのだろうと思ってしまいます。
私は経済活動にも「共存共生」といった本来経済の性格とは相容れないモラルか精神を組み込まないと行く末は悲惨だと、尚一層強く思うようになってきていますが、多分これは国際法として理念を明確にする必要があるのだと考えます。「共存共生」の理念は国と国、人と人は言うに及ばず、地上の全ての動植物とも、地球全体を包み込むまで広がるものであるはずです。「共存共生」の理念を掲げる国際法を順守すべく世界の各国が努めるなら、新たな時代新たな社会に向けて方向転換する可能性は開けてくると想います。
共産主義国家の崩壊により平等な社会は夢のまた夢で終わり、自由主義の自由な社会も国別個人別でも悲惨な結末しか見えてこないようです。
思想に拠らず宗教にも拠らずとしたら、人としてモラルを高めるところにしか行く道はないようです。人として豊かに幸せに生きたいということに尽きるのではないかと思います。
posted by 明石 at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年11月01日

知の巨人 宇沢弘文

私は経済学者とか経済評論家とかの類はあまり好きではないのですが、先日NHKクローズアップ現代で取り上げられた「知の巨人 宇沢弘文」は、こんな経済学者も居たのかと実に興味深かったです。経済は人を幸せにするものでなければならないという経済学は、30分間の番組でそのアウトラインに少し触れただけとはいえ、哲学の上に築かれた経済学で、手法論ばかりを論じる他の経済論者とは全く異質ものでした。
金が支配する社会では、人は生活するためには否応なく金儲けのために働かねばなりませんが、ここが端緒で生きるために必要な金を稼ぐというのであるならば、金を稼ぐために生きるのではないと決して本末転倒にはならないはずです。つまり、働くということは自分の生活を確保し、できれば多少でも豊かになり、結果幸せになりたいためであるということには、異論はあまり生じないように思えます。
この端緒から見れば、人を幸せにする宇沢氏の経済学は、その根っこの部分で共鳴するはずのものであるだろうと思いますが、現実はあまりにかけ離れた経済最優先で企業の論理に覆われた社会であるが故に、その落差の分宇沢経済学に違和感が生じるのだろうと思います。
経済というものはそれ自体に貪欲な性格を内包するものだと見ていますが、現代社会はどちらを向いてもこの経済の性格ばかりがむき出しで、生き残るという大義名文掲げた企業の勝手気儘な生態にに封じ込められて、人の姿は地下に閉じ込められたように見えにくくなっています。これでは人のための経済ではなく、経済のための人と逆転現象社会です。
前記ブログの続きともなりますが、戦後の貧しさの中で育った団塊世代の一人として、自分の幼少年期に比べて現在の社会のほうが良くなったかと自問すれば、貧しくてもあの頃の方が良かったと即答してしまいます。物は溢れ生活スタイルは比較にならないほど便利にはなっているのだけれど、それで豊かになったのか幸せになったのかと問い返せば、どうもそうではないと思い続けている自分が居るようです。今ではなくバブルの絶頂期との比較がより分かりやすいのですが、物が溢れ持つほどに心貧しき社会になってゆく様を見てくると、醤油や味噌の貸し借りまで隣近所と日常的に行っていた戦後の貧しき社会のほうが、貧しいが故に助けあい分かち合うような気持が自然と育まれて、自分のところの台所が隣近所に筒抜けという鬱陶しさはあったにせよ、今に比べればはるかに心豊かな社会であったような気がします。貧しさも周りが同じように貧しければたいして苦にもならず、盆とか正月とかとかのたまのご馳走が子供心にわくわくするほど嬉しかったし、美味しかったものです。今ならそんな料理は日常的で珍しくも嬉しくもありませんが、たまのご馳走を喜べたその頃のほうが物を大切にし感謝する気持ちが養われる、些細なことで幸せになれる時代であったのは間違いありません。
バブル期を過ぎたあたりから私が思い続けているのは、物が溢れた社会より、例えば必要度が10として調達度が8〜9程度の、多少貧しい社会の方が良いのではないかということです。1程度の不足は知恵を絞って創意工夫でなんとかカバーしようと人の能力を高めるだろうし、2不足すれば助け合い精神が必要になるはずだからです。
あまりに貧しいのは争いが絶えず困りますが、多少貧しくとも心豊かな社会が良いと国民の大多数が望んでその覚悟が持てるのなら、この国は変われるのだろうとは思います。
私が思う豊かさとは我執を離れて他を思いやる心の豊かさであり、他との関係性の豊かさが自分に還元されることで人は幸せになれるのでなないかということです。
posted by 明石 at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年10月25日

最後の仕事

団塊の世代と呼ばれる昭和22〜24年生まれが、年内には全て年金受給年齢に達する訳ですが、この世代はその数の多さ故に行く先々で社会に変動をもたらす、貧乏くじばかりを引かされる世代であるようです。私も出生数最多の昭和24年生まれですが、数の多さで得をした記憶は殆どなく、一山なんぼ的な扱いを受け続けてきたような気がします。
テレビ討論番組などを見ていると、団塊の世代はことに若者達に嫌がられているようで、この世代が全員年金受給者になると社会保障財政を圧迫する元凶のように言われたりするのを、実に腹立たしく見ています。団塊の世代が60歳に達する直前に支給年齢が65歳に引き上げられたこの一事を見ても、この世代が数の多さ故に貧乏くじを引かされ続ける世代であることは明白です。
自分たちの負担増の元凶という若者達の白い眼に腹を立てながら、この世代こそ一部とはいえ学生運動で既存の社会秩序に反旗を掲げた唯一の世代であり、フォークソングとか独自の若者文化を生み出した唯一の世代であり、どうでもいいけどついでに言えば学力世界一でもあったのです。
私は団塊の世代はまだ一つ大きな仕事を残していると思っています。それはこの世代が戦後の貧しさの中で育ち、数の多さ故競争を強いられながら激動の時代を一身で生きてきたからです。裸電球に竈というところから始まって現在に至る、その生活の変遷を一身で潜り抜けてきているということは、団塊世代の共通体験であり財産であるはずです。この世代が自分の生涯と静かに向き合えば、より望ましい暮らしや生き方がどこにあるのか、その答えが一人一人に深く内包されているはずだからです。
10歳前後までの日々はその人にとって原風景であり、意識するか否かにかかわらず、必ずその人の記憶の底に宿っているはずです。現役最前線から既に離脱の途にある団塊世代は、自分の原風景に照らして、豊かになったのか、幸せになったのかを問い返せば、時代や社会が透けて見えてくるのではないかと思います。
先日「四国羅針盤」というNHKの地方番組で、欧米の旅行者達が四国の祖谷地方を訪れて、そこでの人たちの暮らし振りに触れて感動している様子が映し出されていました。自給自足的な質素でつつましやかな暮らしぶりはいわば日本の原風景とも言えそうで、それこそ彼らが触れたかった日本であったようです。
戦後の貧しさの中で育った団塊世代の原風景は、地方で育った者ほどこの祖谷の映像とほぼ重なりあうように思えます。日本の田舎の原風景ともいえる時代に育ったという意味で、この世代は最後の希望であるのかも知れません。団塊世代の最後の仕事は、自分の記憶の底に宿る原風景を後の世代に語り継ぐことなのだろうと、そんな風に考えます。
posted by 明石 at 00:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年10月18日

イノシシ防止柵

10月に入ってミカンの園地周りにイノシシ防止柵を作っています。
園地の周囲を2m間隔で木柱を建て、地際から20p以内の間隔で高さ120pまでパイプを張り巡らします。イノシシ小僧とアライグマはこの間隔では素通りですが、今回は枝を折ったり根こそぎ的食害の親イノシシ対策です。
予定通り10月半ばまでに柱は建て終わり、10月末までにパイプを張り巡らす積りですが、遅れるとイノシシの食害が始まるので、時間との勝負的な忙しさはあります。
ミカンの品種は普通温州青島系金峰で、苗木を植えてからまだ20年以内の本来なら今が最盛期の木々達です。3年前親父殿の最後の年、販売金額が9万円、農薬肥料等生産資材が20万円というあほらしさもあって、親父殿の死後切り倒そうかとも思ったのですが、上手く作れば糖度13〜14度で酸味とのバランスも良く、その美味しさとさよならは私自身忍びがたくて20a程は残すことにしました。
残すと決めてから、高く立ち上がった枝をダイナミックに切り詰めたり、間伐をしたり再生に取り組んできましたが、今年は低く広がった枝枝に綺麗な実が沢山付いて、やったことが間違いでないことを証明しているかのようです。
農業もどれほど生産コストを上げても販売額でそれを回収できるのなら、お天気対策、獣害対策等相当なことはできますが、例えばこのイノシシ防止柵に数百万円使ったら、それを回収するのは到底不可能です。
だから、柱もパイプも廃材を使っています。お天気対応、獣害対応に追い詰められながら、なおかつ生産コストを可能な限り下げるよう努める、難題続きです。
posted by 明石 at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年10月11日

イスラム国

イスラム圏の紛争は民族紛争であったり宗教紛争であったり、日本人には到底理解できないと長い間そう思っていましたが、果てしなく続く紛争とテロに次々登場するイスラム過激集団を見ていると、彼らは戦争ごっこばかりをしたがる実は怠け者ではないのかと、ここ数年来私の中ではそういう見方が強くなってきています。宗教は単なる衣装、口実に過ぎず、その下で蠢いている動機は多分全く別物で、同じ宗派で枝分かれを重ねていくつもの別グループが存在するということは、日本でもどこにでもある派閥争い権力闘争と全く同質に見えます。
宗教は本来人間を救済するものであるはずですが、自神だけが唯一絶対の神であり異教徒は認めないとなると、信仰故に殺戮が行われ戦争が起きるあまりのパラドックスが待っているだけです。唯一絶対神宗教は世界を征服するまで戦い続け、これは覇権争いを繰り返してきた人類史とその動機では何ら変わりなく、人間を救済することはあり得ないように思われます。
イスラム過激集団でシリア紛争以来急速に勢力を拡大しているのが「イスラム国」です。巧妙なプロパガンダで世界中から兵士を募り、世界の各地からそれに呼応して参戦する若者たちが急増しているという現象は、他人事ではない怖さがあります。
イスラム国に飛び込んだ若者たちの動機は各人それぞれだとしても、共通しているのは社会に夢も希望も自分の居場所も見出せないということであるようです。イスラム過激主義に共鳴しての参戦というのとはどうも事情は違っているようで、対世界の戦場であるということが彼らを駆り立てる理由であるならば、その矛先はいずれ自分の母国に向けられているはずです。
イスラム国は社会に夢も希望も持てない世界の若者達の格好の受け皿となりつつあり、その流れが加速すれば対イスラム過激派との戦いが気がつけば対自国の若者達という構図になり変り、事態は混迷を深めることになりそうです。
日本も米国もヨーロッパも先進諸国といえどもその社会構造は、若者達(若者に限らず)が息が詰まって窒息死しそうになるほどつまらないものになっているということの方が、イスラム過激派よりはよほど深刻な問題だと思えます。
posted by 明石 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年10月04日

道標

菜園に種蒔きした大根、ホウレン草が発芽してすくすく育っています。
畑仕事を終えた夕方毎日菜園に立ち寄りますが、生育ぶりを見ることで私の方にも癒し効果が生じているようです。畑の方も昨年から植え付け始めた紅みかん、栗、リンゴが雑草に埋もれても負けもせず根付いて育っています。
植物とはいえひとつひとつの生命であることに変わりはなく、育つ様を見ていると生命の温もりが伝わってくるようで、植物と向き合って育てていれば話し相手が誰一人居なくとも、私は多分大丈夫なのだろうと、ふとそんな思いが湧き起こってきます。
植物と言葉を交わせる訳では無論ありませんが、育つ環境を整えたり障害を取り除いたりすると、生き生きと活性を満開にして生命が輝く様は、育てる喜び、育つ喜びが交錯する生命の相互交感作用が存在していて、語らずとも無言の会話はあたかも成立しているかのようです。
農業は自然の中での営為であり、自然のなせる術に人間が無力であるが故に、天候とか自然との調和をひたすら願い続けます。大地を愛おしみ自然の恵みに感謝する心も、無力であるが故に自ずと育まれます。
農業の中にこそ社会をより良き方向へ転換させる人間の根源的な在り方、精神があると、その思いは私のなかでは確信めいています。
農業が滅びるということはそんな精神、心が無くなるということであり、社会は惰性のままに破局へ向かうだけなのだろうと思えます。
私は専業の販売農家ですが、農業には市場経済には収まりきらない深さと広さがあり、どうにか食っていければこれほど充実感を得られる仕事は他に無いと思っています。
全身全霊総力を挙げて完全燃焼する場として、農業は私にとって最適であるようです。
posted by 明石 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年09月27日

菜園作り

瀬戸ジャイアンツはまだ日々出荷中ですが、作るということでは本年度作のブドウはとっくに終わっていて、午前中は出荷、午後はブドウ以外の作物に漸く取り組み始めています。
9月になってブドウとブドウ以外の園地の草刈りも一通りは終わって、やっとミカンにも手が届き、現在自家用野菜の秋播き秋植え中です。大根、ホウレンソウ、白菜、キャベツ、ごぼうを200uの菜園に種蒔き苗植えしながら、とうとう野菜作りにまで領域を広げ始めたかと、なんとなく笑えて来ます。
就農以来一昨年親父殿が亡くなるまでの25年間、私の農業は完璧にブドウ作り一事のみで、親父殿の死後ブドウ以外の他の農地をどうするかという待ったなしの問題を突きつけられて、ブドウのみからブドウ以外へもと展開を広げ始めています。野菜作りなど全くの未経験でど素人ですが、種を播いたり苗を植えたり未知の世界に踏み込んで行こうとすると、どこか新鮮なわくわく感が湧いてきて良い気分転換になっています。
植物の生理構造はそう違わないはずで、一事は万事に通ずる的に、他の果物でも野菜でも作ることに何の躊躇なく、未知な分野に足を踏み入れると新たな経験や発見が得られる楽しみがあります。万事とまではいかなくとも、一事から百事くらいまでは広げてみようかと思ったりもします。
ふと気付いたのは、例年この時期はブドウ一作の疲れがどっと出てぐったりしているのですが、今年は何故かそれが無い。私の農業暦27年で最悪とも言える8月のあまりの悪天候に、全身全霊闘争心に火が点いてしまったことと、ブドウ以外のことへ手を回せる日々を待ちわびていたということがあるのかも知れません。
親父殿の死、自分の病を経て、加えて60半ばという自分の年齢を考えると、何でこれほど動けるのか、働けるのか、元気なのか、一体どうなっているのか自分が不思議に思えたりします。
posted by 明石 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年09月20日

米価の下落から

米価が過激に下がっているようです。魚沼の「コシヒカリ」が一俵(60s)が12000円、宮城の「ひとめぼれ」が8300円まで下がり、このままだと晩稲は7000円未満の史上最安値を更新する恐れもありそうです。
米一反(10a=1000u)作るのに18万円のコストを要すると言われていますが、収穫量は一反あたり7〜8表が全国平均で、一俵あたり12000〜14000円としても10万円がやっとという売価です。これが8000円になると6万円程度の売価となりコストの3分の1程度で、規模の大小を問わず米作は不可能となるのは明らかです。
農政は意味不明の大規模化一策のみですが、大規模化してどこまでコストを下げられるか算出根拠を明示すべきで、1俵あたりの単価が1万円以下となれば、大規模化しているほど桁違いの赤字に陥るだけなのだろうと思います。
日本の農産物は海外産に比べて高いとは誰でも言えますが、生産資材や農機等がこの20年でどれほど値上がりして、現況の生産コストがどれほど高くなっているかに言及する者が、政治家、官僚、評論家あたりでもほぼ皆無なのは、農業の実態が全く分かっていないということであるのだろうと思っています。
日本の農業が壊滅的な状況にあるのは、販売金額が生産コスト以下であるという、極めて単純な論理に集約できます。
販売金額が生産コストを上回れば、壊す一方にしか作用しない農政がジタバタしなくても、農業は放っておいても再生します。それには農業を寄ってたかって食いつぶすような、農協、資材、機材業者等、市場関係者、消費者という農業を取り巻く構図が変わらなければどこまで行っても同じです。
他産業での工場製品などは生産コストを基に価格が設定されるのが極めて当たり前ですが、農産物は生産者はカヤの外で、商売人が生産コストを無視して商売上の都合だけで価格が決められ続けてきました。長く続いたデフレ不況、ことにリーマンショックの前年の原油高不況あたりから、市場価格は安く更に安くと過激に下がり続け、その間にも生産資材は毎年値上がりを続けて生産コストは上昇し続け、農業農家を壊滅的にまで追い詰めたのです。
極めて単純な農業再生論理は、市場価格が現況の2〜3倍になるか、生産資材や農機等の価格が2分の1〜3分の1になるか、あるいは市場価格が2倍で生産コストが2分の1になれば、放っておいても農業は再生します。
市場価格に生産コストが反映されないという理不尽さは、産業として自立不能を意味します。生産資材、農機等がバブル崩壊後の20年でもどれほど値上がり一方できたのかも呆れるほどです。
業者指定の補助金制度は、補助金の分だけ価格が上乗せされて農協と業者が潤い、実は農家は食い物にされているだけなのです。海外に国内の半分の価格で農機を輸出したりするのをみると、実は本当は半額で出せるのに、半額補助金制度が価格を倍にしているのだろうと思ってしまいます。農薬、肥料等その他生産資材も営利追求の農協は業者寄りであるため似たようなもので、生産コストがここまで上昇し続けた責任は農協にあると私は思っています。
市場価格が倍になって店頭価格が倍になると、これまで不当な安さに慣らされた消費者は、そんな高い物は要らないと安い海外産を選択するかもしれませんが、日本の農業を生かすかどうかは本当のところ消費者=国民の選択だと思います。生産コストを生産者と共に背負う覚悟がなければ日本の農業は終わります。
食糧は安い海外産で良いという選択はあって当然だとも思いますが、世界的には既に食糧難の時代に入っていて、加えて気候変動に伴う異常気象が世界の各地で農産物の生産に影を落として、この先ずっと海外調達できるかは不透明さを増しています。
食糧を海外に依存すると、何時どうなるか分からないというリスクは常にあります。国の基本は、国民を餓死させないために、自国の食糧は自国生産で賄うことです。日本では農業は軽視され踏みにじられ続けてきましたが、人が生きる上で食は待ったなしの最優先事項であるのは言うまでもありません。
日本の農業農家は困難を極めて疲れ果てています。農業を断念する割合が今後急加速で増えそうですが、あまりに粗末に扱い続けた結果、いずれ手痛いしっぺ返しが来るだろうと思っています。
posted by 明石 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年09月13日

獣共との攻防

軽トラックで園地を移動していると、イノシシと衝突しそうになることが最近やたらと増えてきています。生後3カ月ほどのイノシシ小僧の群れが至る所終日走り回っていて、数の増え方が半端ではないようです。
罠を仕掛けている猟師に尋ねると年間60頭ほど捕獲するとのことで、一人で60なら3〜4人の猟師があちこちに罠を仕掛けているのだから、どんなに少なくてもこのエリアで年間100頭は捕獲されているはずだのに、年々増える一方というのはこの50ヘクタールほどのエリアにどれほどの数が居るのか見当がつきません。
今年は親イノシシがハウスに侵入してブドウを食い荒らすということは無かったですが、どのハウスもサイドのビニールはズタズタに破られて、何とか入ろうとする執念をまざまざ示しています。ハウスの周囲を地際から20センチ以内の間隔で150センチほどの高さまでパイプを張り巡らせば、親イノシシの侵入は防げますが、イノシシ小僧とアライグマはその間隔では素通りです。
アライグマの食害は年毎に激しくなるばかりで、今年はピオーネだけでも400房は食われています。イノシシよりはアライグマの方が厄介な難敵です。一か月ほど前から瀬戸ジャイアンツのハウス2か所に、地際から10センチ、20センチ2段に鋼線をぐるりと張って、夜間100ボルトを流しています。電線を伝ってでも侵入するといわれる輩をどこまで止められるかの実験ですが、ほぼ一月は思う以上に効果があって目立った食害は無かったのですが、今週になって侵入と食害が日々目立つようになってきて、アライグマが本気になればやはりその程度のことでは防げないようです。
昨年から金峰みかんの再生に取り組んでいますが、ここも侵入防止柵をしないと一昨年のようにイノシシに全滅させられます。昨年はカブサイシンをまぶしたセーフティネットでイノシシの侵入を防げたのですが、今年は通用しそうもありません。
山間地域の農業は農地全域に獣防止柵を張り巡らさないと、獣共の食害で作物が全滅するのは、今や全国共通の難題です。獣害防止策等施設整備に費用がかかり過ぎて、作物販売額を上回ったりすると、それでは農業は到底無理ということになり、これが放棄地廃棄地が全国で増え続ける大きな一つの要因となります。
以前にも記しましたが、動物たちの側から見ると、人間の方が追い詰められて檻の中に入って行ってるように見えるのではないかと思ったりします。
posted by 明石 at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言