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2020年01月24日

温暖化 気候変動

昨年12月ポーランドで国連気候会議COP24が開催されましたが、温暖化防止の対策とかその成果になると相変わらずで首をひねってしまいます。温暖化に伴う気候変動で近年世界の各地で未曽有の気象災害が頻発していますが、地球の危機だと言っても世界は結束して対処することの困難さを晒すばかりで、本当のところどれほどの危機感を持っているのだろうと疑ってしまいます。「京都議定書」が出されたのは1997年ですが、温暖化ガスの排出量削減目標を数値化したりして取り組みを示したようにも見えるのですが、本当のところ世界の温暖化ガスの排出量は依然として毎年過去最高を更新するように増え続けているようです。
国連がリーダーシップを取る温暖化防止、気候変動、地球環境に関する国連会議をニュース等で長い間見てきましたが、結果的には掛け声だけで殆ど何もなされていないのと同じで、近年急加速で悪化している気象状況からすると、とてもではありませんが間に合わないし既に手遅れだと思っています。気候変動最悪のシナリオを変えるには直ちに世界が生活や生き方を変える必要がありますが、世界の実情は相変わらず経済最優先で温暖化対策は後回しか付け足しでしかないようです。
スウェーデンの少女グレタトゥーンベリさんをトランプ大統領やプーチン大統領が揶揄して、世界の実情、大人の実情が分からぬ小娘的に軽く一蹴していますが、大国のリーダー達がそれでは世界が動くはずもなく、ましてや自国の利益だけを考えているのなら世界のリーダーとは決して言えないはずです。都合の悪いことはフェイクだでっち上げだと片付けるトランプ大統領は、温暖化気候変動問題は科学者のでっち上げだと何が何でも経済至上主義ですが、世界の心理的実情は実はトランプ大統領に近いように思えます。
人は直接間接に過去のデータから経験値を得て、例えば気象庁が近年やたらと使う観測史上初というような未経験な領域は、実体験をするまでは想定外のはずです。東日本大震災の人的被害も、まさかあんな大津波が押し寄せるとは想定外の出来事であったことが、被害をとんでもなく大きくしたのは間違いないはずです。温暖化気候変動も観測史上初の連続で過去のデーターが役に立たなくなってきていますが、人は実体験するまでは今までそんなことはあったためしはないし今後もあり得ないだろうと、未体験な領域は信じようとしません。
更に厄介なのは人は私もそうですが自分は大丈夫、自分にそんなことは起こらないと、全く根拠のない自己神話を心のどこかに持っていることです。生まれてきた命には必ず終わりが来ると頭で分かっているつもりでも、まさか自分の命に終わりが来るとは最後まで思っていないのが本音のようです。温暖化気候変動による地球の危機も、そんな人の心理構造からするとまだ起こり始めで起こり切っていないだけに実感が乏しく、危機感を持つまでに至ってはいないと考えますが、ただ一つ明確なのは実感として危機感を持った時は完全に手遅れだろうということです。               続きます。
posted by 明石 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2020年01月13日

生活苦予備群

確か昨年11月のNHK「クローズアップ現代」だったと思いますが、全国の地方自治体に非正規職員が急増中ということが取り上げられていて、30分の番組を見終わるとここまで来ているのかと虚を突かれるようなショックを受けました。どうやら私は公務員神話に寝呆けたままであったようで、地方自治体は財政難と仕事の煩雑さに伴う人手不足との板挟みから非正規雇用職員を増やさざるを得ず、全職員の6割が非正規という自治体もあるとのことで、更に財政難が進めば地方自治の崩壊も寝耳に水的に急加速なようです。
そもそも非正規雇用は身勝手な企業の生態であり今後も増え続けるであろうと思っていたら、それが地方自治体の地方公務員にまで及んでいたとは、なんとも迂闊であったと思ってしまいます。財政難故に地方は地方税を増やすことに血眼で、その分住民には住みづらさが増していますが、更に財政難が進めば地方自治は成り立たなくなり貧しい地方から消滅するのは、何十年後かの話ではなく今まさにそうなりつつある現在進行形であるのに気づかされました。バブルが終わって不況な時代は公務員がもてはやされましたが、財政難が深刻さを増す一方という現状ではそれも既に昔の夢物語的に遠い過去となりつつあるようです。
私等団塊の世代からは年金だけでの生活は困難になっていて、どの程度蓄えがあるか否かで勢い圧倒的多数が生活苦或いは生活苦予備群となります。全国の全就業者の4割は非正規雇用で、公務員も非正規が今後とも増大一方だろうし、壊滅的な農林漁業第一次産業従事者、介護士、保育士等の低所得者を総計すると生活苦及び生活苦予備群は国民全体のどれほどの割合になるのだろう。生活苦予備群だと既に優に5割を越えているように思え、今後とも更に増え続けるだろうことは疑いなさそうです。
そんな下から目線で政治を見ると、政治は企業(特に大企業)や富裕層のの側にあって、全体の5割を超えるほど大多数の生活苦予備群からは隔絶された感があります。企業が元気で業績を伸ばしてこそ経済は好調を維持できるという原則論も、バブル崩壊後の長く続いたデフレ不況や挙句のリーマンショックを経てみると、企業は好調に黒字決算を伸ばしても内部留保に懸命で社員に還元することも後回し、営利追及という生態は本質的にブラックなのではと思ってしまいます。
富がほんの数パーセントの富裕層に集中する一方という傾向は世界共通です。資本主義とか経済至上主義は結果的には100人だと1人の金持ち勝利者を作って残り99人は全て貧乏人敗者とするようです。富を独占しているのだからこの1人の金持ちに資産に応じた税金を払ってもらわないと、消費税のように等しく全体に課税すると、貧乏人は更に貧しくなるばかりです。抜本的な税制改革というなら資産に応じて課税額を決め、生活苦に喘ぐような人の税負担を最大限軽くするのが本当の公平公正さではないのかと思いますが、政治は富裕層からもっと税金をもらいましょうということは言いません。政治家の大多数が富裕層だからなのだろうと思ってしまいます。
posted by 明石 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年12月04日

私流 その源 

「私流」の源は「自分という一つの命を余すところなく生き尽くす」という処にあるのだけれど、言葉化して表現するのが難しくて、ひと月余り書こうとしては投げ出すことを繰り返していたのですが、どうやらここを棚上げして先送りしては不都合が生じるらしく、我慢して書き綴ってみます。
「自分という一つの命を余すところなく生き尽くす」は多分生涯を通じての私の基本的な生き方であるはずで、「命の完全燃焼」願ったり目指したりの展開に繋がっています。「一つの命」という見方をすれば、人も動植物も命あるものは全て個別で、代わりの無いかけがえのない個ということになります。それぞれ一つの命として生まれ、生まれた瞬間からその環境の中で精一杯生きようとする、命の尊さは人だけが特別であるはずがなく、等価と考えるべきではないかと思ったりします。動物達や植物が生きて在るからこそ人も生きられるという命の連鎖を思えば、人の命だけが尊いと思うのはとんでもない思い上がりです。
生きて在るからではなく、どんな劣悪な環境下でも精一杯生きようとするから、命は全て尊さを宿しているのだと思えます。それは多分根源的な本能であるはずで、全ての命は生まれたときにそれを刷り込まれているのだと思います。
人はよく生きる意味とか理由を見出そうとしますが、この命の根源的な本能に照らすと、それは本末転倒的におかしいです。何でそんなに生きている意味とか理由を得たいのか、意味とか理由のために生きるというなら、それを見失えば生きておれないことになるのか、何でそんな狭苦しく窮屈に生きたがるのだろうと思ってしまいます。
私は「自分という一つの命を余すところなく生き尽くす」ことを唯一の基本目標として、生きる意味とか理由を求めたりはしませんが、敢えて言えばそれらが結果的におまけ的に付随されることはあるかもしれないとは思っています。
「私流」ということに戻りますが、私は頭でっかちに生きることを極力避けて、「生身の燃焼」ということを標語的に念頭に置いて歩を進めてきた自分では思っています。何も持たず手ぶらで現実社会へ出て行って、体当たり的体験を重ねて世界を知り自分を知る「生身の燃焼」のベースは、私という感性であるはずだと思っています。必要最小限度以上に雑多な知識を持ち込みたくないのは、自分という感性を研ぎ澄ましていたいいたいからです。
「私流 ブドウ作り」も「私流 チヌ釣り」も、つまりは私の生き方そのものを体現していることになるようです。
posted by 明石 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年10月29日

私流(チヌ釣り編)

釣りに行かなくなって6年目になりますが、30年以上続いたことを止めても今のところ、釣りをしたいという蒸し返しは殆どないようです。別に釣りを止めようとか思った訳ではありませんが、宇和島あたりへ日帰り釣行すると疲れが3日も残るので、それが億劫になって行かなくなっただけです。釣りも始めて20年くらいは向上心に燃えてやっていたのですが、今考えてみると地元大屋冨の筏で8時間余りで192枚のチヌを釣りあげ、吐き気がしてもううんざりした時、そこをピークに向上心を失くしていったような気がします。
釣りを始めたのは30歳頃で、当時私は会社でもプライベートでも余暇は野球ばっかりで、会社の上司に3年がかりで口説かれてやむなく釣りに同行したのですが、教えられた通りに釣るといきなり35センチのチヌを釣りあげてびっくりです。その衝撃が強烈でチヌ釣りにのめり込むことになったのですが、釣り方を教えてもらったのもこの1回限りで、後はここを起点に釣りの世界にまっしぐら、10年くらいは仕事をしていても頭のどこかでチヌが泳いでいるほどでした。
海の底は見えていないから想像力でどこまで真相に迫れるかです。竿の穂先に出るアタリだけで海の底の状況を把握するには、経験をどれほど積んでその分析をどれほど正確にやれるか、ということになります。釣りもブドウ作りも対象が違うだけで、基本的に手法は一緒とだと常々私は言ってきましたが、それは今も変わりません。
私の釣りはチヌが主体で、赤土とか壁土とかに集魚剤を混ぜて土ダンゴを作り、エサを付けた針をそのダンゴに包んで海底に届け、着底後タイミングを測ってダンゴからエサの付いた針を抜き出しチヌに食わせる、中四国ではバクダン釣法と言われている釣りです。
ブドウなら生理構造ですが、魚なら習性をどこまで把握できるかで、習性は潮の流れの速い所と遅い所動かぬ所では全く違うため、同じチヌでも共通事項とその土地の独自性があって厄介です。
地元大屋冨の筏でギネス的な爆釣をしたのが多分釣り歴20年ごろのはずで、そこまでは瀬戸内とか鳴門の潮の速い所ばかりで釣っていましたが、その後は高知の浦の内や野見湾5〜6年通って、宇和島の吉田湾、北灘の「チヌ屋くまさか」へと場所を変えました。高知も宇和島も潮の流れが遅すぎて、食性が全くゆっくりしているので、私は特に鳴門の急流釣りでの瞬殺の合わせを得意としているので往生しました。
私の釣り歴は34年ほどで止まったままですが、通った釣り場では殆ど数釣りの記録は大幅に更新しているはずです。34年間でどれほどのチヌを釣ったのか、記帳記録するほどマニアックではないので分かりませんが、多分大雑把に言って2万匹は越えているのではと思っています。私はハラミチヌは釣りたくないので春はチヌ釣りをしませんが、年7〜8か月はチヌをターゲットにしていました。夏から冬まで、潮の急流から動かぬ所まで、いろいろな場所でいろいろな気象環境の中でチヌを釣り続けて、穂先に出るチヌのアタリを見続けると、所によって季節によってまた時間によってもそのアタリは全く違うものであったりします。
それを克服して釣りあげた2万匹は、別にその数がどうだとは思っていませんが、そこまで釣らないと言葉では伝えきれない感覚みたいなものがあるようです。
釣り座に座ってチヌと向き合う時、どんな食い方をしてもチヌのアタリだけは見抜ける確信があると、その自負は多分誰よりも強く持っているのかも知れないとは思います。
posted by 明石 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年10月28日

私流(ブドウ編)

私が就農したのは38歳の時ですが、施設栽培で種無しピオーネを作るにあたって、一つ私が心に決めていたことは、作る前から書物などで雑多な知識を詰め込まないということです。実は私の父も、あいつは頭で勝負するタイプだから本など読んで知識先行で理屈ばかり言うのではと懸念していたようですが、私は現場主義というか未経験な領域では先ず白紙状態で経験を積み上げることを優先します。
農家の息子とはいえたまに手伝うことはあっても、主体で作るという意味では農業経験はゼロで、ブドウを作るにあたって手元にあるのは、生産工程及び防除暦を箇条書きに記したA3用紙一枚のマニュアルと父の通り一辺倒な大雑把な知識だけです。ここからブドウ作りをどう展開したかは、以前ブログに記したこともありますが、自分の感性主体のひたすら体験学習です。
毎日園内の最低最高気温とか天気状況を分厚い一冊のノートに記録し、ブドウの生育状況と作業状況をもう一冊のノートに記録しながら、ともかくブドウの状態の変化をひたすら見続けます。特に私が注目し続けたのは葉の状態です。活力の高い樹を作りより高品質な果実を得るには葉と根こそがその源であるはずだから、目に見える葉の状態を目を凝らして見続けます。それは何年も何年も続くと、朝園地に入るとむき出しの腕の毛穴がざわつくような皮膚感覚があって、微妙な変化を目より早く感知していることもあるほどでした。乳幼児とか動物の一瞬で敵味方を見抜くあの直観力をどこかで思い描いていたのかもしれません。感性を研ぎ澄まして真理に迫れ、その思いは私の中では何事に対しても基本となっているのかもしれません。
天気状況と生育及び作業状況を2冊のノートに記録し続けていくと、2年や3年では分析対象となるようなデーターにはなりませんが、5年以上になるとそれなりのデーターとなり、現在では30年以上となって分厚いノートもそろそろ6冊目になりそうです。私はこのデーターを分析して、ブドウの生育状況と温度との関係とか潅水のタイミングとか、すべてを自分の経験値記録値から割り出します。
ブドウに関する著作を読まないようにしていましたが、病気や害虫とか農薬の専門書とかは別で、最初から手元において事あるたびにその正体を調べていました。ブドウに取り組んで20年が経ったころ、ブドウに関するどんな著作を読んでも構わないと、初めて自分に許可を出しました。20年もデーターを取り続けてそれを分析し続けると、ブドウの生理構造を基本的に的確に把握できていたと思うし、唯一のたたき台としていたマニュアルの不備もことに加温栽培での設定温度のでたらめさなど、早々に見抜けていました。またブドウの大産地の常識常道が、作り手の都合でブドウの健全な生育を捻じ曲げているところがあるようだとも早くから思っていました。
20年後に読書を解禁してブドウの作り方的な本を何冊か読んでみましたが、正直そこから得られるようなものはあまりなさそうでした。書かれていることが正しいか否かは自分の把握していることから即座に判断できるし、学説と現場のズレみたいなところが本には多々あって、その後その類の本は二度と読みません。
始める前に雑多な知識を詰め込まないで、何も持たずに現場へ出て、そこで体験学習を通じて生きた知識を積み上げることを基本とするのが私の流儀です。始める前に雑多な知識を詰め込むと、却って真相が見えにくくなり右往左往迷走して、自分を確立するのが遅れるのだと思っています。
ブドウ作り30年余りに渡って積み上げたものが、ブドウに関する全ての著作を上回るほどにブドウの全てを把握しているかと言えば、それはないです。30年を越えてでも新しい発見は次々とあるし、どこまで行っても完璧など到達し得ないのだろうと思っています。自分が相応に確立されているなら、自分以外の他者の視点に触れて新たな発見発想を得ることもあるだろうし、ブドウ以外更には農業以外のところでもブドウに関する新たな発見発想を得られることもあるはずだと思っています。
posted by 明石 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年10月19日

方向転換(未知との遭遇)

やっと秋らしく涼しくなってきて、我に帰るというか、暑さの中影を潜めていた書くことに向き合おうとする自分に辿り着きそうです。無理をしてまで書くことに向き合う必要はないとの思いは常に何処かにありますが、書くことへの欲求がそれを上回れば自ずと従うまでです。雑念や邪念から離脱して、ごく単純に書きたいことを書きたいように書くだけです。大切なのは自分の内に湧き起こる欲求です。70歳を迎えるにあたって更に活性を取り戻そうと、私は私の内なる欲求に耳をより傾け続けています。
先日ミカンの苗木を70本予約注文しました。ミカンはある程度採算が出るようになるのに10年は要しますが、70歳だと10年後は80歳だから自分でも笑ってしまいますが、でもこれをやるとやる気と元気がみなぎってきて活性が高まります。10年後の80歳でも苗木を植え付けるほど元気であればと、そう思うとなんだか嬉し楽しくなってきます。
私は60代半ばから生き方を真逆に方向転換してきているのです。あまりに早すぎた終活というか、奥さんと二人でできる程度に生産規模の縮小を60歳ごろから始めて、気づけば終活サイクルに入ってしまっていました。終活とは終わり支度だから面白くなさが募るばかりで、60〜65歳ごろは秋が来ると早くお迎えが来ることを願ったりしていました。終わるための準備は終わりそのものを引き寄せる結果を招き、終わりを待つだけなら自分で終わらせてしまおうかと思うくらいストレートで短絡的なところが私にはあるのですが、60歳を過ぎての自死はさすがに今更なんだと思ってしまいます。まして終わりたい理由が生きるのに飽きたというのではプラスにもマイナスにもエネルギーの充填ができません。
60歳に到達したとき、60歳まで生きられたのならもう何時終わってもいいとの思いに包まれたりしました。八方塞がりで今日死ぬのか明日死ぬのか、死の想念に囚われていた20歳の頃、自分を叩き壊して濁流に身を投げるように生の側へ帰還したのですが、30歳までは生きられないだろうと思っていた自分からすると、60歳を迎えたことは十分すぎるほどの到達感がありました。
60半ばからの方向転換は、活性を取り戻すために自分の欲求に耳を傾け、年齢とか外的要因でそれをスポイルしないことです。先日ミカンの苗木を70本注文したと言いましたが、本格的に出荷販売するのに10年は要するものを70歳で植え付けると80歳でやっとということになります。終活路線だと在り得ないことですが、5〜6年前からブドウを止めたハウス跡にミカンの苗木を植え付け始めてから、次第に加速して、それが終活サイクルを打破したのです。特に4年ほど前から毎年50本以上の苗木を植え付けて、その度にやる気と元気が出て私は活性を取りもどしています。
65歳から始めたカラオケもその一つで、カラオケ大嫌いだった私がまさかカラオケ通いするようになるとは、未だに何かの間違いみたいな感はありますが、予想もしなかったような自分と出会うことは可能性が新たに広がるようで楽しいです。よりフリーに生きようとするなら、自分はどうなのだと自己規定するのをやめて、自分の欲求に耳を傾けてそれを大切にすることです。最近は週一回程度の一人カラオケが多くなっていますが、確か5年目に入って思うことは、思いっきり声を出すことはストレス発散とか呼吸器系統とか心身ともに凄い健康法になってるようです。CDに自分の歌を取り込めば別に文章なんか残さなくてもいいか、と時たま思うことがあるほどです。
そのうち若い彼女ができたりするかもと奥さんに言うと、「あんた金持ちじゃないから若い子が相手にしないわよ!」とばっさり。活力を高めて元気でいようとするなら、自分から老け込まないことです。年輪は年毎に刻まれて外側へと広がりますが、コアの部分は動脈硬化とか起こさない限りあまり変わらずにあるようです。そこを枯らさずに持続することが活力を高め活性を得る最大のポイントなのだろうと、私の方向転換は年齢に背きます。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年08月28日

雨ばかりご難続きの瀬戸ジャイアンツ

今日も雨、昨日も雨、明日も明後日もネットで見ると9月10日頃までの予報は雨ばかり、9月から出荷予定の瀬戸ジャイアンツはどうなるのだろうと思うと実にイヤーな感じ。熟期に雨ばかり降り続くとどうなるのかはここ5〜6年毎年のように嫌というほど見てきました。糖度18度以上で噛めばコリコリ音がする食感でという品質目標に到達不能になるばかりか、果実の表面にカビが生えて腐ってしまうという事態を、ここ5〜6年程度の差こそあれ毎年のように見続けています。予報通り9月10日頃まで雨が降り続くなら、今年が我が園の瀬戸ジャイアンツ史上最悪になるのではと思うと、腹立たしさや怒りがこみ上げてくるのを抑えようがありません、お天気に翻弄されるのが農業の宿命とは言え、最後の仕上げのところで谷底に突き落とされるのでは、お天気様だろうと神様だろうと食ってかかりたくもなります。
先の台風10号の時、強風を恐れて屋根被覆は天井の柱に束ねて縛り付けていたのですが、その後雨ばかりの予報で台風通過後すぐにまた広げました。台風の度に屋根被覆を蕾めたり広げたりするのはもう止めようと思っていても、ブドウを助けたい一心で結局はこれを繰り返します。数年前台風がやたら頻繁だった年、7月〜9月で計8回も屋根被覆を蕾めたり広げたりを繰り返した挙句、結局半分近くカビが生えて腐ってしまいほとほと疲れ果てたことがありますが、今年も予報通りだと最悪を更新するのではと嫌な予感が頭を掠めたりします。
現在園地の状況は、5〜6年生の若木を主体に6割程度は糖度17〜18度に達していそうで、皮も熟れてきています。あとは果肉の締まりというところですが、こうも雨ばかりだとそれも難しくなる一方だし、待つほどに糖度も下がりカビが生えて腐りが広がるのは目に見えているのだから、晴れ間が望めないのなら来週から出荷する決断をしなければと思いを定め始めています。
posted by 明石 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年07月20日

やっと満水

先週11日から4日間雨が降り続いて、100ミリには届きませんが計45ミリほどの雨で、貯水池や貯水槽はほぼ満水となって、夏場を乗り切る水が確保できてやれやれやっとほっとです。今週18日19日の2日間で計80ミリほどのダメ押しの雨、もう十分だよと水が確保できた途端に迷惑顔に変わります。
3日前ピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの糖度を測ってみたのですが、熟成の早い樹では18度は乗っているようで、来週からの出荷はOKです。後は梅雨が明けて日照が戻ると、一週間ほどで熟成は過激に進むはずです。今年も何とか出荷に辿り着いたかという思いは、農業の現場は近年それほどままならぬお天気に追い詰められてきていることの裏返しです。
今年は春先から雨が少なく水不足干ばつへの不安を書き綴ってきましたが、近年11月12月が次第に暖かくなってきているのも不安材料の一つです。落葉樹は落葉して休眠に入ると、7度以下の低温に500時間以上置かれないと休眠から目覚めないそうで、種によって多少の違いはあっても概ね同じなのだろうと思っています。7度以下500時間というのは暖冬になると、一体何時になったらクリアできるのか厄介です。
私は3か所計40aのハウスでブドウを作っていますが、被覆の時期を各2週間以上ずらしたり1番手を加温したりして、3か所の生育状況を2週間ずつずらそうとしますが、500時間クリアが遅れて今年も昨年も萌芽発芽が3か所ほぼ一斉となって叶いませんでした。ことに1番手2番手は全く同時で、その後の寒暖の差の激しさで、加温無加温の違いで生育状況に1週間程度のずれを確保できた次第です。
7度以下500時間以上をクリアするのがこれ以上遅くなると、萌芽発芽が露地栽培と同じになったり、更には被覆の施設栽培の方が遅くなったりすることもありそうな、暖冬も落葉樹には瀬戸際にかなり近づきつつあるようです。
もはや異常気象とは言えないのだと思います。気象庁が言う足して20で割るような平年はもともと存在しないし、その近辺で収まるお天気を常態とするなら、常態を脱してから既に10年は優に越えてます。過去の経験データーが役に立たないほどに、気候変動は史上初を連発するような未知な気象領域に入りつつあり、自然の中での営みである農林漁業者は自分の肌でそれを感じ取っているはずです。残念なのは地球の自然環境が壊れてゆくことに伴う気候変動であるため、可能性が閉ざされてゆくような未来予想しか描かれないことです。
posted by 明石 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年07月11日

袋がけが終わって

瀬戸ジャイアンツの袋掛けも終わって今年のブドウ作りも一段落です。
草を刈ったり潅水したり芽をかいだり日々の管理は続きますが、ブドウの仕上がりは日照とかお天気次第で、袋を掛け終わると既に私の手から離れています。今年は春先から雨が少なく水の心配で苦しめられましたが、梅雨入りしたとは言え依然雨は少なくいまだ水不足不安が解消されてはいません。100ミリ程度のまとまった雨があれば全部の池や水槽が満水して不安から解放されるのですが、降りそうな予報も近づくほどに消え続けています。
農業の難しいところはままならぬお天気に翻弄されて、時には壊滅とか最悪なことも起きたり無力感に打ちひしがれることもあるのですが、相手が自然だから理不尽とも言えないのです。ここ10年程前から気候変動に伴う異常気象が頻発して、過去のデーターが全く役に立たないほどに毎年史上初のとんでもない天気に晒され続けています。その自然環境下で営まれる農林漁業の第一次産業は生産が厳しく困難なものになりつつあります。
関東あたりは今極端な日照不足のようですが、大雨とか干ばつとか巨大台風とか、何が起こるのか分からないのだけれど何でも起こり得るという気象への差し迫った不安が私等生産者に重くのしかかっています。ここ瀬戸内地方は元々雨が少なくことに香川県は干ばつ水不足の頻発する地域で、そのうちとんでもない大干ばつに見舞われるのではとの不安が私の内にあります。ブドウ作り30年の間に水不足でブドウが出来損なったことが実際に何度かあって、その情けなさを何度か味わえばナーバスになって当然です。
今年は水が底をつきそうになったり水不足の不安で苦しめられたとは言え、実際には通常の潅水をここまで続けられて、ブドウの粒張り等品質も良好のようですが、一点本当に頭にくる腹立たしいことがあります。6月半ば過ぎから今年もアライグマの出現です。どれほど苦労や心労を重ねてここまで辿り着いたか、こいつらは一切関係なく毎晩袋を破ってはブドウを食い散らかします。アライグマの食害はもう10年以上続いていて、一番多い年だと1000房近く食べられて、これ以上被害が増え続けるとブドウを作れなくなると蒼ざめたのですが、その後どんな防御策を講じても侵入を防げませんでした。周囲に電線を張って電気を流しても効き目があったのは一晩だけ、ペットショップで犬の毛をもらってきて周囲に100か所以上ネットに入れて吊るした時はひと月ほど防げたのでこれで行けるのかと思ったのですが、次の年には全く効果なしでした。東南アジアのカブサイシンという最強の辛子をまぶした辛子ネットも全く効果はありませんでした。国や県の農業試験場辺りでもアライグマに対処できないということでは、個人の生産者ではこれまたとんでもない難しさです。
本来日本にいない外来種が東京都心とか全国で増え続けて、日本古来の生態系はズタズタにされて絶滅の淵にあるようです。外来種のもとをただせばペットとして入ってきたというのが圧倒的です。アライグマによる食害ももとをただせば人災ということになるのは当然です。
犬とか猫とか家畜とか古来から常に身近にいた種は別に、可愛いからと言って自然界に住む動物をやたらペットにしたがるのは、所有欲独占欲等人間の思い上がりで動物愛とは極端に隔たったものだと私は思っています。ペット欲ではなく本当に動物愛があるなら、地球上の人口を減らして、減らした分を自然に帰して、動物に返すところまで行かないと、本物ではないとついでに言っておきたいです。
温暖化の影響で北極海に流氷が無くて白熊が何か月も猟ができなくて、やせ細ってふらふらの映像を何年か前見ましたが、常駐する監視員は絶対にエサを与えない。人間の手が入ると自然界の法則が壊れるからです。監視員は倒れていく白熊を涙を流しながら見続けていますが、それでもエサは与えない。本当の愛はそれほどに厳しいものだと映像はつたえて、見てるこちらも涙ぐんでしまいます。
posted by 明石 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年06月22日

梅雨が来ない6月

先週15日の土曜日、やっと雨が降りました。63ミリの雨量で、久々に雨水が貯水池に流れ込んでいるのを見てほっとしたのですが、翌朝見ると水の流入量が嘘みたいに少ない。通常50ミリを越える雨だと3〜4日は勢いよく流れ込むのですが、それほど地面が乾いてて水が吸い込まれたのかと驚きます。予想外とは言えそれでも全5か所の池や水槽に半分程度には雨水が流入したため、5回5週間程度の水が確保できたため一先ずピンチは脱しました。
今年は春先から雨が少なく4月頃から水の心配ばかりです。2月程度の水は確保していたのですが、5月から6月中旬までの1月半の総雨量が14ミリとまで雨が降らないと、さすがに水も底をつきます。先週一通り潅水して後1回分の水があるかどうかというところまで来ていて、一体何時になったら雨が降るのか、梅雨が来るのか、ストレスが眠りまで圧迫しているようで、ブドウ作りの一番忙しい時期と重なって、疲れ方が異常です。仕事を終えて家に帰り横になるとすぐ寝入ってしまいます。何も考える暇がないくらい精一杯仕事をしているのなら充実しているのだけれど、どうにもならない天気にただひたすらストレスをため込んでいるのです。
ブドウは今粒の肥大期です。過去に何度か経験していますが、この時期に水がないと粒は小さいままで商品にならないバラ房になります。今年駄目でも来年出直せるかとなると、干ばつで早々と葉を黄葉させたり落葉させたり樹を傷めると、来年以降も品質低下は免れません。一年生の野菜や花と違って果樹は多年生で、一年一年をしっかり作ってその連続した積み重ねがあって、品質の維持向上が計れるのです。一年でも樹を傷めるような天気とか事象があれば、成木ほど品質は下降線を辿ることになります。
お天気に傷められてまた苗木にやり替えるのは理不尽ですが、この理不尽は農業の宿命です。ブドウの施設栽培を30年続けてきて、どうにもならないお天気ばかりを気にするのはもううんざりだというところもあります。ミカンに移行を目指すのはいろんな事情や理由が絡んであるのです。
posted by 明石 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言