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2017年07月22日

週3回も通い続けて

どこまで声がでるかが主に声域と声量の問題であるならば、どうやって声域を広げるかがまず課題となります。私が考えたのは、高い曲はより高く、低い曲はより低く歌うことです。喉を傷めないために、できるだけ素直にストレートに声を出すなら、童謡唱歌などが最適かもしれないということです。「荒城の月」をことのほか歌い続けましたが、付け加えるなら、できるだけ綺麗に声を出せる曲というのも、発声練習には大切です。
今出せる高さの一つ上の高さにして足掻き続けて、そこをクリアできれば更に一つ上の高さに設定して、と階段を一段一音上がり続けます。声量の問題はこの高上がりの中に自ずと含まれます。限界を超えようとすれば、体全体を振り絞っても声を出そうとするようになり、多分その時、腹式呼吸とか声量に関する課題も、実践で突破しているはずです。気をつけなければならないのは、限界を攻めるのはやり過ぎると喉を傷めるだけなので、一日数回程度までとしたほうが良さそうです。
声域が広がるとはあまり期待していませんでしたが、週3回カラオケ通いで実践が始まると、驚いたことにほぼ一月で一音高さが克服されることです。一年足らずの期間で一オクターブ高音域が広げられた時には、あまりの予想外に驚いたり感動したりでした。
常に一緒にカラオケ通いをしたY氏も私と同様ほぼ一オクターブ高く声域が広まって、高くて歌えないと言ってた数々の曲が楽々と歌えるようになりました。一年前とは別人とも思えるほどで、嘘みたい。
声域を高く広げるために私がよく歌ったのは、三橋美智也「古城」、クリスタルキング「大都会」、夏川りみ「芭蕉布」、「花」、八神純子「みずいろの雨」、アニメでは「もののけ姫」等のハイトーン曲で、いずれも原曲キー+3音以上で発声できるところまでは到達しています。
声域が高く広がっても低い声が出なくなって、高い方へシフトしてしまったのでは意味がないので、必ずやるのが低い歌をより低く歌うことです。美川憲一「柳が瀬ブルース」、フランク永井「おまえに」など原曲キーからー4くらいでは発声することを心がけてきました。欲が深いとも言えますが、高い歌はより高く、低い歌はより低く、真似ができないほどのレベルを密かに目指すということも、私ならあるはずです。
自分達の経験から一つ伝えるなら、より高い声を出したいなら裏声はできるだけ使わないようにということです。やりかたを間違わず足掻けば、高い声は出るようになります。裏声に逃げたらその芽を自分で摘んでしまうことになりますよと、10代とか若い世代に特に言いたいです。
posted by 明石 at 12:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年07月18日

初めてのカラオケボックス

結局2年余り後、初めてカラオケに行ったのですが、自分の意志でありながらショックは大きく、行く途中信号無視をしてしまうほど頭の中は茫然自失状態でした。同行したこれもカラオケに行くはずのない私と同タイプのY氏も、良く似た精神状態であったようです。
部屋に入って最初の1曲目はさすがに雲の上の住人でしたが、2曲3曲と進んで行くと、別にスナックで歌うのと変わらなくなってきました。初めてカラオケボックスに行ったのは多分、親友以上の悪友北村氏の死の前後だと思いますが、正確には覚えていません。
ブドウ作りに本腰の4月〜8月は殆どカラオケに行きませんが、9月〜3月は週3回昼から6時間Y氏と交代で歌い続けました。一人35曲以上歌うのはまちがいありません。一昨年、これが最初の年です。
2人ともレパートリが極端に少ないため、レパートリを広げるため手当たり次第というやり方を最初は取ったのですが、どこまで声がでるようになるか、どこまで歌えるようになるか、漠然とした目標が先ず私の頭の中にあって、進む方向はそれを具体化することであったようです。
60代半ばになって初めて歌に取り組んで、どこまで声がでるようになるのか、どこまで歌えるようになるのか、自分たちを素材にしたカラオケ実験を始めたのですが、正直年齢からしてもそう期待はできないだろうとは思っていました。
posted by 明石 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

歌えない!

なぜカラオケに行く気になったかと言えば、これまでブログに書いてきたように、還暦同窓会を境に、同級生との付き合いが復活したことが原因をつくりました。年に数回一緒に飲みに行くようになって、最後はいつもスナックでカラオケとなります。私は歌は聞くのも歌うのも好きではないので、最初の頃は飲み会はストレスを残したりしましたが、回数を重ねて三年目を過ぎるころには、自分のなかにどこか変化が生じてきました。それまでしぶしぶでも歌わざるを得ない場面で私が歌ってきたのは、高倉健さんの「唐獅子牡丹」「網走番外地」、渡哲也さんの「東京流れ者」「あいつ」のせいぜい4曲で、ほぼ40年もレパートリはこの4曲だけでした。
そこまで言われるなら歌ってやろうと思い始めたのは3〜4年目頃からで、うんざりするような4曲から脱出すべく、レンタル屋に生まれて初めてCDを借りに行きました。
驚いたのはうちの奥さんです。結婚して30年以上になるのにお互いの歌など、姪の結婚式でデュエットしたその1回1曲以外聞いたこともないのに、ある日突然夫がCDを聞きながら歌い始めたからです。歌うどころか歌番組でも毛嫌いしてきただけに、頭がどこかおかしくなったかと奥さんが疑うのももっともです。
きっかけはどうあれやり始めると次第にハマッテ凄まじくなるということが私にはありがちです。飲み会が近づくと毎夜歌のレッスンで、覚えたての歌3〜4曲用意して、意気揚々飲み会に出かけます。
ところがマイクを持ってカラオケに向かうとトラブル発生。歌えないのです。CDとは別物で、キーも編集も違うということが、カラオケには多々あります。CDで覚えてもカラオケ仕様でないと歌えないのかと愕然とした時、カラオケに行く必要を初めて知ったのです。
が、まさか、カラオケに行く気にはさすがになれず、曲を覚えるほどに必要性をますます覚えながら、どこか悶々とした状態がしばらく続きました。
posted by 明石 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年07月17日

晴天の霹靂

ブログを更新しなくなって2年4カ月、巷では私はこの世にいないのではとも囁かれていたらしいですが、人の生死はそんなものだろう、姿をぷっつり見せなくなるのはまさに死であるから。退いて見ると、命は本当にあぶくみたいなものなのだろうと思ってしまいます。終わってしまえば跡かたもない。何かを残したいと言うあがきは、時間を多少膨らませることしかできないのに。
ブログを更新しない間私がなにをしてたかって?ブログを書こうが書きまいが、私は私で私に変わりはないです。読者にとって存在するかしないかだけの問題であって、関係性の中での存在ということでは全て同じことです。
本題になかなか入らないので自分でもいらいらしてきました。ブログの更新を止めたのと同時に始めたのが、カラオケです。私はそれまでカラオケ大嫌いで、俗悪な低脳文化と決めつけていたり、自分がカラオケに行くなどとは、歌は聴くのも歌うのも大嫌いということもあって、夢にも在り得ないはずのことでした。
それが自分の意志で行くようになるとは、それこそ晴天の霹靂で、そのあまりの変節を次回から語ってみようとおもってます。
posted by 明石 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2015年03月18日

桜の咲く前に

朝10時頃、園地に上がって来たうちの奥さんが、「北村さんの奥さんから電話があって主人が亡くなりましたって。」と言う。春までは持たないだろうとは思っていたのですが、それを聞いて、とうとう逝ったかという思いをただ噛みしめていました。
昨年3月、直腸から前立腺とかいたるところに癌が転移しているため手術は不可能で、抗がん治療で持って半年と医師に告げられていましたが、医師を見返すようにちょうど一年持ちこたえてあっさり逝ったようです。
彼、北村(旧性)登氏は私の高校時代から50年来の友人で、私はずっと悪友だと言い続けてきましたが、私流の定義からすれば、親友が世間常識的に特に良好な関係の友人であるなら、悪友はその枠をはるかにはみ出した関係の友人であるのだから、悪友は親友以上だということです。事実、社会にすんなり適応できないような青年期はよく似たところもあって、20代の半ばになってやっとまともに就職したというのも共通です。
昨年3月に見舞った時、あと半年だと言われたと落ち込んでいるので、「心配するな。お前だけではない。生きてる物は全部死ぬ。早いか遅いかだけだ。元気そうに見えても若くても明日の命は分からない。そんな危うさの上にある命に気づかず、自分は大丈夫だと盲信しているだけだ。」と言うと笑いながら、「相変わらず凄いことを仰る、けど、それはその通りだ。」と少し寛いだ表情をしたので、自分だけがという自縛は解けたように思えました。
以後月に一回は見舞おうと、それはその通りに実行したのですが、次第にやせ細り衰弱して終わりに向かって行く様を見るのが辛くて、これ以上そんなあいつを見たくないとの思いが昨年末頃私の中でピークに達していました。
今年になって、そんな自分が愚図ってなかなか見舞う気になれないでいると、この時期持ち歩かないで机の上に置いてある携帯電話に、やたらと彼から着信が入るようになりました。電話をすると間違って押してしまったととぼけるのですが、何度もそういうことが続くと私も腰を上げざるを得ず、友達なら最期まできちっと付き合えよと自分に言い聞かせました。
彼には私と同程度に見舞っている友人が他にも2人居て、幸い同じ高校の同級生なので、一度3人で一緒にと声を掛けて、2月下旬に3人一緒に見舞ったのですが、結果的にはこれが最後となってしまいました。私的には多分彼の一番親しい友人であるだろう3人と彼とでミニ同窓会との思いもありました。私は高校からですが、他の一人は小学校以来というと60年近い、もう一人は中学校以来という、いずれも50年以上という友人の集いです。彼の頭の中は既に混線や断線がだいぶ進んでいたのですが、3人の話声の中に置かれると意識が焦点を合わせるらしく、呼び起こすようにわざと軽く悪口を言うと目をしっかり開いてはっきりした言葉を返してきて、それで病室に笑い声が響き、何時もだと一時間程度で退室するのですが、この日は二時間余り居てもあまり疲れた表情も見せず、多少でも楽しい一時にすることができたようだとほっとしました。
彼の葬式に出て、何か妙だ様子が違うと思ったのは、葬儀が始まる頃になってもお寺さんの姿は見えないし、花輪も盛花も盛果も無いことです。前日のお通夜のときは半信半疑だったのですが、葬儀が始まり司会者が故人の意志により自由葬としますと告げた時、あいつやったなと漸く合点しました。私は元来冠婚葬祭があまり好きでなく、葬式は特に嫌いで、仏の御心も金次第というような金儲け主義のお寺さんに腹立たしさのあまり、私が死んでもお寺さんにおつとめを頼むような葬式はしてほしくない随分前から広言していたので、無論彼も何度かは聞いていたはずです。その影響なのかどうかは分かりませんが、彼が先に実践してしまったのです。
お寺さん抜きでの葬式はどういう形にしたらいいのか、私が漠然と考えていたのは、参列者が故人の思い出話を語り合ってお見送りする形以外無いのではということです。だから、お通夜が終わった後、特に親しかった何人かに弔辞をお願いできますかと打診された時、まだ半信半疑ではありながら、弔辞という形式にこだわらず思いつくままフリーに語ってもいいのならやりますと答えたのです。そういう葬式を漠とでも私は思い描いていた上に、彼もそういう葬式を望んだのなら、少々恥をかこうとも私も応えなければと思ったからです。ひとつお願いしたのは、私の順番は最後にしてもらえませんか、私が先だと後の人に迷惑になるかも知れませんからということです。
葬儀は黙とうから始まり、在りし日の故人の写真を映像で流しながらのプロフィール、それが終わると弔辞となりました。お寺さん抜きの葬式がどんな形になるのか興味深くもあったのですが、参列者全員そんな葬式は初めてのはずで、戸惑いがあったのは私も皆と一緒です。
最初の人の弔辞が始まると、私もやっと何をどう語ろうか考え始めたのですが、何も考えないでマイクの前に立つと決めているので、前もって考える気がしません。弔辞ということにこだわらなくてもいいということで受けたのだから尚更です。それに自由葬と言うなら、本当の自由葬に少しでも近づけたい思いもあります。
順番がきてマイクの前に立つと、「自由に語ってくださいということで受けましたが、私がフリーで語るとなると、登君が何を言われるやら心配で目を覚ますかもしれませんが。」と切り出していました。
「彼とは高校時代から50年に渡る付き合いで、大学も彼が大阪、私が京都なのでしょっちゅう行き来していました。一時期彼が太宰治にメロメロになっていたので、太宰治の気に食わないところを3つか4つでも見つけてみろよと言ったことがあります。そんな文学的なところもあり、一緒にヤクザと喧嘩したこともあり、世間的な見方からすれば悪友になるのだろうと思います。」
「今日は彼の葬式ですが、私は彼が死んだとは思っていません。私の中では彼は生きているし、私が死ぬまで彼が私の中に居るのは間違いありません。3年前大学時代の友人が亡くなってから、死とは何だろうと改めて考えるようになりました。死んだら確かに本人は消えて居なくなりますが、関係性の中で消滅するかと言えば、彼のことを覚えている人が居る限り、関係性の中では存在し続けるということになります。彼を知る人が一人も居なくなった時、そこで彼という存在がこの世から消滅するのだと思います。」
何を語るか考えながら同時に不都合がないよう整理して言葉にしなければならず、綱渡りのようにとつとつと続けて、「不安とか寂しさで彼がじたばたするようなことがあれば言おうと思っていた言葉があります。必要がなかったので言いませんでしたが、今彼に言います。心配するな。お前一人ではない。皆そのうちそっちに行く。お前は先に逝ったのだから俺らに良い場所を探しといてくれよ。」と結んだのですが、さすがに口が粘って、水でも飲まないと、いっぱいいっぱいになっていました。
型破りなのは元々で、誰にどう思われようとか構わないというのもとっくに骨肉化していますが、北村よ この程度で勘弁してくれという思いだけは残りました。
葬式当日の午後10時頃、彼の奥さんから電話があって、「明石さん、今日は本当にありがとうございました。明石さんの言葉が私も息子も本当に嬉しかったです。」と礼を言われて、届いて欲しいところに届いたのならそれで十分です。「奥さん、私が言うのもおかしいかもしれませんが、あそこまであいつの面倒をみてくれたこと感謝しています。奥さんで良かったです。あいつにとっては奥さんがベストです。」と感謝すると、弾けるように奥さんは喜んでいました。
電話が終わってしばらくして、何かおかしい、親でも兄弟でもないのに何であいつのことで奥さんに感謝するのだろうと考えていました。
悪友が親友以上だとは思っているけど、ひょっとすると気がつかないうちに、あいつとは兄弟以上になっていたところがあるのかと、振り返ると社会からはぐれていたような青年時に辿り着き、あの頃を思えば不思議ではないと納得します。
これから先私の中で居続けるのはあの頃のあいつであるのは疑いようがなく、この一年間病室で見てきた見たくなかったあいつは既に忘れ去ろうとしています。相手が生きていようと死んでいようと、記憶に残るのはその人の印象度の一番強い場面であるようで、50年来の付き合いといっても就職後の印象は薄く、多分何も残らないのだろうと感じています。
死後他者の記憶の中で、良くも悪くも一番輝いていた頃の印象が生き続けるなら、それも悪くはないと少しは和んできたりします。

あいつが逝って2週間が過ぎようとしていますが、そんなこととは関係なく、畑では桃の花が満開となっています。001.JPG

posted by 明石 at 00:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2015年02月28日

5年目を終えて

ホームページを開設してブログを書き始めてから、今回で丸5年が終了します。
週一回の更新を一度も休むことなく5年間続けましたが、私には子供の頃からそんな性向があって、自分からやると決めたことは、もういいと思うまでひたすらやり続けます。
例のお茶会も同じです。4年間で欠席したのは入院していた時一回だけで、その時も手術後4日目でありながら、外出許可をもらおうとして担当医に呆れられたり、それほどお茶会に行きたかったのかというと、ひとえに決めたことに穴を開けるのが嫌だっただけです。
これはいったい何だろうと考えてみると、拠点を作ろうとするような動機が自分の中に在りそうです。どこか一か所でも維持集中し続けるところがあれば、後のことはどうでも構わない的な発想が自分の中にあるのは確かで、ブドウ作り一点に本気で集中していれば他のことはどうだっていいとの思いで長い時間を過ごしてきたことと全く同じことです。
これほど決めたことを徹底してやり通す人は随分几帳面なのだろうと思われるかもしれませんが、事実は全く逆で、私は多くのことでいい加減だったり雑であるが故に、それだけだと何も無い自分であるため、どこかに自分を築く必要があるのかとも思ったりします。
だから自分で決めた一点はどんな状態でも続けようとするのだろうと、そんな見方もできそうですが、続けるということはどんな些細なことでも簡単ではありません。
ブログに戻しますが、5年間続けて、これほど書きたくなくて気が乗らないのに何故書くのかと自問することも正直よくありましたが、続けることを大切に思う自分が結局勝っていたのだと思っています。以外に思われるかも知れませんが、書きたくて書いているときより嫌嫌書いている時に良い文章を刻むことが結構あるということです。
書くということは誰かに何かを伝えたいという以上に自分を知ることでありそうだと、5年続けてそんな感想もあります。頭の中に去来する様々な思いは断片的であったり、そのままだといずれ埋没して忘れ去ってしまいますが、書くことで思いを形にして繋ぎとめておけます。
作為とか意図的であることを極力排除して、フリーでランダムに気の向くままを心がけてきたのは、自分の素地というか本質的な部分により近づくためですが、自分ごとでありながらブロックされた部分に踏み入るのはやはり難しいようです。
昨年秋頃からブログも難しい局面に入っています。書きたくないことが増えすぎているためです。悲観的に未来を語るのは簡単ですが、生物の生理構造は光を求め続けるようにできていると思っていて、光を見出そうとすればするほど暗黒面に呑まれそうになったりします。絶望は終着点ではなく出発点だとの思いもありますが、どの道光は闇との格闘を避けられないのだとも思っています。
書き続けて5年を終えた今、必ず毎週更新するというのはもう止めますが、ブログそのものを止めようとは思っていません。次のステップに移るためにはこれまでとは違った新たな形が必要になってきているようです。
posted by 明石 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2015年02月22日

時の旅人

どこへ行こうと同じだということはうんざりするほど分かっていたのだけれど、じっとしていると部屋の壁に押し潰されそうになり、アルバイトで金を作っては部屋を飛び出して旅に出るということを繰り返していた学生時代。肩書きは学生であっても、実際は放浪者という方がふさわしい2年余りの期間がありました。
方位は裏か北かで、磁針が表と南に振れることはなく、山陰から北陸、東北の日本海側を経て、一度北海道へ行くと針はそこを指したままになりました。何度訪れたのか正確には思い起こせませんが、網走から根室へ向かうバスの中で、延々と続く直線の道路に他の車を殆ど見ず、民家も無く、地の果てを走っているような寒々しさを覚え、多分その時に旅の終わりを刻印されたようです。
心象と現実の風景は全く別物であり、例えば冬の北海道の原野を倒れるまで歩いてみたいという心象風景などは、実際にその場に立つと一瞬で吹き飛ばされる無知な妄想であることを痛切に思いしらされたり、人など寄せ付けない自然の厳しさを知るばかりです。
無人の荒野を目指すような旅の終わりに、帰ろうと思ったことが収穫といえば最大の収穫であったのかも知れません。
空間的な旅が終わっても、その後も時の旅は続いています。生きている物は全て時の旅人で、刻一刻移り変わり、決して同じところにとどまることはない。
時たま、この年になっても、北海道を彷徨っている夢を見ることがあります。時の彼方に消え去ってしまわない何かが、自分の内にいまだ点滅するのだろうと思ったりします。
posted by 明石 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2015年02月14日

雨にも負け 風にも負け

「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」の裏バージョン的に「雨にも負け 風にも負け」を書きたくなることがよくあるのですが、宮沢賢治氏を冒涜することになってはいけないのでその都度自重します。私は賢治さんの詩のように立派な人を目指したことは一度もなく、行く手を遮るものはお天気だろうと誰だろうと、悪態をついたり喰ってかかったり蹴飛ばしたり、阿修羅により近い側なのだろうと自分では思っています。
阿修羅の剣のカラクリに少年の頃より気づいていましたが、斬り捨てたと思う度に斬られているのは自分の方で、斬りかかる度に自分のどこかが傷ついて血を吹きだしても、世の中は全く何事もなかったかのように平穏な日常が展開しているばかりです。
この年になるとさすがにきな臭さは無くなりましたが、持ち前の反骨精神だけは如何ともし難いところがあるようです。農業が急加速で崩壊するその局面で農業人として歩んだことを、自分では結構気に入ってるというか、らしい、ふさわしいと思ったりもします。
高品質高価格の実現を目指して、一人でもこの八方塞がりの状況を突破できれば、農業に希望を取り戻せるのではと努めてきましたが、それも叶わぬ夢で終わりそうです。既に昨年から規模縮小コスト削減に本格的に取り組み、どうにか食っていけたらあとは楽しむ農業に方向転換して、重荷を解いてしまっています。
全身全霊を賭けて打ち込めるものなら何でもよかったというところはありますが、劣悪なお天気に一瞬で駄目にされる農業に、職人なら百%自分の力で勝負したいと他の職種を羨むことも時たまありました。全力を尽くしても及ばない、届かない、人からすれば無限とも言える広がりが農業にはあって、故に無限に学べる可能性もあるのだと考えると、百%自分の力で勝負する世界より却って良いのかなと、最近そう思えるようにもなりました。
雨にも負け 風にも負け 負けて負け続け、されど負ける度に学び、一歩でも前に進めたら、それが人の在り様ではないのかと、そんな風に思ったりします。
posted by 明石 at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2015年02月07日

時折農林漁業に飛び込む若者たちが報道されたりしますが、こちらの方がどこか緊張して映像画面に見入ってしまいます。動機が立派であるほどに、ままならぬ現実にどこまで耐えられるか、凌ぎ切れそうか、つい覚悟のほどを見定めようとしてしまいます。
専業で生活するのが困難な時代であるだけに、農林漁業に飛び込みなさいと無責任なことは言えませんが、本音ではそう願っているのは確かです。
私はこのブログで日本の農業は終わってしまう的な言い方はよくしますが、農林漁業は消滅してしまうのかと言えば、決してそうはならないと思っています。
食糧問題と環境問題とでいずれ世界危機となれば、国としての自給力は死活問題になるだろうし、作る能力があって作らない国は、国際的に非難の集中砲火を浴びるのは間違いなさそうです。
問題は何時どのタイミングでということですが、温暖化による気候変動は科学者の予想をはるかに上回って急加速してきたことを考えても、今年でも来年でも何時でも起こり得るところまで来ていると思っています。
例えば世界の穀倉地帯と言われる地域で、その何割かが猛暑や干ばつで不作となれば、世界的な食糧パニックは必至だし、ここまで来るとそんなことは起こらないと楽観視するほうがおかしいように思えます。じわじわとではなく突発的に来るのが食糧危機だと考えておいたほうが良さそうです。
世界が食糧危機に陥ると、より経済性に重きを置いた価値観は一変するのだろうと思います。
農林漁業は国の基盤であり、ここに自給力のない経済大国など、瞬時の夢的な危うさと共にあるのだと思います。状況次第では世界はグローバルであったり、個別であったり、豹変することも頭に入れておくべきではないかと思います。
不安定な富を目指すより、確かさを求めて国づくりがなされないと、これから先の生き残りは厳しくなりそうです。
農林漁業は自然の中での生産活動であるが故に、自然との調和を願い、大地や海を慈しみ、生命の尊さを思う心が自ずと育まれます。
農林漁業に飛び込む若者たちが、厳しい現実に直面しながらも、新たな未来、新たな価値観を切り開くことを心から願っています。
posted by 明石 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2015年01月31日

本物の思想

「日本には本物の思想は育たない。あるのは生活者の思想だけだ。」、とずっと言われ続けてきたような気もしますが、感覚的には分かるのだけれど、改めて考えてみるとこの言葉は意味不明なほどにおかしいと思えてきます。
生活者の思想が処世術を指しているのだろうとは理解できますが、言葉の危うさは、生活者の思想は本物の思想ではないと伝えてしまいます。となると、本物の思想とは、現実の生活から遊離したところに構築された観念の世界のものとなって、そんなものが果して本物の思想と言えるのか怪しくなってきます。
私流に言えば、生活者の思想で結構ではないか、生活者の思想こそ本物の思想への端緒であるはずだ、ということになります。日々現実の生活で様々な問題に直面し、その問題を掘り下げることで何がそうさせているのか、原因あるいは正体の輪郭が浮かび上がってきたりします。個々の問題は全く別のことで、掘り下げられた一つ一つは点として在っても、いずれ点が結ばれて個別の問題の背後に、時代や社会の構造が見せかけとは別の形で露呈してきたりします。
世界は針の一穴からでも覗けるとは、個別に自分の問題を突き詰めると深化するほどに世界の本質に近づくことに他ならず、例えばマスコミ報道とか自分の外側に答えを得ようとするのとは、アプローチの仕方は逆なのだろうと思います。自分をどこまで知り得るかで他者への理解度が変わるのと同じなのだということです。
時代は今、政治家や官僚とか各方面の専門家達の手法論ではどうにもならないところに来ていると思っています。少しでも優位に立とうとする処世術や価値観もいずれ通用しなくなるだろうし、人としてどうあるべきか、豊かさとは、幸せとは何なのかを問い直し、時代を本質的に見据えて根本から転換させる必要が差し迫っているのを覚えます。
NGOとかボランティアに参加して、貧しさに喘いでいる国々の人々の救済に乗り出す若者達に、希望の灯を見たりもします。
自立した精神は自分の価値観を歩むのだと思っています。
posted by 明石 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言