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2019年03月10日

月の道

3年前大学時代の友人3人と淡路島の温泉ホテルに集って、ミニ同窓会を行った時の情景が時々頭に浮かんでくることがあります。大阪出身で今は和歌山県橋本市に住むY氏、京都のI氏、加古川のU氏、それに私の4人で、I氏はその前年にも我が家に来ていますが、Y氏とは20年は会っていないように思えるし、U氏とは学生の頃からだと40何年になるのか考えると面倒くさくなります。
その数年前からY氏が、元気なうちに一度皆に会っておきたいと、I氏を通じて言ってくるのですが、あいつどこか悪いのかと聞くとそんなことはないとのことで、あまり気が乗らない私は先送りし続けていました。都会育ちほどに大学時代の仲間を懐かしむのは何なのだろうと、高校や大学に懐かしさのカケラも持ち合わせていない私からは奇異に映ります。もっとも向こうからすると、私の薄情そうなところが不安要素であるようですが、田舎人特有の土着体質なのか、私は小学時代を一緒に過ごした仲間が比較にならないほど懐かしい。
業を煮やしたY氏が直接再三電話してくるようになって、私も観念してミニ同窓会が実現した次第です。
最初は南紀の温泉ということでY氏に任せていたのですが、いささか独特の趣味嗜好の持ち主で、I氏がそれを懸念して私に電話してきたので、それでは関西と四国の中間淡路島にして私が手配すると決めました。
10月のよく晴れた日の昼下がり、私は淡路島は初めてでしたが、予定通りに2時間足らずで到着しました。ホテルのロビーで寛いでいると、ほどなく全員集合というか、皆私より早く着いて近辺をうろついていたらしい。
Y氏はさすがに老けて、何をやらかすか得体の知れないようなオーラが消えて、なんとなく小さくなったなと感じてしまいました。小柄なU氏が学生時代そのままで殆ど変わっていないのには驚きました。
海を見渡せる眺めのいい部屋を用意しましたとのことで、10階だったかどうか忘れましたが、部屋に入ってみると眺めの良さは言葉以上で、気持ちが伸びやかになります。20年とか、40年ぶりとかそんな長い時間を経てでも同じ部屋に集えば、何の違和感もなく収まるのも不思議ですが、部屋の背景に伸びやかな眺望が開けていることも無関係ではないのだろうと思ってしまいます。
60半ばを過ぎると皆さすがに憑きものが落ちているというか、口角泡を飛ばして激論とか、そんなエネルギーは源で枯れてしまっています。Y氏が「生きた証を何か残したい。」と真顔で言うので、「お前子供がいるだろ、子供や孫がいるなら、それがお前が生きた証だろ!」と即座に返してしまったのですが、いかにも不機嫌な言い方で自分でもびっくりしました。私は時々他者が消えてしまうほど自己完結的であり過ぎるところがあって、他者の中に自分を刻み込むような欲求は見失いがちです。高校時代からの悪友K氏の葬儀の話をしたのですが、関係性の中で人は死んでも、その人を知る人が居て思い出されたり話題になったりする限り存在し続け、そういう人が一人も居なくなった時初めてこの世から消滅する、ということを。
「生きた証」とか死後何時までも名前を残したいとしても、歴史に名を刻むような大人物にならない限り、人は皆大差なく忘れられ消えていく存在なのだということです。野に咲く花は誰のために咲くのではなく、自分という一つの命を精一杯生きているから、変わらぬ一つの命の尊さを宿しているのです。
Y氏はスマホで私のブログを読み始めました。U氏が「悪友の死」のブログ読んだけど、あれからブログが更新されていない、もう書かないのかと聞く。分からないと答えると、特異な生き方をしているのだから小説を、自伝小説とか書いてほしいと言う。
自伝小説はどこまで本当の自分に迫って描いたとしても、どこまで行ってもフィクションでしかあり得ない。日本の近代小説が私小説云々は、読者も作者もここを混同して描かれた主人公と作者を同一視するから、作品という次元へ飛翔しないのだ。もし私が小説を書くなら、私は私のこと以外書けないから、その意味では自伝的と言えなくもないが、生身の総体を書ききることは不可能で、書かれた私は主題視点とかで切り取られた断面である上、私の気づかない作意がどう働いているかも分からず、故に描かれた私は作品としてしか成り立たないということです。ここに集った4人は皆文学部で、最後に自伝の一つも書いて自分を残したいらしく、それが妙に私を苛立たせます。
夜9時ごろだっただろうか、仲居さんが教えてくれていたのですが、ベランダへ出てみると、満月が海面に月の道を描いていました。一人で暫くその幻想的な風景を眺めていると、それだけでもここへ来た甲斐はあったと納得できました。その後も時々あの月の道を思い出すということなのです。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月28日

初出荷

まさか東京市場へミカンを出荷することになるとは思ってもいませんでしたが、2月に入るや担当者からサンプルが欲しいと連絡があって送ると、何時から出せますかと問われ2月中旬からの予定だと答えると、出荷スケジュールが自動的に確定してしまいました。
初出荷は2月17日でした。青果高速のトラック便のため販売は2日後となりますが、どんな入りになるやら私ほどの市場経験をもつと、最低ラインを考えるだけであまり期待はしません。昔大阪本場の担当者に「お前は市場と言っても自分とこだけだろ、俺は全国何か所も北海道市場でさへ出したことがある、市場がどんなところかお前よりはるかによくわかっている。」と怒鳴ったことがありますが、地元、東京、大阪、愛媛、岡山、北海道等私ほど単独で市場を渡り歩いた生産者はあまり居ないだろうと思えるほどです。
東京市場でブドウの実績はあってもミカンの実績はゼロです。実績がゼロだとどんなに良いものを出しても、いきなり高値を付けてくれないのが市場の常です。特に個人出荷物はこの傾向が顕著です。私が注目してるのは単に買いたたかれるだけなのか、伸びしろを含ませた評価を出すのかです。
初出荷の販売市況が2日後にFAXで送られてきて、少し驚いたのは予想外の高値がついていたことです。調べてみると静岡三ヶ日と同じだから、青島系としてはトップレベルということになります。今年からブドウの出荷を再開すると伝えていたから、ブドウへのラブコールなのかこれ一回ではわかりません、
1週間後2回目の出荷時の市況も同じでした。そんなにあっさりトップレベルに仲間入りさせてくれるのは、合点がいかないところもありますが、嬉しいことは嬉しいです。
55年ほど前、ミカンを作るため、国の補助事業で山の斜面を開墾して40haの畑を作った親父等先人達、そこへ植え付けた苗木が成木になって本格的な収穫時に入るころには、ミカンは全国で生産過剰になって暴落して、そこから10年ももたず撤退を余儀なくされ、ミカンの木を切り倒すと奨励金を出すような農政で、先人たちがこの地で作ったミカン組合は数年で実質崩壊してしまいました。日の目を見ることが一切なかった先人達のミカンづくりの、その崩壊の末期に30年前私は就農しました。
私は初めからブドウ作り一本で30年を過ごしてきて、父の死後わずかのミカンを引き継いだ形ですが、最初気が乗らなくてお座なりでも、何年も続けると次第に本気になってくるという私特有のパターンです。従業員とか人を雇って大規模なブドウづくりは経営維持が困難で、夫婦二人だけでできる程度にブドウの規模を縮小したことで、多少はミカンに手を回せるという事情もあって、年々ミカンへの本気度が加速したようです。特にここ3〜4年、品質が目に見えて向上して、どこにもないようなレベルのミカンを作れるのではとの手ごたえを得ていました。
私の頭の片隅に全く日の目を見ることがなく終わった先人達があって、私が本気でミカンに取り組んでそれに全国レベルの光が少しでも当たれば、それは報われなかった先人達の苦労に意味のある光を当てることになるのではと考えると、おまけでそんなことが出来ればと意欲が増します。
日本のトップの市場でトップレベルの評価を受けることは、全国に認知される端緒であり、今回思いもかけずその端緒に着かせてもらって、一矢報えたかなという思いと、今植え付けている苗木が成木域に入る頃にはと、、、、、秘かに期すものがあります。
私は10年後にはブドウ作りは辞めているかも知れません。幅4m近い100m巻きのビニールは70〜80sはありそうで、それを持ち運び出来なくなった時がブドウを辞める時だときめています。いつまで生きていつまで働けるかそればかりは分かりませんが、父と同じ85歳まで働けるなら、最後はミカン作りで終わろうとの思いが固まりつつあります。無論自分事ではありますが、どこか先人達の思いに応えたい自分も、おまけ程度にはあるようです。
posted by 明石 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月19日

続 30年を過ぎて

先日ミカンの出荷で地元の市場へ行くと、果実部の幹部連中に取り囲まれて、「明石さんお久し振り、元気でしたか。」から始まってわいわいがやがや。4年ほど前からミカンを出荷しているのだけれど、夕方ごろ行くから会わなかっただけで、部長、課長とは10年くらいは会っていないから久し振りなのは間違いないです。
「どうしてます?」と聞かれ、「うん、ブドウを半分くらいに規模縮小して、ブドウを止めたハウスにミカンを植えている。小原紅は15aのところに100本ほど植えて、半分は6〜7年生でやっと出荷できるレベルになってきた。普通温州も昨年50本植えて、今年も50本、来年は100本植えようと、、、」と明石先生の演説が始まると、皆ニヤニヤしながら結構楽しそうなのでつい調子に乗ってしまいました。帰り際部長が「明石さんが時々来て吠えてくれたら僕らも元気がでますよ。」と言われると、お笑いタレントなのかとがっくり。
夢や野望が潰えてもそれで全てが終わるわけでもなく、生きて在ることの副産物程度のことなのだろう。専業農家なのだからそれで食っていかないと死活問題になるのだけれど、だからといって、食っていくためだけに農業をしているのではない自分があります。
専業の果樹農家として30年を越えてくると、苗木を植え付けて育てることはそれもまた一つ一つの命と向き合うことで、私の生活は樹々と不可分変更不能となっているようです。雨が降ろうと雪だろうと台風だろうとどんな悪天候でも、一日一度は必ず園地を巡回します。寝床に入ると明日の作業を考え、目覚めると今日の仕事の段取りを反芻してから起き、私の日々は果樹を作るためにオートシステム化されてしまっているようです。雨とか悪天候で二日も仕事ができないと気が滅入ったりしますが、そんな時文章を刻むことに向き合えばと言われそうですが、余暇ですることは本分がしっかり確保されているからこそできることなのです。
30年を過ごしてみて、これほどまでに農業に適性があるとは自分でも予想外でしたが、土に根ざす農業は土に根ざすような生き方と重なり合ってあるようです。成功者となり得ませんでしたが、破局へ向かう一方と言えるほど困難な時代に農業に従事したことは、自分ではらしくて良いとどこか納得できるところがあります。終活を破棄していわば墓場から蘇生してきて、近頃、このまま終わってたまるかと、持ち前の反骨精神がむくむく頭をもたげてきています。時代と衝突して生きて、自己主張を貫くには、或いは農業が最適であったのかもと思ったりもしますが、死ぬまでまだ終わっていないのは確かです。
農業、漁業、林業はさながら絶滅危惧産業と化していますが、第一次産業が終われば国が形を失って崩壊するのは間違いないと思っています。経済は世界が連動しているだけに、どこかの国の事件が深刻な世界同時不況になったり、先が見通せないし不安定です。本当に強い国、少しでも確かな国とは、農業、漁業、林業の第一次産業の基盤整備ができていて、そこをベースに確保できている国だろうと思います。経済がこけた時に何もない国、そんな日本を想像してみる必要が切迫してあるのだと言いたいです。


posted by 明石 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月11日

農業歴30年を過ぎて

私の農業歴は今年で何年になるのだろうとふと思うと、始まりは平成元年とほぼ同時だから分かりやすくて、農業に従事して専業農家として30年が過ぎたことになります。専業だから一個人一経営者ということもあって、30年間生産資材、機材の価格とか市場価格の変動をつぶさに見てきましたが、生産資材、機材の価格の上昇にはただ呆れるばかりです。20年以上続いたデフレスパイラルのなかでも、農業の生産資材は原油が値上がりするたびに値上げを繰り返し、30年前となら2〜3倍価格が上昇しているはずです。
デフレスパイラルの中で他の殆どの物価は据え置かれたままなのに、農業の生産資材(漁業、林業も多分同じだと思う)は何故毎年のよう値上げを繰り返すことができるのかと考えると、値上げに歯止めを掛けるものが何もないという実情です。個人である農家がいくら文句を言ったところで、気に食わなければ買わなければいいとメーカーに言われればそれまでです。農協がもし本当に農家のためにあるのなら唯一歯止めになれるのだけど、販売価格が高いほどに農協に落ちる金額が増えるのだから自ずとメーカーサイドになり、農家のために農協があるのではなく農協のために農家があるのが実情です。
少し前、小泉進次郎氏が自民党の農政部長をしている時、日本の農業の生産資材は韓国に比べて2〜3倍高いと発言して、私はこの人は本物かもと見直したのですが、物価がほぼ同じの韓国の2〜3倍高い生産資材というのはどうみたって異常です。例えば30年前20s1袋1000円以下だった肥料が今3000円前後です。これを10アールあたり7〜8袋使用するとその費用の回収が難しくなります。今全国の畑で土壌の栄養不良化が過激に進んでいるそうです。
生産コストの過激な上昇とは逆に、農産物の市場価格はこの30年まさにデフレスパイラルで下がり続けています。市場の仲買さんは生産コストは一顧だにせず売れるか売れないか商売の都合だけで価格を決めてきたからです。農家は安く買いたたいて殺しても次々現れるから大丈夫と平気で放言する仲買を何人も見てきたし、価格を決める市場の現場にはそんな雰囲気がいつもどこかにあったのを感じ続けていました。
生産コストの上昇と市場価格の低迷にじりじり追い詰められて、リーマンショックの前年の原油高ショックは衝撃でした。当時私は東京市場に出荷していてつぶさにそれをわが身で体験しましたが、高額なブランド農産物がばったり売れなくなりました。東京日本橋の百貨店本店筋でです。翌年リーマンショックが起きて不況風が吹き荒れると、あろうことか百貨店がやがてスーパーと青果物の安売り価格競争を始め、市場価格は更に急降下となり、何年もしないうちにブランド農産物の産地が全国のあちらこちらで崩壊し始めました。
品質の高いものを作ろうとすると手間もコストも増大しますが、市場で軒並みスーパー価格で扱われたのでは生産コスト割れとなって、経営が困難になるのは必至です。良い物を作ろうと一生懸命に努力するほどに貧しくなり成り立たなくなる、なんて馬鹿馬鹿しい時代に入ったんだと苦虫を噛むばかりです。
私の30年の農業歴は農業の崩壊最終局面と重なってあるようです。価格上昇を続ける生産資材、機材、下がり続ける市場価格でじわじわ追い詰められた挙句、原油高ショックとその翌年のリーマンショックによる不況風がとどめとなったようです。
今全国の青果市場が血眼になるほどに生産者は激減しているはずです。生産コストが販売価格より高くなれば経営が不可能になるのは自明で、結局農業農家は四方八方から食い潰されて終わるのだなというのが私の見方です。
生産者サイドで販売価格が決められない農業、漁業、林業の第一次産業は、多分同じ状況下にあるはずです。一昨年今国民民主党の党首である玉木雄一郎氏と話す機会があって、その時「突き詰めると非常に単純な結論に至りますよ。農業も製造業の一つと横並びに考えると、販売価格が生産コストをもとに生産者サイドで決められるよう構造改革がなされない限り、産業としての自立はあり得ないし、どこまで行っても食い物にされるだけですよ。」と私は言ったのですが、氏からコメントは返ってきませんでした。
市場が色めき立って生産者確保に走り回っても、生産コスト以上で販売価格を確約しない限り、農家を繋ぎとめることは無理です。先日東京市場の担当者が来た時、「最低でも今の市場価格の倍」と言ったのですが、スーパーとかの店頭価格が今の倍以上になった時、果たして売れるのかとなると多分売れないだろうとまで付け加えました。地元の小売業者さんから「安くても売れない時代に入った」との声が時々耳に入ります。「地方は安くても売れない時代に入り始めている」と言うと、「東京は下げればまだ売れますよ」と返ってきましたが、地方から始まっていずれ波及するのは時間の問題です。
本当に最大の問題は、日本の国内消費力がどこまで落ちるかです。私等団塊の世代からは年金だけでは生活が厳しく、大半が生活苦予備軍となります。また全国の就業者の40%余りが非正規雇用ということは、そこも生活苦予備軍ともいえ、合わせると国民総数の半分近くになりそうです。ここがベースになると内需で成長してきた日本経済が凋んでいくのは疑いのないことに想えます。
posted by 明石 at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月06日

8年ぶりに

昨年7月に愛知県の販売業者さんが8年ぶりに電話してきて、シンガポールから特上のブドウが欲しいと言ってきているのだけど、出せますかと問う。この業者さん、思えば8年前、名古屋在留の中国政府高官に私のピオーネを試食させたことがあって、その時こんな美味しいブドウ初めてですと感激するくらい気に入れられたそうで、輸送ルート販売ルートは確保するので来年から出してもらえませんか、というところまで話が進んだそうです。中国は日本の果物はリンゴと梨の2品目だけが輸入が認められていますが、表向きはそうであっても香港とか台湾とかの迂回ルートから、それ以外の品目でも多少は北京まで届いているらしい情報はありましたが、あからさまに中国政府高官に輸入規制を無視するようなことを言われると、国策って何なのだと馬鹿馬鹿しくなってきます。加えて、北京の中国政府の高官達は中国の農産物は安全性に問題があるから食べたがらない、とその高官が言ったそうですが、「よく言うよ、あんたら政治が悪いから、虐げられた農家農業に歪みが集中しているんだろ!」と怒りがこみあげてきます。
実はこの年の秋、中国政府が日本の果物の輸入規制を大幅に緩和して、2品目以外の輸入を認めようとの発言がありました。ブドウはその一番手とされていました。また中国最大手の一つである米業者が来日して、来年度日本の米を20万トン入れることを明言し、それを皮切りに米輸入拡大を本格化させるとの見通しを語っていました。中国が米とか果物日本の農産物を大きく門戸を開いて受け入れようとしている、その報道は末期的状況に喘いでいる私達農業者には救いの光のようでもありました。
例えば米で考えると、中国の必要量は1億5千万トン、日本の生産量は8百万トンで、中国の富裕層をほぼ1億人くらいとしてみて、安全で美味しい日本の米を食べる流れが加速すると、8百万トン程度あっと言う間だろうし、中国が日本の米に乗せてる関税を考えると、それが撤廃されるか近いところまで下げられると、日本国内の倍以上の価格も可能なのではとおもえてきます。蓋を開けてみるまで分からないということはありますが、中国の方針転換で日本の農業に希望の光が差した瞬間でした。
ところが翌年3月の東日本大震災、ことに福島の原発事故です。海外の空港に降り立った日本人があちこちの国々で放射能検査をされる映像を見ると、中国政府がコメントを出す必要がないくらい、日本の農産物が海外に出ることがなくなったのはあまりにも明白でした。私のブドウが中国に出ることが無くなったのも相手に聞く必要はありませんでした。農業に光が差したと喜んだ途端このどんでん返しは、以前にも増して闇を深めるばかりでした。その後今日に至るまでそんなことを言う人を見かけたことはありませんが、日本の農業が息を吹き返す絶好の機会が福島原発事故で潰えてしまったと、私はいまだにその無念さをどこか引きずっています。
昨年愛知の業者さんにシンガポールへブドウをと問い合わせられた時、8年の空白期間の後止まっていた時間が再び動き出す、再現フィルムでも見ているような感覚に見舞われました。
シンガポールは私が一番出したいところだから、言われるままにブドウのサンプルを二度送りました。相手はシンガポールでトップクラスの食品関係業者さんだそうで、日本のトップクラスのブドウを要望されたとのことですが、サンプルとして送ったピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの3品種ともに好評価だったようです。
ついては原産地証明書が必要だから取ってくれないかと業者さんが私に言う。生産者が取る証明なのか少し疑問だったのですが、商工会議所に行くと、原産地証明書は国内の輸出最終業者さんが取る書類ですよと言われ、業者さんに返しましたが、その後連絡がぷっつり途絶えました。おそらく原産地証明書を取る手続きとかが面倒で、そこまで本気でない業者さんが退いてしまったのだろうと、私の方も出荷に忙しい真っ最中であえて連絡はしませんでした。
海外は個人で直接だと言葉の壁を始めとして問題が多々あって、加えて私も全盛期の半分程度までに規模縮小していて、海外への意欲は最近は殆ど薄れてしまっているようです。
posted by 明石 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月26日

本気になるほどに

ブドウを作るのをやめた15aのハウスに小原紅ミカンを植えて、半分は6〜7年生で3年前から収穫を始めていますが、今年度やっと商品化できるレベルになってきました。昨年は収穫後に追熟させるのが上手くできなくて、糖度は12度前後はあるものの酸抜けがまったくせず、食味は酸味ばかりで商品レベルではないので全部廃棄処分にしました。今年度は追熟のさせかたをあちこち調べて昨年とは全く違ったやりかたで、着色と酸抜けにほぼ成功して、商品化してもいけそうな程度の仕上がりにはなりました。糖度的には11〜14度で殆ど12度以上だから、JAだと最上ランクの讃岐紅ミカンとなります。
これから一年一年木が育って葉が茂って果実のグレードも上がってゆくはずで、3〜4年先成木域に達し始める頃には、糖度13度以上の最高レベルのものを作れそうだと思うと、早生系は上手くいかないかもとの予想を覆せそうで嬉しくなってきます。試食モニターをと、収穫した400sは年末年始に親戚友人とかに配ってしまいましたが、食味感想は概ね良好だったようです。
先週東京の市場関係者がやってきました。今年から市場出荷を再開すると昨年伝えていたこともあって、こちらへ来る機会に会っておきたいとのこと。以前私のブドウを担当してくれたO氏と久々に会いましたが、10数年振りだと聞かされて、改めて驚きました。新しく私の担当になるS氏も一緒で、新年早々2人に小原紅ミカンを試食用に送っていたのですが、答えは出荷OKのレベルに達しているとのことで、日本のトップ市場が認めるなら、商品化にお墨付きをもらったようなものです。
ブドウとミカンの園地を一回りして、倉庫に貯蔵している「金峰ミカン」を見てもらったのですが、無造作に取った2個のミカンの糖度を測るといずれも15度以上で、こんな高糖度のミカンは初めてだとあっさり認めました。市場出荷をやめてからもO氏との付き合いは続いて、年に何度かは電話で話すことがあって、数年前から「金峰ミカン」の糖度15度は珍しくなくなってきていることを話してはいたのですが、実際に現場で現物を試食して嘘でなかったことを確認できたようです。「可能なら今年少しでも出荷してもらえませんか。」とミカンの出荷要請は全く予想していなかったので、「少しでもいいなら試しに出してみますか。」と控えめに返答しました。
東京市場にないほど高糖度のミカンに化け始めたことを改めて思うと、強剪定で木の形を縦より横に広げるように作り変えたこととか、全くの自己流でやってきたことが間違いではなかったのを確信できます。ブドウをやめたハウスに小原紅ミカンを植え始めた6〜7年前から、ミカンに取り組む本気度が徐々に増して、普通温州を植え付けようと決めた一昨年から急加速です。本気で取り組むほどに想う以上の結果が出始めると、ものづくりとしての充足感はそれだけでも何物にも替えがたく、更なる次元へとエネルギーが湧いてきます。
posted by 明石 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月20日

「書く」

半年ほどブログとか「書く」ことから離れていましたが、カラオケにもいい加減飽きがきていて次は何をと思うと、最後くらいは「書く」ことに本気で向き合ったらどうなんだとの声が、自分の中で次第に強くなってきています。
20代半ばで「書く」ことを封印して、生身で燃焼して生きて30年後まだ「書く」ことに向かおうとする何かがあるなら、そこで向き合えばいいと思い決めたことを、55歳ではなく60歳になってからだったけれど、まさか本当に実践した自分に自分でも驚いています。
ブドウの直販のためにホームページを立ち上げて、そのアシストに生育日誌をブログに綴ったというたまたまもあったのですが、それ以上に「書く」ということは私の中で燻り続けていたようです。ブドウの生育状況をブログで公開して集客に繋げるという販売戦略でしたが、ブログがそこにとどまらないのは初めから予想していました。ブログ以前にホームページを立ち上げるため文章原稿をその前年に書いているとき、やっととか妙に懐かしい一体感を覚えたり、「書く」ことを再開する恰好のきっかけになりそうだとの予感は、ホームページを立ち上げる以上に強くありました。
ときたま目の前の風景から退いてしまう瞬間、「何時になったらお前はこの部屋に帰ってくるのだ。」と呟く声を何十年も聞き続けてきましたが、30年後の50代半ばになっても「書く」ことに向き合おうとはしませんでした。「書く」気にならないなら「書く」必要は全くないのだから放置し続けましたが、でも30年が過ぎたことはそれなりに意識があって、伏せられていた自分がそこからざわめきを増し始めたというのはありました。
還暦を迎えて、このまま「書く」ことに向き合うことなく終わってしまうのかと焦りすら生じていたのですが、ブドウ作りに没頭している日常に風穴を開けるような転機は、どこにも見出せそうにありませんでした。
ブドウの販売の最終局面は直販でと、何時頃からそう思っていたのかは忘れましたが、還暦頃からはと明確に目標化していて、実際還暦を迎えた途端手始めにホームページを立ち上げる準備に取り掛かりました。翌年春ホームページを立ち上げてブログもそこから始まりましたが、ブドウの生育日誌を綴りながらその先に私が本当に見据えていたのは、「書く」ことに向き合えるかどうかでした。
5年間一度も休むことなく毎週ブログの更新を続けて、多少なりとも「書く」準備はできたのではと思っていますが、やはりまだ休むと「書く」ことを先送りし続けるようです。
今70歳を迎える頃になって、さすがに先送りする時間的余裕がなくなって、最後くらいは本気で「書く」ことに向き合おうと思いが定まりつつあります。
「桜の咲く前に」からブログは2年少しブランクがあり、再開後は文章を小説風に意図的に変えました。小説であれ思想であれ、読む者を解放する感性がベースにあるものが偉大なのだとの私の持論は変わりませんが、ジャンルは分かりませんがそんなところを目指したいとの思いはあります。
芸術は資質的に自由でなければ適いませんが、天国と地獄は裏表で、どんな世界を描いたとしても、ベースに自由な感性があるかどうかです。悪を極めつくししその業火に焼かれた者でなければ神にはなれない近づけない、これも私の持論です。
posted by 明石 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月12日

最後の同窓会

還暦を始めとして5年毎3度目の同窓会が1月5日に行われました。
出席者は47名と前回より10名ほど少なく、卒業時総数が242名だから出席率はほぼ2割です。既に亡くなっている者が、26名というところまでは分かっていますが、全体の1割強ということになり、この割合は全国どこでもそう大差ないのかなと思ったりします。
私等は今年度中に全員70歳を迎えますが、皆5年前に比べてやや老けた感があるとはいえそう大差もなく、本当に老いが加速してくるのはこれからなのだろうと、差し迫った予兆に色濃く覆われています。
元気でいたいのなら自分から老け込まないのが肝心だと、1昨年以来私はそのことを実感し続けています。農業経営の抜け道の無いような厳しさということもあったのですが、60代に入ってから私は経営規模の縮小を重ねたり、意図した訳でもないのに終活のサイクルに入っていて、年々面白くなさが募る一方になり、60代半ばごろには、早くお迎えが来ることを願うようにさへなっていました。
1昨年秋温州ミカンの苗木を50本予約注文した時、採算が取れるまで10年も要するものを植え付けるなど終活目線からは論外で、終活に入っていた自分をその時明確に破棄してしまいました。冬場に苗床を準備して春3月に苗木を植え付けると、小さく縮こまり続けた自分から解放されて、久々に活気を取り戻してやる気と元気が出てきました。
今春ミカン苗木100本と思っていたのですが、苗木屋さんの都合で50本になりましたが、苗床の準備はもう終わっていて、3月にそこへ植え付けて育てるのだと思うと、更にやる気と元気がでてきます。
元気でいようと思うなら、年だからと自分から老いを迎えに行くことをやめて、自分が活き活きできることにエネルギーを注ぎ込むのが一番です。
同窓会でまわりの参加者を見回しながら、仕事できる体力能力とも私は多分ダントツであるのだろうと思えます。私は65歳を境に年々若返ってきて今60歳に帰りつつあるので、同級生と年齢差は10歳にまで広がったと少し前京都の友人に言ったのですが、最近の元気さからすると爆笑されるほどの冗談でもなさそうです。
二次会でカラオケに行ったのですが、そこでSuperflyや宇多田ヒカルを歌うと皆唖然としていたようです。やはり少々破天荒なほうが私には似つかわしいようです。そのうちとんでもなく若い彼女ができるかもと言い出しそうになったのですが、自分で吹き出しそうになるので止めました。
posted by 明石 at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年07月07日

あの日 あの時

夕方野菜畑へ草刈りに行こうとすると、「あのアパートからおじちゃーんてアカリちゃんが駆け出してくることはもうないよね。」と奥さんがぽつりと言う。どこかタブーに触れた感を覚えながら、何を今更「そんなことはない。人生どんな事が起きるか分からないから、アカリちゃんがあのアパートに戻ってくることは絶対ないとは言い切れない。」とへそ曲がりの本領を発揮して返してしまいました。
アカリちゃん達一家が居なくなってから、努めて考えないようにしていたのを、奥さんに蓋を開けられたようで、もぬけの殻のアパートから隙間風が忍びこんできます。隙間風に晒されたくないから無視していただけで、本当は何時だって風は何処かで吹いていました。
アカリちゃん達一家が居なくなってからその後それっきりなのかと言えば、これが全く逆で10か月くらいで4〜5回は会っているし、親密度は一家がこちらに居たときよりはるかに増してます。以前ブログに記したことがありますが、人との関りで私が本当に大切にしたいのは、気持ちが通う心が通うような人との出会いです。本音で触れ合うところがあるのなら、その得難さは何物にも換え難いと思っています。ヒサヨちゃん親子と私等には何かそのようなものがあると感じています。でなければとっくに終わっていた関係のはずです。
でもいくら親密になっても、ヒサヨちゃん親子を毎日見ることができたあの頃の日常とは違います。あのアパートにヒサヨちゃん親子が居た頃の日々は既に過去になって、永遠に二度と帰ることはありません。同じ状態で同じ時同じ場所にとどまるものは何ひとつない、仏教的には無常ということになるのだろうけれど、愛しいあの日あの時にもう一度帰りたいと欲すると、さながら業風に晒されるように無常観にキリモミ状態にされます。60代後半になっても常に前を向き続けているのは、それを嫌というほど味わっているからです。
私が野菜畑に行くとアカリちゃんが「おじちゃ〜ん」とアパートから駆け出してくる、あの情景は、私の心に深く刻み込まれています。心に深く刻み込まれた情景を、刻み込まれた情景シリーズでブログに記していますが、その殆どは10代の頃のことですが、今この60代後半になって、その頃と変わらないほどに深く刻み込まれた情景に出会えたことに感謝するとともに、まだ動脈硬化を起こしていない自分の感受性を宝物のように嬉しく思います。
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2018年07月03日

天山のお問い合わせに

瀬戸口さんからの天山に関するお問い合わせですが、6年前の記事のコメント欄となりますので、最新のブログ更新という形で返信いたします。
表面にサビ化ということだけでは本当のところが分かりかねますが、今の時期ならうどんこ病と縮果病があります。多分うどんこ病ではないかと思いますが、トリフミンを通常の2000倍よりやや濃いめに(私なら1500倍)で散布するのがベストかとおもいますが、うどんこ病は本格的に発症すれば果実は石化したり著しく見た目は損なわれます。皮ごと食べれる皮の薄い品種は、この他ベト病、灰カビ病とかに高温多湿だと侵されやすくなります。農薬は残効日数をしっかり確保するよう散布すれば、安全基準値を上回るようなことはまずありません。私も筑波で検査してもらったことがありますが、残留農薬はほとんど検出されませんでした。
ですから、天山の防除暦を調べて、どんな病気や害虫に備えなければならないかを知っておいてください。
あとひとつ裂果についてですが、天山が一番裂ける時期は、糖度15度を越え始めたころからです。若木の頃わりと裂けずに仕上がったりすることもありますが、たまたまと考えるほうがよさそうです。雨を完全にシャットアウトして水をコントロールすることと、30度以上の高温にならないような設備の中でないと、天山は難しいのだろうと思っています。
posted by 明石 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言