9月9日「救急の日」に救急車で病院に運ばれ、緊急入院した母が10月15日に亡くなりました。14日朝病院から電話があり、血圧が下がったから病院に来てほしいとの連絡があって、昼過ぎに行き10日振りに母を見たのですが、更にやせ細ってここまで骨と皮だけになれるのか生きているのが不思議なほどで、正視できず目を背けてしまいます。「何も心配せんでええよ、楽にしてたらええ。」と声をかけるとこくんと頷いて、反応を示したことに驚いたのですが、目は開かずとも意識はあったようです。
この日家に帰っても、自分の言葉とそれに頷いた母の姿が尾を引いたまま寝床に入ったのですが、寝入った直後に病院から電話で、直ぐ来てくださいと言ってる、と奥さんに起こされました。14日から15日に日付が変わった直後で、病室に入ると担当医が丁寧に説明された後、機械を止めて、もう一度母を見て、時計を見て1時10分ですと告げて深々と頭を下げました。「天寿を全うした立派な生涯です。ありがとうございました。」と私と妻も心からの感謝を込めて深々一礼を返しました。
葬儀屋に行く途中、「あんたの言葉に安心してお母さんは逝ったようね。」と奥さんが言うと、自分の中で尾を引いていたのも同じ思いだったので、やはりそうなのかとぼんやり思い返していました。
母は大正15年生まれの94歳です。死亡診断書に老衰と記されましたが、ひとつの命をそこまで存分に生き尽くした立派な生涯でした。告別式の読経の間、母の遺影を見ていると、断片的に浮かんでくる思い出を辿っていました。母から聞かされた話で一番強く私の記憶に刻み込まれているのは、母の幼少の頃の話です。
両親が離婚して母は幼い時に祖母の家に身を寄せていたのですが、次男(母の父が長男)が嫁をもらうときに邪魔になるので里子に出されたそうです。どれくらいの間里子で居たのかは聞きませんでしたが、次男のお嫁さんを見たい一心で、里家を出て夜の山道を歩いて帰ったそうです。おばあさんが激怒して追い返そうとした時、お嫁さんがこんな小さな子をそんな可哀そうな目にあわしたくない、この子は自分の子として私が育てると言ってくれたそうです。母は実の親に捨てられて叔父夫婦に育てられたのですが、置かれた境遇にめげない母の天真爛漫さと叔父夫婦の暖かさを思うと、泣けてきたのを覚えています。
私と父の激しい確執も長い間母を苦しめ続けたことは未だに申し訳なくもありますが、でも家庭崩壊までには至らなかったし、親子といえども個性と生き方も違うので、一つ屋根の下での軋轢はやむを得ない面もあるはずです。乱暴な言い方かも知れませんが、どんなに激しく衝突しても、一つの個性一つの生き方としてお互いを容認できる日が来れば、それでいいのではないかと思ったりします。
母の大らかで楽天的な気質は、実はそれこそ母の強さの源だったように思えます。悲観的になれば暗くなる一方というような境遇にめげず、自分と言う一つの命を、天寿を全うと言えるほどに生き抜き生き尽くすことができたのも、その持ち前の気質に拠るところが大きかったのではと思えます。父と結婚した直後胃下垂とかの持病で、医者に24歳までは生きられないと言われたとよく笑い話にしていましたが、それ以上はないような立派な生涯だったと思います。告別式の後の挨拶で、拍手で送りだす方がふさわしいと思わず言ってしまいましたが、お悔やみよりはお祝いの方がふさわしいとも思っていたのです。
母の死から一週間も経ち、父を見送り、母を見送って、長男としての務めも果たしたかなと思うとほっとしたというか楽になって、もう何時死んだっていいくらいの自由感を得ています。
70路に入ると周りを見回しても、親世代は探さなければ居ないほど少なくなっていて、世代交代を正味実感します。私に信心は無いのですが、死ねば仏になるというか、不思議なことに死者は、その一番輝いている姿で人々の記憶の中に刻み込まれているようです。正視したくない枯れ果ててミイラのような母の姿とか、死んだその瞬間から記憶を消すかのように忘れる一方で、仏になったのか、今は一番輝いていた頃の記憶のみの残像となりつつあります。私の望むような一番良い姿でこれからは居てくれるのかな、神様になったようだねと言うと、母は得意顔でにっこり笑い返しているようです。