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2018年07月07日

あの日 あの時

夕方野菜畑へ草刈りに行こうとすると、「あのアパートからおじちゃーんてアカリちゃんが駆け出してくることはもうないよね。」と奥さんがぽつりと言う。どこかタブーに触れた感を覚えながら、何を今更「そんなことはない。人生どんな事が起きるか分からないから、アカリちゃんがあのアパートに戻ってくることは絶対ないとは言い切れない。」とへそ曲がりの本領を発揮して返してしまいました。
アカリちゃん達一家が居なくなってから、努めて考えないようにしていたのを、奥さんに蓋を開けられたようで、もぬけの殻のアパートから隙間風が忍びこんできます。隙間風に晒されたくないから無視していただけで、本当は何時だって風は何処かで吹いていました。
アカリちゃん達一家が居なくなってからその後それっきりなのかと言えば、これが全く逆で10か月くらいで4〜5回は会っているし、親密度は一家がこちらに居たときよりはるかに増してます。以前ブログに記したことがありますが、人との関りで私が本当に大切にしたいのは、気持ちが通う心が通うような人との出会いです。本音で触れ合うところがあるのなら、その得難さは何物にも換え難いと思っています。ヒサヨちゃん親子と私等には何かそのようなものがあると感じています。でなければとっくに終わっていた関係のはずです。
でもいくら親密になっても、ヒサヨちゃん親子を毎日見ることができたあの頃の日常とは違います。あのアパートにヒサヨちゃん親子が居た頃の日々は既に過去になって、永遠に二度と帰ることはありません。同じ状態で同じ時同じ場所にとどまるものは何ひとつない、仏教的には無常ということになるのだろうけれど、愛しいあの日あの時にもう一度帰りたいと欲すると、さながら業風に晒されるように無常観にキリモミ状態にされます。60代後半になっても常に前を向き続けているのは、それを嫌というほど味わっているからです。
私が野菜畑に行くとアカリちゃんが「おじちゃ〜ん」とアパートから駆け出してくる、あの情景は、私の心に深く刻み込まれています。心に深く刻み込まれた情景を、刻み込まれた情景シリーズでブログに記していますが、その殆どは10代の頃のことですが、今この60代後半になって、その頃と変わらないほどに深く刻み込まれた情景に出会えたことに感謝するとともに、まだ動脈硬化を起こしていない自分の感受性を宝物のように嬉しく思います。
posted by 明石 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年07月03日

天山のお問い合わせに

瀬戸口さんからの天山に関するお問い合わせですが、6年前の記事のコメント欄となりますので、最新のブログ更新という形で返信いたします。
表面にサビ化ということだけでは本当のところが分かりかねますが、今の時期ならうどんこ病と縮果病があります。多分うどんこ病ではないかと思いますが、トリフミンを通常の2000倍よりやや濃いめに(私なら1500倍)で散布するのがベストかとおもいますが、うどんこ病は本格的に発症すれば果実は石化したり著しく見た目は損なわれます。皮ごと食べれる皮の薄い品種は、この他ベト病、灰カビ病とかに高温多湿だと侵されやすくなります。農薬は残効日数をしっかり確保するよう散布すれば、安全基準値を上回るようなことはまずありません。私も筑波で検査してもらったことがありますが、残留農薬はほとんど検出されませんでした。
ですから、天山の防除暦を調べて、どんな病気や害虫に備えなければならないかを知っておいてください。
あとひとつ裂果についてですが、天山が一番裂ける時期は、糖度15度を越え始めたころからです。若木の頃わりと裂けずに仕上がったりすることもありますが、たまたまと考えるほうがよさそうです。雨を完全にシャットアウトして水をコントロールすることと、30度以上の高温にならないような設備の中でないと、天山は難しいのだろうと思っています。
posted by 明石 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年04月13日

続 よりフリーに

釣りに行かなくなってもう4年が過ぎました。往復500q以上の宇和島方面への日帰り釣行は疲れが残り過ぎて、体を休めてエネルギーを蓄えなければならないオフシーズンにこんなに疲れていたらとの思いが次第に募って、4年前から釣行はぷっつり途絶えました。釣りそのものに10年以上前から飽きが来ていて、オフシーズンの10月後半頃からブドウから頭を切り離すために釣行するのですが、釣りに気が入らなくて寝てばかりというのが毎年最初1〜2回の釣行恒例となっていました。2〜3回釣れない(釣らない)釣りを続けると、やっとむくむく釣り師魂が目覚めてきます。釣れなかった、釣らなかったから釣ってやろうと思うだけで、どれほど釣果を出しても嬉しさとか感動はあまりないし、向上心に燃えて釣りに夢中だった時期がとっくに過ぎているのはどうにもなりません。
釣りは30歳頃に始めて35年間続いたのですが、私は本気になると30年近くやり続けるというところがあって、間違うとちょっと怖いなと自分でも思っています。
今気づいたのですが、ブドウづくりも今年で30年目のはずで、私の一段落のサイクルはそこにあるのか、それでミカンとか他のことをやろうとしているのか、サイクルという新たな角度で見ると、そうでもあるようだと思ってしまいます。
草野球も50歳の手前まで、走れなくなって止めたのですが、30年近く続いたことを考えると、30年というのは私の本気度成就の一サイクルの時間で共通しているようです。
カラオケは今年4年目ですが、釣りがカラオケに変わったということは無論自覚しています。釣りは疲労が残り過ぎたり、却ってストレスをためこんだりということもあって、気分転換ということならカラオケの方が容易です。あらん限りの声を振り絞って歌っていると、自分の中身も空っぽになっていくような大掃除状態で、これって凄い健康法なのかと思ってしまいます。
最近一人カラオケが多くなってきています。相方が友人の仕事を手伝うようになって、週一回一緒にというのも難しくなってきているのですが、一人だと2〜3時間で十分だから週一程度ならまだしばらくは行けそうです。
カラオケは何時まで続くのか、そう長くは続かないだろうと思っていますが、問題は他者に歌を聴いてもらいたいと思うかどうかというところなのは分かっています。それはこのブログとかの文章表現で他者に向かう気持ちがどうなのかということと共通しています。他者に向かう気持ちが無ければ文章は刻まないし、もう少し強い気持ちがあれば本気で書くことに向き合うだろうと思ったりもしますが、デリケート微妙で点いたり消えたりというところです。
昨年カラオケはもういい止めようという時期がありましたが、歌も表現である以上他者に向かわざるを得ないところがあって、ここを無視して自分一人の世界に閉じ籠り続けるのは難しいようです。つい5〜6年前までカラオケに行く自分などあり得ないと疑う余地もなかったはずですが、それを自分の意志で覆したのだから、更に在り得ない自分を展開させてみようかと思うこともありますが、冗談ではないと憮然とする自分も強固です。
70歳が近くなっても、あるいはだからこそなのか、知らない自分と出会うのはことのほか嬉しいです。よりフリーに在ろうとすることは、生命の輝きその炎を自分の中に見出したい故にです。
posted by 明石 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年03月28日

苗木を植え付けて

注文していたミカンの苗木が届いたので、翌日早速植え付けました。
3月に入ってすぐ苗床をもう一度耕すなど準備を万全にしていたため、5時間ほどで50本植え終わり、予想よりはるかに早くて、100本植えるのも2日あれば楽にできそうです。
来年100本植えて、再来年も100本と思うと、なんだか元気が出てきます。10a60本で計算すると300本だと50aになり、既にハウス跡15aは小原紅ミカンが2年前に植え付け終わっていて、現在収穫している青島系金峰ミカンとも合わせると、70a(7000u)は越えるような規模のミカン園となりそうです。
もともとミカンを作るために開墾された畑を、最後にもう一度ミカン畑に戻すのは、日の目を全く見ることなく終わった物をそれに携わった先人たちの思いも含めて、このままでは終わらせないという意地か反骨魂をどこかにちらっと感じたりもします。標高による気温差が当初は大きなハンディとなってミカン畑は壊滅したのですが、10年ほど前からことに夏場の高温でブランドの産地が品質を低下させる一方、平地に比べて3〜4度気温が低いということが大きな利点となっていて、ここでなら質の高いものが作れると気象環境は今や逆転しています。
私等の畑は五色台の南東中腹斜面の一角にあって、標高200〜300mというところですが、斜面である以上労働条件はその分厳しくもありますが、美味しいものができる条件はほぼ完備しています。立地条件は人の努力や技術で越え難いもので、たとえば私が西向きとか北向とかで作っていたなら、どれほど努力しても今のブドウのレベルには到達しなかったのではと思ったりします。立地条件とは言葉を換えれば自然環境で、農業は自然の中での生産活動であるが故に、自然のなせる業に人がどれほど無力であるのか、時として嫌というほど教えられます。だからせめて適地適正を誤らない選択をしなければということに尽きるのだろうということです。
私は昨年末からミカン園の復活に本気になり始めてから、終活に入っていたような自分をどこかへ蹴飛ばしてしまいました。ことさらそう思って終活に入ったのではありませんが、60歳になった時、もう何時終わってもいいと思ったことが引き金になってしまったようです。ホームページを立ち上げて、ブログを書き始めたのも60歳からで、だからブログも次第に終活的な動機を反映したものになっていったということはあるようです。60代中頃には何事につけ意欲も薄れて、早くお迎えが来ることをどこかで願ってもいました。
けれど、仕事をしていて分かるのは、体力も能力もまだ殆ど衰えが来ていないということです。今68歳ですが、日本の専業農家の主力の平均年齢と同じです。体にどこか悪いところがある訳でもなく、まだばりばりの現役生産者であるのが当然なはずです。結局、終活に収まらない体力や元気さが内側から爆発して、終活を破り捨てたということになるようです。もう一度生き直しのようでもあり、今度は最後までイケイケです。
完成や完結はそもそも無いのが本当で、自分という命が燃えれることが一番大切で、燃え尽きて終わればそれでいいのです。
posted by 明石 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年03月15日

黙する季節

6年前に親父殿が亡くなってから、毎年のように1月から3月の間に近しい者親しい者が亡くなり続けて、気が付いてみるとこの時期になると私の語り口は閉ざされがちになっています。喪に服すとか別にそんなことを思っているのではありませんが、命日頃には故人をなんとなく思い浮かべて、亡くなったからと言っても何も変わらず私の中では存在し続けているよ、と面影に語りかけていたりします。
親父殿や北村氏の死はブログに記していますが、北村氏の一年後の一昨年3月には姉が亡くなり、昨年1月には叔父が亡くなっています。不思議なのは死別ということにあまり感情が湧かず、私の中では変わらずに存在し続けていて、違いは生身の本人に対面することがなくなったということです。他者との関係が記憶の積み重ねの中ににあるのなら、死もそれほど決定的な意味を持たず、新たな記憶を生み出す未来が閉ざされただけのことになるのではと思えたりします。
私もそうでしたが、人の寿命から考えて平均的であると、60歳前後から親世代との別れが始まり、兄弟とか友人とかにまで及び始めてくると、死が自分にも身近に迫って来つつあるのを漸く悟ります。命は必ず終わりが来ると頭では理解していても、まさか本当に自分にそんなことが起こるとは思っていないのが常ですが、60を越えて毎年葬式ばかりに出席していたら感じ方が変わってきます。それがことに自分の近しい者親しい者であれば猶更です。
近しい者親しい者が亡くなり続けたここ5〜6年、彼らは私の中では変わらずに存在し続けています。死者は物理的には存在しなくても、関係が深いほどに人の心の中には存在し続けます。私は年齢的にはまだ始まったばかりかも知れませんが、高齢になるほどに他者との関係は死者の割合が増えてきて、例えば百歳の人の心の中に存在する人々は圧倒的に死者の割合が高いのではないかと思ったりします。
何時だったか、同級生とのお茶会の日、皆が来るのが遅れて、私は一人でぼんやり戸外の樹々を眺めていると、朝陽が眩しくて白日夢的に、皆がこの世にいなくなって自分が最後の一人になったと仮想してみると、ああ長生きはしたくないとの思いがこみ上げてきて、白日夢は終わりにさせました。
命はどこまでも生き続けようと欲するものかもしれませんが、あまりの長生きは心理的にきつそうです。私の親父殿は死の2月前まで畑仕事をしていました。いわば死ぬまで現役の生産者であり続けたという、羨ましい限りの理想的な終わり方で、私も同じような終わり方ができるようただ願うばかりです。
posted by 明石 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年12月25日

苗床準備

これから3〜4年で普通温州みかんの苗木を300本植え付けるとして、苗床の準備にどの程度手間時間がかかるのか、とりあえず来春に植え付ける30本分の苗床を掘ってみることにしました。ブドウだと苗木一本植え付けるのに、永年床くらいのつもりで、深さ40pで20〜25u掘り起こして砕きます。1日に2本分しかできませんが、面積にすると40〜50uとなります。みかんだと1本分は3uと決めているから、単純計算だと1日に15本分前後となりますが、根の広がりとか土の固さとかでずいぶん違ってくるので掘ってみないとわかりません。
道具は例によって ツルハシと二本鍬とで、今時こんな原始的な肉体労働をする者は居るのか、と思ってしまうほどハードです。土建業の友人がこの作業を見て、「今時の若い奴にそんなことをさせたら、半日も持たずに皆辞めてしまいますよ。」と言う。
気温が3℃以下の時でも額が汗ばむほどにキツイのだけど、一堀り一堀りに思いが籠っていくから、私はこの作業が嫌いではない。途中苗木屋さんに電話してみると、苗木の追加注文20本可能だとのことで、結局6日間で50本分の苗床を掘って今回はここまでです。来春は50本の植え付けですが、再来春からは100本となりますが問題なさそうです。
ツルハシや二本鍬を打ち込む度にミカン園再生の思いが強く固まって本物になってきます。3年後までに300本苗木を植え付ければ、普通温州ミカンの園地面積は50aは楽に超えそうです。
ミカンは普通温州の青島系がやはり一番おいしいです。私のところで今収穫しているのは青島系金峰ですが、糖度12〜13度はごく普通、時には15度を計測することもあります。
10度以下の極早生や10度前後の早生ミカンから撤退が始まっていると報じられていますが、美味しくないと消費者離れは当然だろうと思っています。
ミカン園地の再生は10年後を睨んでのものですが、店じまいにかかっていた自分を破棄して、元気と意欲を取り戻し始めている自分が本物になりつつあるようです。活気を得られること生命を燃え立たせてくれるようなことが最大の価値があると今改めて思っています。
posted by 明石 at 18:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年11月29日

ミカン園地の再生

普通温州ミカンの苗木を30本予約注文しました。苗木が届くのは来年3月ですが、これを手始めとして、いよいよ普通温州ミカンの園地の整備改植を本格化させる積りです。3〜4年後までに300本程度苗木を植え付けて、普通温州ミカンの園地面積を50aまで復活させようと考えています。私等の園地はもともとミカン栽培のために国の補助事業で開墾されたものですが、木が成長して本格出荷を迎えた頃には、ミカンは生産過剰で市場は惨状を呈していました。加えて園地が標高200m〜300mほどの高地にあり、気温が平地より3〜4°低く、出荷時期が他産地より一月近く遅れて勝負にならず、ただの一度も日の目を見ることもなく、生産が本格化するのと撤退が始まるのがほぼ同時でした。総面積40haほどのミカン畑で今残っているのは、生産者は一人で面積は2haほどかと思います。
私のところは自家用程度にしか残していませんが、再びミカンをと思い始めたのは、特にここ5〜6年気温の上昇で、ブランドの産地でもことごとく品質が低下の一途にあるという現実です。昔は3〜4°気温が低い高地ということが太刀打ちできないハンディだったのですが、今はそれ故に品質の良いものができると、逆転しているのを感じ取っているからです。加えて生産者も激減しているはずで、10年後なら尚更です。
小原紅早生ミカンは今春40本苗木を植え付けて、ブドウを止めた15aのハウス全域に苗木の植え付けが完了しました。ハウス半分は6年前に苗木を植え付けていて、来年には初出荷となりそうです。まだ若木なので成木にならないと結論は出ませんが、現在一番糖度の高い木は13°を越え始めて、糖度的には最高レベルに達しそうです。
ミカンは苗木を植え付けて成木化するまでに10年以上を要します。10年後に私は仕事ができるのか生きているのかそれは分かりませんが、10年後でも自立自活できるだけの基盤整備をしておこうと、最近考え方が変わってきています。何時まで仕事ができるのか、生きているのかばかり考えていたら、何もできなくなるだけです。父が85歳まで現役で農業を続けられたのだから、それを一つの目安として、生涯現役を目標とします。考えてみると、80歳を過ぎて自立自活の専業農家で在り続けるのは素晴らしいことで、生来へそ曲がりの私にはぴったりの理想形であるのかも知れません。
70歳が近くなって10年後のために苗木を植え付け、80歳が近くなっても10年後のために苗木を植え付け、90歳でまだ10年後のために苗木を植え付けられるなら、それはもう笑い話になりそうですが、専業の生産農家の生態は本質的にそうであるのだろうと思えます。私も農業人であるならそのように農業人生を全うしたいものです。
ヒサヨちゃん一家との関わりで、また別のところで自分が目覚めたようです。60歳を迎えた時からもう何時終わってもいいと、どこか終活に入ってしまっていた自分を破棄して、本来の自分に帰り着いただけなのかも知れませんが、やる気を取り戻せたのなら願っても無いことです。ヒサヨちゃんが私の後をやるのかどうかは分かりませんが、やれるように基盤整備をしておかねばと思うのと、ヒサヨちゃんがやらないのなら農業体験塾的なこともしたりして良い出会いがあればと考えたりもします。いずれにしろ、私が自立した専業農家の現役最前線であることが前提で、何時まで何処までとかつまらないことは考えないで、そう在り続けようと努めるだけです。
posted by 明石 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年11月11日

花澤先生ご夫妻と

最近何時訪れたのか思いだしませんが、ともかく久しぶりに花澤ブドウ研究所を訪れました。今年5月に花澤先生の奥さんからメールが入って、その時ぶどうの販売が終わればお伺いしますと返信していたのです。
5年前の12月に父が亡くなってから、次の年の8月には大学時代からの友人が、その次の年の3月には高校時代からの悪友が、そして昨年3月には姉が、今年1月には叔父がと近しい親しい者が亡くなり続けて、こうも続くと私もどこか自失状態であることは否めません。
以前はブドウが終われば花澤ブドウ研究所を訪れるのを毎年恒例としていたのですが、それも父の死後ぷっつり途絶えていたのかもと思うと、この5年間の空白さが私に改めて突きつけられているようです。
花澤先生も今年で85歳になられたとのこと。80歳前後から病院通いが多くなったのは聞いていましたが、現在も週2回はリハビリに通って自立自活に努めているそうです。
私の父は5年前85歳で亡くなりましたが、死の2月前まで仕事をしていて、現役でなくなった途端この世を去ったという、羨ましいほど理想的な終わり方でした。私が父の年まで生きられるとしたらまだ20年近くありますが、還暦を迎えた時にもう何時終わってもいいと思ったことが、その後基底気分ともなっていて、意欲が薄れて退潮気味になっていたのは否定できません。日本の専業農家の主力の平均年齢が丁度私と同じであることを考えると、意欲をなくして老けこむには確かに早すぎるのだろうとは思ったりもします。
「日本の農業農政に関してもっと発言発信を!」と花澤先生が私に言いたかったのは分かっていますが、末期症状の患者に延命治療を施すより、終わらせてしまった方がいいのではと思ったりします。人口増加と加速する気候変動で、世界の食糧事情が厳しくなるだろうことは容易に予測できますが、我が国の危機感の乏しさは致命的で、日々の生活に困窮を極めるほどの食糧不足に至らなければ、国として食糧を自給することの重大さは分からないのだろうと思っています。
農業を国民の総意で再生させる時が来るのかどうかは分かりませんが、それができるのであれば国としての基本的な在り方を問い直す道も開けて、現在のような不毛な憲法改正論争などとか見なくても済むのだろうと思います。選択肢のないところまで追い詰められて、困窮を極めないと、この国は変われないのだろうと思っています。
posted by 明石 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月23日

暗欝な日々

卒業してから50年経っても、高校時代をことをあまり思いだしたくないのは、在学中私は高校を刑務所のように、自分はそこに繋がれた囚人のように感じ続けていたからです。いまだに高校に近づきたくないほどの嫌悪感が残っていて、残念ながら私には愛校心は殆どなさそうです。
県内3番手の進学校に入ったのですが、進学校だから毎月模擬試験があって、成績順位が出されます。私はトップクラスの成績で入学したそうですが、その4月から3カ月連続で150番前後成績順位を落とし続けて、そこがどん底なのか卒業するまでその位置をキープし続けました。学年の総数が600人だから、500番落ちれば底に着くはずです。
授業は聞かない、家庭学習はしないのは完璧と言えるほどで、劣等生を極め尽くした3年間でした。家庭学習日誌を提出する時、0時間とは書けないので1時間前後と嘘を書くのですが、それでよく進級できたなと担任に呆れられたのですが、後々考えてみても、よく卒業できたものだと自分でも思います。もともとの志望校、県内トップの進学校に行っていたら、まわりとの落差があまりに極端で、卒業できずに退学することになっていたではと思わずにはおれませんでした。
高校生になると反抗的な態度に暴力的なところも加わって、私が何をしようと授業の邪魔をしないなら放置すると、先生方もそう決めていたようです。態度の悪さは目立っていたはずで、補導部の主任先生がやってきて、「おまえは今のところは目立った悪さをしていないが、そのうち尻尾を捕まえて、必ず退学にしてやる。」と仰る。何もせずに1日を過ごすことは苦痛過ぎて、早退したり不登校だったり、市内をうろうろして補導員に追っかけまわされたりしましたが、いつも逃げ切ったので退学騒動までには至りませんでした。
私はいつも単独行動でグループ行動はあまりしません。落ちこぼれたり悪になったりするのは自分一人でいい、他者を巻き込みたくないと、その心構えだけははるか子供のころから身に付けていたようです。
高校1年生のある日、私は突然物語を書き始めました。幼少のころから私には夢想癖があって、反抗的になるほどに、救いを求めるように夢想世界に浸るのもありがちでした。夢物語の世界を突然文章表現し始めたのは、何もしない苦痛感から抜け出したかったからですが、最初はお試しの暇つぶしであったはずです。それがほそぼそでも続いて次第にのめり込み始めると、一つの思いが芽生え始めました。
私は依然として自分が何をやりたいのか、何になりたいのかを見出してはいませんでした。大人社会に目を向けると、やりたくない、なりたくないばかりで、自分の居場所が何処にもないのを知るばかりです。夢物語を書き続ける自分が、「ないのなら作ればいい、自分の世界を作るんだ。」と声をあげました。「自分の世界を作るために作家になる。」と繰り返すと、その思いは一つの芽となって私の内側に根付いて、それ以後育ち膨らんでゆきました。文学、哲学、思想書等古今東西の著作を読み漁るために進学したいと思うようになった時、私は多分初めて勉強したい自分と出会っていたのです。
posted by 明石 at 20:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月22日

何処へ

エリートにならないと決心してからは、離脱の日々が始まって、ただ遠くを眺めているような時間が増えたような気がします。授業は全く聞いていないし、それだけで辛うじて学力を保っていた、試験前の一夜漬け学習も以前よりなおざりになり、本音を言えばどうでもよくなってゆきました。
授業を受けるのが苦痛で、その度合いが日々膨れ上がっていたある日、1年生時の担任の数学の授業中、苦痛感が極度に高まって、額は汗ばんで体は小刻みに震えていました。必死で我慢していたのですが、もう駄目だとパンクした瞬間、筆箱を叩きつけて教室を駆けだしました。「爆弾教師」だから追いかけてくると思ったのですが、来ませんでした。考えてみると、あまりに唐突で訳の分からない出来事だったのかも知れません。ちなみに同窓会とかで同じクラスだった者に聞いてみても、この事件を記憶している者は誰も居ませんでした。
自分が何をしたいのかが皆目見えてこないので、手も足も出せず、ストレスばかりが増大して、精神とか神経に障害が出るようになり、発作も時々出て、情緒不安定とか集中力欠如とかの評価を受け続けました。
私が一番困ったのは笑えなくなったことです。笑おうとすると顔面の神経が硬直して、苦痛に歪んだような顔になるので、相手は驚いたような表情になり、それが度重なると対人恐怖症になりそうになる。負の連鎖的に次々いろいろな神経症に襲われたのですが、なんとか持ちこたえて中学を卒業するまでには自力で克服しました。
当然のことながら、成績はずるずると上級生になるほど下がり続けました。「お前はなんだ!皆が受験で一生懸命勉強しているのに、上の空で他ごとばかり。高校を受験する気があるのか!」3年生時の担任が苦々しく吐き捨てるように言う。私も嫌いなタイプなので無視して相手にしません。
これほど授業を受けるのが苦痛なのに高校へ行くのかと考えると、気持ちが萎えてきますが、大人社会に出て行くのは尚更嫌だから選択肢はなしです。
posted by 明石 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月19日

刻みこまれた情景 13歳の春

中学2年生の13歳の春、私は「エリートコースは歩まない、エリートにはならない。」といやにはっきりと決心しました。まわりの大人たちとか世の中の価値観、例えば東大を出て大蔵省へ入るのがベストというようなエリート人生を思うと、そんなつまらない生き方はしたくないと強く思ったからです。この決意、決心は今も明確に私の内に深く刻まれています。というより、その後現在に至るまでここをベースに歩んだのだから、この思いを抱えて私は生きてきたと言っても過言ではありません。
私にとってそれほどの大事件ででありながら、心の内の問題であるだけに外からは一切見えず、何も無かったことになるのですが、この時から周りの同級生達に私は一切見えなくなるだろうとの思いもあって、心のどこかで秘かにさよならを告げていました。
1年生終了時に担任に言われたことが、自分の進路を考える引き金になったのは間違いありません。私は小学校の6年間は担任は女の先生ばかりで、中学生になってやっと男の担任になった安ど感もあって、担任に悪い印象は持っていませんでした。担任はびんた制裁も時々ある「爆弾」とあだ名された数学の教師で、当然私もびんたを食わされたことはありますが、親父の鉄拳制裁に比べると蚊程度でたいして気にもならず、私としてはまともに先生の授業は聞いていたはずです。中学は学年ごとにクラス編成があってクラスメートが変わり、担任が変わります。それ故なのかどうかは分かりませんが、1年生の終わりごろになって先生が皆の前で、「明石よ、まだ勉強する気にはならないか。お前は今回の試験でも主要5科目は素晴らしく、学年で2番だった。先生はお前が本気で勉強するとどこまで伸びるのか、それが見てみたい。」と懇願するように言われて、頭からがつんと勉強しろと言われれば猛然と反発するのですが、そんな風に言われると私でも少しは心に刺さりました。
私は中学生になっても授業はあまり聞かないし、家での学習も普段はまるでしませんが、試験になると主要5科目だけは前日に一夜漬け程度には勉強しました。他の4科目はまるでやらないから点数はせいぜい40〜50点で、9科目合計での順位は250人中10〜15位程度だったと記憶しています。成績とか順位とか殆ど気にしていなかったのは小学生の頃から変わらずで、その意味では向上心は全然とは言いませんがあまりなかったです。主要5科目ならトップ争いをしていたと先生に言われて、初めてそのことを知って、少し心に刺さった先生の言葉を反芻していました。
いくら想って見ても先生が見たがっているようなエリートになる自分は想像できず、もう既にまわりの大人とか社会への反抗心は目覚め過ぎていて、翻意の余地は殆どなかったようです。エリートコースを歩まない、エリートにはならない、と決心したのはわたしにとってはごく自然な成り行きだったと思っています。
posted by 明石 at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月17日

刻みこまれた情景 小学生の頃

自分が見る自分と他人が見る自分との違いはいつでもあるものですが、同窓会で何十年振りかの同級生に会うと、「明石は勉強ばかりしていた秀才だった。」とよく言われるのには愕然とします。自分の知る自分とは天地ほどの落差があって、それではまるで見られていないのと一緒で、一体何なのだと思ってしまいます。
私の記憶に今も鮮明に刻みこまれている自分は、勉強する暇がないくらい野山を駆け回って遊び呆けている自分です。平日でも放課後4〜5人は遊びに来ていたし、休日だと10人前後というのも珍しくなく、自分では遊びの天才だったのではと思っています。小学校5〜6年時の記憶は特に鮮明で、担任にとって厄介な生徒であったことは間違いありません。
授業はあまり聞かないし、宿題は殆どやらない、罰で立たされるのはクラス最下位の落ちこぼれ君と双璧で、例えば夏休みの宿題とか、まったくやらなくても1〜2時間立たされれば済むのだから、それなら当然罰を受ける方を選ぶという生徒でした。
授業を聞かないというのは元々と言うのもありますが、聞いていると同じ事を何度も先生が繰り返すのに苛立って、進むペースの遅さに我慢できなくなり爆発しそうになり、噛みつくような顔を先生に向けていたと思いますが、「あなた一人のために授業をしているのではない。進むのが遅くて我慢ができないのなら一人でどんどん先に行きなさい。」と怒られて、「あ そう。分かりました。二度と授業は聞きません。」と密かに応えていました。
母親が授業参観に来ると、先生は私が机の奥に押し込んでいる0点とかそれに近い答案用紙を引っ張り出して見せ、「授業を聞いていない時はこうなんですよ。」と私の素行を教える。テストの点数とか成績とか全く気にしていないから、気が向かないと答案用紙を白紙で出すというのも、この頃から始まったようです。
それでもトータルすると成績はクラスで3番手で、さすがに先生も納得がいかないのか、「皆さん、明石君に騙されてはいけません。明石君は勉強しないふりをして秘かにやっているのです。」とやられた時は私も頭に血が上って、この先生は許さないぞと誓っていました。
6年生の3学期、先生がひそひそ声で「中央委員会でのあなたの発言が建設的だと先生方の間で評判になっていて、校長先生も卒業時に特別表彰しようと言ってる。」と嬉しそうに私に聞かせました。話の途中から自分の顔から血の気が退いてゆくのがはっきり分かったし、聞き終わった時には私は完璧に破壊者に豹変していたはずです。次の委員会から凄まじく破壊者一辺倒で、手当たりしだい壊しまくって、そして小学校を卒業しました。
posted by 明石 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月15日

老いた子供

2年余りブログの更新はしませんでしたが、この間も月1回定例のお茶会とか年に数度の飲み会とか、同級生と付き合いは変わりなく続いていて、お茶会などここまで長く続くとは予想していなかったので、メンバーそれぞれが相当くたびれるかなり大詰めまで続くのではと、改めて考えると驚きも混じってきます。
70という歳が近くなってきた同級生の集いで不思議なのは、共に過ごした小中学生時代を起点にして、そこから老いた現在のお互いを見ているのか、現在から共に過ごした子供時代を手繰り寄せているのか、両方が入り混じって判別しづらいということです。どちらの割合が大きいのかあえて判定すれば、多分子供時代から現在を見ている方だと思えるのは、私だけなのかどうかそのうち皆に聞いて見るつもりです。
いずれにしろ私が思うのは、同級生の集いとかで顕著ですが、人の記憶に10歳前後の頃が何時までもまざまざ鮮明に在り続けるのは、この歳になってみると驚くほどです。私自身振り返っても、30代から50代の記憶の残像は薄く、20代前半までが圧倒的に鮮明であるようです。
何故なのかひとつ言えるのは、人それぞれ感受性が鋭敏で豊かであるのはおそらく10歳前後を頂点に若い時ほどで、大人になって社会化されるほどに感受性は鈍化しているのだと考えます。
個人が社会に組み込まれていくほどに感受性を失っていくとすれば、人間の成長ってなんだろうとふと思ってしまいます。
この歳になってもその頃の同級生が集えば、いともたやすく子供心に帰り着くのであれば、年齢を重ねるほどに外側は劣化して老いても、浸食され尽くさないかぎり、内側コア部分には子供心が刻まれていて、老人とは老人の衣装を着た子供なんだ、と考えると少し楽しくなってきます、「俺たちは子供だ!俺たちは自由だ!これからはやりたいことをやるんだ!」と。
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2017年10月10日

やっと来たその日

愚図ついた天気が続いて久々に晴れた日の朝、10時になったので倉庫に降りて栗の実を取りだしていると、うちの奥さんの車が上がってきました。後ろのドアが開いて「おじちゃーん!」アカリちゃんです。「アカリちゃん、おはよう。」笑いながら言うと、なんだか照れくさそうにもじもじしています。一か月余りのご無沙汰が正直に反映しているようです。
早すぎず遅すぎずという絶妙のタイミングで、ヒサヨちゃんとうちの奥さんがこの日を決めたのですが、別れ際の言葉を本音と受け取っていいのかどうか、お互いに手探り的なところもあったようです。そんな心配は取り越し苦労で、お互いに本音だったからすんなり実現したのだと思います。
「すごく楽しみにしていました。」とヒサヨちゃんが何度も言いましたが、それは私等も同じで、来る日が決まったその時からカウントダウンの日々を指折り数えていました。
ヒサヨチャン一家が私の近所のアパートに居たのは、昨年3月から今年の8月までの1年半で、それはヒサヨちゃんにとって過酷といえるほどに厳しい1年半になったのではと思っています。あちこちの休耕地や放棄地を借りて、総面積5町(5ヘクタール)でにんにくを栽培するためにやってきたと言うので、7〜8人の作業員でやるのかと思えば、3人でやるのだと言う。3人で5町の栽培は不可能で、5反の間違いでは問い直すと、間違いなく5町だと言う。その無茶無謀さに呆れ返ったのですが、50代の社長をはじめ全員農業未経験で、盲蛇に怖じずとはまさにこのことだなと溜息が出ました。
今年の1月、実は旦那が昨年10月に出て行ったのだとヒサヨちゃんから聞かされた時は、私はその場に凍って固まりました。どんな事情があるにせよ、1歳と3歳の幼子を抱えた妻を残して出て行くなど、もうそれだけで男として人として失格だと、やがてめらめら怒りが燃え上がって来て、この時から私と妻はヒサヨちゃん一家に気持ち的に本気で肩入れするようになり、通常のご近所さんラインは越えてしまったようです。
今年8月でヒサヨちゃんは会社を辞めましたが、これがまた酷い話で、胸糞悪いので要約しますが、社長がとんでもないペテン師であることが発覚したということです。今年は猛暑日がうんざりするほど続いて私でもへとへと気味でしたが、ヒサヨちゃんに聞くと草刈りをするのだと言う。馬鹿な、こんな猛暑の中で毎日8時間以上も草刈りなどしたら死ぬぞと警告をしても、ヒサヨちゃんに仕事を指示するのは社長だからどうにもならず、私ほどにヒサヨちゃんも社長もその危険性を認識していない故に、素人の馬鹿社長に殺されてしまうぞと心配で心配で、怒鳴りこんでやろうかと発作が起きそうになるほどでした。「私、そんなに弱くない。大丈夫だから。」と猛暑の中で毎日草を刈り続けるヒサヨちゃんに驚きました、「なんて凄い娘なんだと!」
1年余り子育てに仕事に一生懸命なヒサヨちゃんを見てて、なんでそんなに頑張れるのか心打たれるほどで、体力も精神力もこんな凄い娘もいるのだと自分の認識を改めさせられました。
私等にはヒサヨちゃんは前向きな顔しか見せませんでしたが、旦那さんのこととか長年信じてきたお寺さん社長のこととか、本当は深く傷ついていたのだろうと思っています。どれほど深く傷ついてもアカリちゃんやダイゴちゃんの世話は泣く暇もないくらい待ったなしで、それが逆にヒサヨちゃんを救った面もあるのだろうと思います。子供が居なかったら一人で持ちこたえられたのかどうかそれは分かりませんが、子供を守ることで逆に子供に守られていることもあるのだろうと思えます。
私には子供も居ないし後継者もいません。私と妻、私等が終われば園地は廃園、家は廃家となります。市場関係者とかお客さんとか行政など関係各方面から後継者をなんとかと言われ続けてきましたが、どれほどレベルの高いぶどうを作っても食べていくのが精いっぱいというのでは後継者を作ろうという気にはなりませんでした。
それが猛暑の中で草刈りをするヒサヨちゃんを見てて初めて気が変わりました。1週間余り考え尽くして、ヒサヨちゃんに伝えたのは、「農業で自立したいと言うのがにんにくでなくぶどうでもいいのなら、うちでぶどうを作るという手もあるよ。私には子供も後継者も居ないし、私が終われば廃園になるだけだから、ヒサヨちゃんがやるのであればいずれヒサヨちゃんに全部あげるよ、農地も家も。ただ養子縁組して法定相続人になってもらわないと、私には甥や姪がいるので、贈与では立場が弱いから。」ということです。
その時はヒサヨちゃんはにんにくに一生懸命であまりピンとこなかったようですが、この件に関しては私の方は全く同じ変わっていません。ヒサヨちゃんのお父さんにも引き上げる際にはっきりそう伝えています。
ただ決めるのはヒサヨちゃんです。そんなに慌てて決める必要もありませんが、技術の伝承というか、1人前のブドウ作りに育てるために、3〜5年の期間が必要ということもあり、私がくたびれてしまってからではきつくなるということと、現在どんどん規模を縮小しているのをどうするかということもありますが、今の私の体力、能力ならまだ暫くは両睨みでもいけそうです。今回園地でヒサヨちゃんに言ったのは、やれるかどうかではなく、やる気になるかどうかだということ。私の密かな想いは、もしやるのであれば、5年で日本のトップクラスのブドウ作りに育てる自信はあるし、本人がどう思おうと、ヒサヨちゃんはそれだけの人材だと私は勝手に惚れ込んでいます。
私の現状に問題なのは販売面です。商売の資質が乏しいこともありますが、それ以上に職人としてのプライドとか整合性を求めすぎる性格が、販路を細くしているのはよく分かっています。ここをどうするかが経営上の最大の問題点であり、打開策が無い訳ではありませんが、自分の生き方にかかわることなので簡単ではありません。が、自分だけの問題で済まなくなれば、突破することになるのだろうとおもいます。
今回やっとヒサヨちゃんと一緒にカラオケに行けました。ヒサヨちゃんは20代の頃は演歌歌手を目指していたそうで、その歌を聴いてみたかったのですが、こちらに居る時のあの忙しさでは到底無理でした。ここ3〜4年あまり歌っていないそうで、それでは思うように声が出ないだろうと思っていたのですが、迫力のある綺麗な声に驚きました。高い声が出るかどうかと言っていましたが、よく響く個性豊かな声で、キーンと金属音が入ってくる高温はボイストレーニングでどんどん高くなりそうです。プロを目指していたのはもっともだと、私も奥さんも全く納得しました。ほぼ40年前、会社の慰安旅行で宮崎に行った時、スナックのお姉さんの歌声にしびれたことを思い出しました。プロを上回る個性豊かな歌い手に出会うと、プロって何なのだろうと思ってしまいます。
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2017年09月10日

カラオケご一緒しませんか

ブドウも漸く出荷にこぎつけた瀬戸ジャイアンツを残すだけとなり、気分転換と体調回復を謀って週1回のカラオケ通いを再開していますが、さすがに3年目になると飽きがきています。相棒のY氏にはそんな様子が見られないのですが、私はカラオケの5〜6時間が苦痛なほど長く感じられることもあって、すっかり退潮気味です。過去2年間で、どこまで声が出るようになるか、どこまで歌えるようになるかの実験テーマはほぼ輪郭を得ていることもあって、目的意識が薄まって見えづらくなっています。
誰かに歌を聴かせたいとか他者に向かう欲求があればこうはならないのだろうけれど、私にはそこは希薄で、故に自己完結性が短絡的になってしまうのは、何事につけても私にはありがちな大きな欠点なのだろうと思ったりもします。
自分から出て自分に還る自己完結性は、そのサイクルの中にどれだけ他者を世界を含み得るかが最大のポイントで、ここを無視すると単にひとりよがりに終始するだけです。
書くということも同様で、他者に語りかけようとする欲求が私には乏しく、それであまり意欲的になれないというところもあります。ならば別に書くということに向かわなくても良さそうなものですが、そう収束しきれないのは、自分史的に書かないと完結しないような自分があるからです。
最近私がふと思うのは、子供や孫が居なくて自分で最後だと当然のように思っていますが、本当は何か親から子へ子から孫へと繋ぎ続けていく命の在りようみたいなところを、見失ってしまっているのではないかということです。
アカリちゃん一家と触れ合った1年余りが、私に疑問符を与えてくれたようです。アカリちゃんのお母さんヒサヨちゃんの仕事に子育てに、何であんなに頑張れるんだと思うほどに、懸命な姿には本当に心打たれました。
多分私に必要なのはもっと若い世代との触れ合いで、ごくたまにでもヒサヨちゃんのような懸命に頑張る姿に出会えば、それは私でも本気で向き合おうとするし、書くことへの本気度も高まるはずです。
カラオケに戻りますが、2人で続けるには限界にきているようです。止めても良いのだけど、せっかくハードなボイストレーニングを続けてここまで声が出るようになってるのにと思うと、捨てるよりは生かして、これからはオープンにして出来れば若い人とも交じってみたいです。
もしこのブログを読んで、一度一緒したいという近隣の方があれば、毎週木曜日はビッグエコーレインボー店に12時半から18時半ごろまではだいたい居ますので、ハプニング参加していただくと嬉しいです。フロントの電話番号は、087−865−1233です。たまに都合で曜日が変わったりするので、居るか居ないかフロントにご確認いただければ幸いです。
posted by 明石 at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年08月24日

アカリちゃん

「おじちゃーん!おじちゃーん!」夕方野菜畑に行くと3歳の女の子が大きな声と共に駆け寄ってくる。ちょっとやんちゃな顔が可愛くて、思わず笑ってしまう。「アカリちゃん元気にしてた?」「うん。」程度の会話なのだが、いつの間にかそれが楽しみとなって、今日は会えるかなと思いながら、仕事を終えた夕方毎日野菜畑へ行く。
アカリちゃんの住むアパートは野菜畑の土手上にあって、ことの始まりは、アカリちゃんのお母さんヒサヨちゃんが、「野菜大きくなりましたね。」と声を掛けてきた時からです。声の方を振り向くと、若いお母さんとそのズボンを掴んだ小さな女の子が居て、負けん気の強そうな顔で見慣れぬおじさんを見定めようとしている様子が私を笑わせていました。
夕方時々お母さんと話すようになり、自家用野菜のおすそわけということもあって、アカリちゃんも味方だと認めてくれたようで、「おじちゃーん!」がはじまったようです。その声が大きくて、初めの頃私は少し照れくさくももあったのですが、でもそれ以上に嬉しくてなんだか元気も出てくるのです。
この様子をじっと見ていたうちの奥さんが、羨ましがって半年後あたりから参戦してきました。私が目をぱちぱちするほどの積極さで、子供たち(アカリちゃんと1歳半の弟ダイゴちゃん)を水族館に連れて行ったり、タコ飯クルーズ船に連れて行ったり、アカリちゃんの声も「おじちゃーん!」はすっかりトーンダウンで、「おばちゃーん!」ばかりが大きくなって、奥さんもなんとなく勝ち誇っているような気配でした。
子供に恵まれなかった私達夫婦は、アカリちゃんやダイゴちゃんで孫を体験しているような感覚が得られて、年をとってこんなこともあるんだねと二人で喜んでいました。
でもあまり親密になると、何時来るか分からない別れがつらくなるばかりだという思いもあったのですが、分かっていてもやはりブレーキは掛けられませんでした。
別れはあまりに突然にやってきました。盆休みで岡山に帰省していた一家が1週間ぶりに帰ってくると、仕事の都合で岡山に引き上げることになったと言う。私と妻は顔を見合わせてしばし絶句。
嬉しいこと楽しいことがそう長く続かないのは、この年になればよく理解はしているはずなのだけれど、別ればかりが増えてくると、嬉しさ楽しさも底知れぬ無常感の上に乗っかっているのを更に知るばかりです。
車で1時間も走れば会えるほど近いところにいるのだから、その気になれば何時だって会えるよと、妻を慰めたのか自分に言い聞かせたのかよく分かりませんが、そう思うと少し落ち着きます。
一瞬でも嬉しい楽しい出会いがあれば、その幸運にただ感謝するばかりです。何時までも持続したいと欲張るから辛さが増すのだろう。もう一家が居なくなったアパートを見やりながら、元気で、健やかに、と祈ります。
posted by 明石 at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年08月07日

よりフリーに

カラオケに行くほどだから、この先の私はなんでもありそうだと、どこかでときめいているのを覚えます。そう遠くない将来に訪れるだろう自分の死を思いながら、残された時間に燃え上がる命があれば、燃え尽くさねばと思ったりします。
「書く」ということもその一つです。「ぶどうの明石園芸」を立ち上げて、そのアシスト的にブログを書き始めたのが、丁度60歳の時で、「書く」ということに向き合ったのは35年ぶりだったと思います。5年間ブログは週一回更新し続けたのですが、当初から書き始めるとブドウにとどまらないことは分かっていました。
私は20代半ばまでに一旦「書く」ことを止めようと決意し、30年後に生きていてまだ「書く」ことへの何かがあるのなら、その時再び「書く」ことに向き合おうと思いを定めていました。
この時「文芸」の「芸」の部分は捨てたと思っています。「芸」とは文章を磨くことだから、それを放棄するのは、プロにならないということです。
5年間ブログを続けてみて、「芸」的には当然がっかりすることも多々ありますが、内容的には自分の選択は間違っていなかったと納得できたりもします。
2年4カ月ぶりにブログを再開したのは、「書く」のか「書かない」のか、年齢的にももういい加減に結論をだしたいからです。
もうすこし単純に、書きたい欲求その中身に、身をまかせなければと、気難しくうるさい自分を無視しようと思うようになってきています。
posted by 明石 at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年07月31日

不明さの中で

カラオケに行くなど在り得ないと思っていた自分が、まさかのカラオケ通いを始めた経緯を書き続けてきましたが、言いつくしているかと言えばそうとも思えない節があります。意識の流れはほぼその通りだとしても、動機が突き詰めると不十分というか不明です。あまり好きではないので歌わなかったのだけど、「その気になれば歌えます!」というような自分がどこかにずっと潜み続けていたのはいつも感じていました。「歌の才能が目覚めようとしていた」と前述しましたが、「その気になれば歌える!」自分が覚醒したと言う方がより正解だと思えます。
60代後半になって、思いもしなかった自分と出会えるのは嬉しいです。更に、この年になって未知の自分と出会うほどに、私はいまだに私自身を把握しきれていないし、それはどこまで行っても変わらないのだろうと思います。命の源泉の無尽蔵さのなかに自分と言う命もあるのだと思うことが、今となっては私を安らかにさせてくれるようです。
思えば、「生きるのだ!」と命の濁流に身を投げた20代初期、「欲望の赴くままに!」と意を決した時から始まっていたのだと、今はっきりそれが見えます。
posted by 明石 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年07月29日

カラオケ採点

歌う時に私の意識にはご本家歌手を上回れるか、あるいはご本家と違う自分の味を出せるか、という思いが常にどこかにあります。そのため歌へのアプローチの角度をご本家とどこか違えて自己流が強くなったりしますが、反面音程は悪くなる一方ではとの思いが増大していました。
カラオケ通い2年目からは採点モードにして音程コードを出して歌い、音程正確率80%を目標としました。アレンジなどという程度ではなく、まるっきり自己流に歌っていることを自分で分かっていたから、80%は結構高い目標でした。
ところがこのカラオケ採点はやればやるほど不信感を募らせます。音程コードに声がぴったり重なってズレも殆どないのに、音程率は70%前後の評価というのが多々あります。私の場合だと、低い声とか優しい声とかは、どれほどコードぴったりでも全く評価されません。1年続けてみて分かったのは、カラオケ採点は評価される声であるかどうかがすべてだということです。では、どんな声が評価されるのかですが、ネットで調べてみると「普通の声」とありますが、その中身には触れていない。
私の連れのY氏はことのほか評価される声質であるようで、「神業」とか「天にも昇る心地よさ」とかのコメントが出てくることがあってびっくりします。Y氏が以前久しぶりにXJAPANの「ForeverLove」を歌った時、コードを目茶苦茶に外しまくったのですが、それでも点数は90点以上、音程は80%以上で、評価される声であればまともに歌えなくともこんな点数出すのだと、その採点構造に呆れてしまいました。
DAMの採点構造をネットで調べられる限り調べ、1年余りの実践を経て思うのは、点数にそれほど意味はないということです。あくまでもゲームとしての採点であって、歌の上手さ、良さを評価する構造ではないようです。歌の上手さ、良さを評価できるようにするなら、AIでも組み込まなければと思います。
カラオケ採点の点数を追っかけると、歌は壊れるし、歌い手の個性も壊れて、ちょうどアヒルのガアガアうるさい声だけ残りそうだと思ってしまいます。
posted by 明石 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年07月27日

スーパーフライ 続き

「黒い雫」「新世界へ」「On Your Side]の3曲は、どうにか歌えるようになるまで、通常の3倍の時間を要しました。「新世界へ」などよくもこんな変てこな曲が作れたものだと呆れます。これを歌として歌える人がどれだけいるのか総じて疑問です。
「On Your Side」は私にとってスーパーフライとの出会いで、ロックを刻みこまれた1曲となりました。越智志帆以上の絶叫スタイルで歌ってみて、自分の声がロックに昇華しきったと感じた時、本当にロックを歌えるようになったのだと実感を得ました。
「Beautiful」を含めての4曲、自分ではそこそこ歌えると思っていますが、他人の耳にどうなのかは、私には分かるはずもありません。
それにしてもと思うのは、60代後半になって初めて本気で歌に取り組んで、2年目で最高峰スーパーフライのしかも難しい曲に挑む、この無謀さは何でもやり始めたら頂点を目指さずにはおれない、厄介な性格の賜物なのだろうと、自分ごとながらどこかため息がでます。
自分の可能性を見極めることが動機の殆どで、他者に歌を聴かせたいという欲求は私には乏しいです。だから大勢の人前で歌うことは多分ないと思いますが、たとえば「のど自慢」に出るとかを遊び心で空想したりすると、歌う曲は無論スーパーフライの「On Your Side」あたり。年齢と曲との極端なギャップに加えて、突き抜けるようなハイトーンの絶叫となると、それは面白いだろうなと笑えてきます。
posted by 明石 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言