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2019年05月21日

百万種が絶滅の危機

つい先日ニュースで流れていましたが、2019年5月7日、国連報告書は「人類が自然環境と生物多様性に壊滅的な打撃を与えて、動植物百万種が今後30年以内に絶滅の危機に瀕している。」と警告しました。百万種とは驚きますが、雪崩を打って種が絶滅するそんなところまで来たかという思いと、人類は善なのか悪なのか単純な二元論的な問いに、地球にとって決して好ましい存在ではないという一つの答えが出始めているのを覚えます。
環境とか生態系とかの問題で私が以前からずっと疑問だったのは、爆発的に増え続ける世界の人口こそが問題なのに、なぜ誰もそのことに触れようとしないのかということです。経済最優先という時代に人口を減らさねばという話は、市場の縮小ということになるので、著しく時代にそぐわないからなのだろうと思っていますが、世界の人口は毎年1億増えて今75億、2055年には100億に達するそうで、ついこの間70億になったばかりだと思っていただけに、爆発的な増加とはまさにこのことだなと驚いています。
世界の人口の増加と食糧難ということもあって、今現在でも農地にできるところは農地にしようと、南米とかを筆頭に森林の伐採は広がり続けているようです。自然環境や多様な生物生態系の破壊は広がり続けて、温暖化ガスの排出は毎年過去最高を更新するほど増え続けているのですが、人類はいまだ何の対策も講じることができず、COPとかIPCCとか国連での世界会議でも世界は結束することも出来ず、結局は無為無策のまま爆発的に増加する人口に呑まれて、最悪のシナリオを辿ることになるのだろうと思っています。どのみち避けられないのなら行きつくところまで行って、なるようにしかならないのだから、その地点が次への始まりとなるのであれば幸いかなと楽天的に思ったりします。
環境問題とか多様な生物生態系の問題とか、私は学者ではないのでどれくらいの数が適当なのか分かりませんが、それでも今の世界の人口を2分の1とか3分の1とかに、50年後とか100年後とかに減らすことが唯一の解決策だと思っています。ちなみに先進国諸国は日本もそうですが軒並みに人口減少傾向にあるようで、過渡的に超高齢化社会を潜り抜けねばなりませんが、30年後あたりを考えるとかなり人口は減るのではと思ったりします。中国でも1人っ子政策が30年も続いて、凄い逆ピラミッドの超高齢化社会をやがて迎えますが、1人っ子政策を辞めても子供をあまり作らない傾向は変わらないようで、30年くらいのスパンで考えると過激に人口は減少しそうです。
爆発的に人口が増加しているのは途上国ですが、先進国諸国が途上国の子供の教育をもっと支援すれば、教育水準が上がるほどに爆発的な出生率は自ずと下がってくるのではと思います。            続く
posted by 明石 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月12日

悪い予想はよく当たる

本業のブドウ作りが今年は忙しい。12月〜1月が暖冬になると7度以下の休眠500時間に達するのが遅くて、3か所40aのブドウが発芽から全部一緒になって困ったことになります。3か所の園地で、発芽が10日から14日ずれるように、被覆の時期をずらしたり1番手を加温したりしているのですが、暖冬だと500時間に達するのが遅れて、発芽をずらすことができなくなります。予想はしていましたが、3か所一斉に同じ作業に追い回されると、とんでもなく忙しくなります。かつて5か所90aでハウス栽培していた頃の眩暈がするような忙しさを、それほどではないにしろ久々にちらり思い出したりします。
このまま同時進行で1番手のピオーネと3番手の瀬戸ジャイアンツのジベ処理が同時になったりすると、摘粒房づくりが支障が出て困ったことになると思っていたら、幸い4月が寒暖の差が激しく寒の功績というか、1番手の加温を強めてジベ処理で2週間のずれは確保できたのでやれやれです。
落葉樹は7度以下の低温に500時間以上置かれないと休眠から目覚めないそうですが、これ以上あまりに暖冬になると500時間が難しくなりそうで、落葉樹の生理障害を招くことになるのではと危惧します。
気象環境が全く過去のデーターが役に立たなくなるほど激変して、寒暖の差の激しさ、極端な雨量、毎夏の猛暑とか巨大化する台風など、農産物の生産には厳しくなる一方のようで、品質が総じて低下一方なのは市場関係者が口を揃えるところです。品質が低下しても出来てるうちはまだいいのですが、出来なくなることが何時起きても不思議ではないと、私の想定内に既に入っています。
施設園芸ブドウのハウス栽培で、一番苦労するのは室内の温度管理です。もう20年以上前のことですが、丁度ジベ処理時期の今頃、朝から雨で昼からも雨の確率が90パーセントとの予報。昼食に家へ帰ったのですが、食事中ににわかに陽が差して晴れ間となり、しかも強い日差しです。信号を無視するほど慌てて軽トラで山へ駆けあがったのですが、それでも家からだと15分前後は要し、最初に1番手のハウスに入ると熱くて息ができませんでした。温度計を見ると55度で花穂も葉もぐったり萎れ気味だったのですが、ハウスの上下を全開して晴れてから30分以内の短時間で30度くらいに下げられたので、傷みは全体の10パーセント程度で済みました。もしあんな高温の中に何時間も置いたらそれで全て終わると思うと、この時以来4月以降になると、ハウスを離れる時は雨が降っていてもハウスの上側は開けるようにしています。30分も待ってくれない温度管理の厳しさはこの時たった一回で骨身に沁みました。
温度管理の次は水の確保です。週一回30ミリ程度潅水するなら40aで120トン、1か月だとその4倍で480トンとなり、200トン、300トン、500トンの水槽というより池を作りましたが、セメントのひび割れ補修とか水漏れ防止に努めないと維持できないのが常態です。雨が全く降らなくても2か月は凌げますが、今年は春から雨が少なくて残量であとどこまで行けるか計算ばかりでストレスが溜ります。
あと被覆中だと風とか雪とかも程度によっては壊滅的な災いとなるし、猛暑続きの夏場に気温が40度を越えると多分持たないだろうとか、心配してもどうにもならないお天気なのでストレスばかり溜まります。「雨にも負け風にも負け」は決して冗談ではありません。風でハウスがごっそり持ち上げられたり、雪で全ハウスが壊滅したり、ハウスでブドウ作り30年の間には随分痛い目を見ています。長い年月の間には時として自然が猛威を振るって襲い掛かることもありますが、これまでより本当に怖いのはこれからです。温暖化による気候変動とか、地球が壊れかけているのだから、経験したこともない予測も出来ないことが頻発するのは当然なのだろうと思えます。
posted by 明石 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月24日

一瞬が一生に

夜10時頃だっただろうか、部屋のドアがノックされて「すみません!」と女の人の声。ドアを開けると少女っぽく見える女の子が立っていて、「私カギを忘れてきて部屋に入れないんです。泊めてもらえないでしょうか。」と困り果てた顔で言う。同じアパートの二つ隣の部屋だというのですが、私は会ったことも見たこともありません。切羽詰まった彼女の気迫に押されとりあえず部屋に入ってもらったのですが、まさか4畳あるかどうかの狭い部屋で見ず知らずの若い娘と朝まで一緒に過ごせるはずもなく、「俺、友達のところへ行くから朝までこの部屋使ってくれたらいいよ。」と咄嗟に決断しました。部屋に入ってから彼女の表情は固く押し黙ったまま、頷くだけで一言もありませんでしたが、お茶とか必要なことを伝えて私はバタバタ部屋を後にしました。道中、「何なんだこれは?これじゃあ俺が夜逃げしているみたいだ!」と愚痴りたくなるほど奇妙な展開です。
翌日部屋に帰った時にもちろん彼女は部屋にはいませんでした。その後も彼女の音沙汰は皆無で、お礼の一言くらいあってしかるべきなのではとちらっと思いが掠めたりもしましたが、そんなことに頓着しないのが私の流儀です。結局その後二度と彼女を見ることも会うこともありませんでしたが、一体何だったのだあれはと、何かに化かされたような不思議さだけが残りました。
私は想像力を働かせて事件事象の核心に迫るのが遊び心的にも好きで、好奇心が刺激されれば気づけば対象の回りをあらゆる角度から覗こうとぐるぐる回っていたりします。今回のことも本当言えば最初に直感はあったのですが、一晩部屋を提供してお礼の一言もないということで、それはある程度は裏付けられたようです。
多分彼女は余程思い詰めた行動であったようで、であるが故に時間とともに冷静さを取りもどしたときに、恥ずかしさに包まれたのではと推測したりします。はたまた女心を全く理解しない私に腹を立てたのかとおもったりもしますが、私の方からすると見たことも会ったこともないのにそんな無茶苦茶な話はないということになります。私は自由人志向で常識的や良識的な枠外に自分の立ち位置を探し続けますが、自分の心や欲望の在り様を拠点としているのだと思っています。つまり、心とか欲望とかが、反応して動かないと、何も始まらないということです。
事故のように突発的な出来事でしたが、半世紀近く隔たった今も、あれは本当は何だったのかとふと思ったりします。彼女と一緒に居たのは10分あるかどうかのはずですが、いまだに私の記憶の中に存在し続けています。瞬間的な出会い、ごく短時間の交わりを書き綴っていますが、例え10分程の出来事だったとしても、半世紀も生き続けるなら、他者との出会い触れ合いは感受性次第で無限に広がっていく可能性があるのだと思います。
posted by 明石 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月15日

消息不明

何処へ行っても同じだと頭で分かっていても、今ここに居ることに耐えられず、アルバイトで旅費を作っては行ったことのない地へ飛び出す、20歳の終わり頃からそんなことを繰り返すようになっていました。旅とかいうそんな余裕とはおよそかけ離れていて、日常性を絶たないとパンクしそうになって、それを避けるために飛び出す放浪というよりは彷徨だったのだと思っています。
以前ブログに記しましたが、中学生の頃授業を受けるのが苦痛でその限界に達した時、筆箱を黒板に叩きつけて教室を飛び出したことがありますが、それと全く同じことだったような気がします。ここに居れないとしたら住めば地獄で、どこだろうといずれ居れなくなるのは必至なのは分かっていますが、動き回ることで多少の時間差や未知との出会いとかで自分が持ち直せて、その積み重ねの中どこか別のところに新たな自分が熟してくるのを願うところもあります。
2回生になると大学へは殆ど寄り付かず、講義を受けることは全くなく取得単位はゼロで、3回生になった時にさすがに心苦しくて、もう大学は辞めるから授業料は納めなくていいと実家へ葉書を送り、この時から表向きは学生でも本業はアルバイターとなったのです。様々な職種のアルバイトをして分かったのは、私は決して働くのが嫌いなのではなく、肉体酷使の重労働でもそれほど苦にもならず、資質的にも肉体的にも仕事人としての適性能力は高いようで、大学を辞めるならうちへ来ないかと様々な業種で声を掛けられたりしました。
アルバイトで旅費を作っては旅に出る、その繰り返しが正味2年は続いて、網走から根室に向かうバスの中で旅の終わりを感じて一段落したのですが、私にとってこの期間が無ければこの世から消えていただろうと思えるほど、それほど重大な期間であったのだと今そう思います。
母が授業料を収め続けてくれていたので大学に籍は残っていて、4回生になって大学に戻った時に何年かかっても卒業だけはしなければ申し訳ないと思い直して、結局6回生で卒業したのですが、2,3回生時が全く抜けているので実質4年で帳尻は合います。4回生になった頃には喫茶レストランのバーテンが本業で、学生は付録のようでした。満席だと105人お客さんを収容できるほどのお店で、ここで3年間シェーカーからフライパンまでマスターにみっちり仕込まれて、プロのバーテンを使うまでになっていました。卒業して店を辞める時、「大学を出てバーテンはもうやらないだろうけど、全国どこでも一人前のバーテンとして立派に通用しますよ。」とマスターが太鼓判を押して送り出してくれました。45年前のことですが、ブドウを感謝の気持ちを込めて送ったりマスター夫婦との付き合いは途切れることなく続いています。
それで旅は終わったのかと言えば、そんなことはなく、旅はいまだに続いています。命は生まれ、育ち、真っ盛り、老い、衰え、そして終わる、その一生で同じ状態で同じ場所にとどまるものは何一つない、時は無常の旅を強いています。私が時々不思議に思うのは、昨日があって明日があるように私たちは慣らされているが、本当にあるのは永遠に今という瞬間であるのだろうということです。この時の不思議さをいつか大天才が説明してくれるだろうかとふと想ったりします。
posted by 明石 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月05日

最北へ

雪の原野を倒れるまで歩き続けたい、いつの間にか根付いたそんな願望が次第に成長して、時折熱い疼きとなって私の内部を駆け巡るようになっていました。
学生生活2年目の12月、アルバイトでどうにか旅費を作って、意を決するように北海道宗谷岬へ私は旅立ちました。京都から稚内までは鉄道で急行などを乗り継いでも二晩三日は要したような記憶がありますが、50年近く前のことだから定かではありません。
日本海側を北上しながら東北に入ると空は黒々雲に覆われて、白く波立った海は牙をむいて襲い掛かるとてつもなく巨大な猛獣のようにも見えた。車窓に映った自分が固まったような表情でこちらを見返している。なんて暗いのだと自分でも思う。東北でこれだと北海道の最北端宗谷はどうなのだろうと胸騒ぎもします。
列車を乗り継いで2日目になると寝不足もあってさすがに疲れます。途中下車なしの稚内までノンストップの旅だから猶更です。京都を出てどれくらいの時間を経て旭川に辿り着いたのか分かりませんが、仕事帰りの勤め人に交じって普通列車に乗っていました。二人掛けが向かい合った座席にあまり空席もなく、私の向かい側は慎ましやかそうなお姉さんが腰かけていました。
「旭川は日本で一番冷え込む処だと言われているけど本当?」と多分私が話しかけたのだと思いますが、彼女は首を横に振って「私の住む名寄の方がもっと冷え込む、氷点下30度以下に下がることもある。」と寒そうな顔をする。「寒くて寒くてあんまり寒いと心も凍ってしまいそうになるのよ。」彼女はその寒さの中に居るような表情を見せたが、私は彼女のずっと向こう、先ほどこの車両に入ってきた熊のような大男が、多分酔っ払いなのだろう、乗客に絡みながらこちらに近づいてきているのを見てる。ここへ来て彼女に絡んだらただではおかないぞともう心は構えています。「こんな寒い処に住んでいると、暖かい処に住んでいる人が羨ましいし、あの活気が私達にはない異質さで、怖いとさえ感じるの。」「だったら関西人は一番怖いかも知れないね。」と私が言ったとき大男が彼女に倒れ掛かるように絡みついた。
「おい、おっさん、お前ぶっ殺すぞ!頭かち割ってザクロにしたろか!」大男の胸倉を掴んで彼女から引き離して凄むと、私の目が余程殺気立ったのか、大男は一瞬でしゅんと凋んですごすご車両から出て行った。見ると彼女は蒼ざめて震えているようだ。言葉を掛けようとすると、彼女が怖がっているのは酔っ払いではなく私だと気づいた。ヤクザとでも思われたのかも知れない、列車が名寄に着くと彼女は逃げるように降りて行った。なんでこんな馬鹿馬鹿しいことになるのか、世の中を嫌っているから、世の中に嫌われてもしようがないと思ってしまう。
翌日やっとというか、とうとう稚内駅に着いた。雪は降っているが小雪で空は明るい。宗谷岬行きのバスに乗り込むと、明るかった空が次第に暗くなり、途中から吹雪、猛吹雪となり宗谷岬に近づくほどに視界は閉ざされた。終点宗谷岬は猛吹雪で視界は無いに等しい。バスを降りると数秒で雪柱になり、息をするのも困難だ。バスの待合室に飛び込んで難を逃れたのですが、雪の原野を倒れるまで歩き続けたいなど、なんて現実知らずの妄想だったのか、バスを降りた一瞬で自分の馬鹿さ加減を強烈に悟りました。結局乗ってきたバスが折り返すのを待って稚内に引き返したのですが、笑い話以下のお粗末さだったのは間違いありません。
稚内市内に戻ってラーメンをたべていると、森進一の歌が流れていました。好きな歌手でもないのですが、こんな北の最果てでラーメンを食べている自分が浮き彫りにされるようで、何故なのかわかりませんが、涙が溢れてきます。名寄の彼女は心が凍りそうになるといいましたが、誰のどんな声も届かないほどに凍ってしまっている自分に、私はただ立ち尽くしているだけだったのです。
posted by 明石 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月28日

金沢の女

北村が関西大学だったので時々ふらり京都に来ることがあった。下宿の部屋に居ても面白くないので、どこかへ行かないかということになり、美人の多い北陸金沢に決めました。二人とも学生で所持金は乏しいのですが、往復の運賃と飯代くらいは何とかありそうで、後の展開はパチプロまがいの北村が金沢で稼げるかどうかです。
朝金沢に着いて、パチンコ屋をチェックしながらぶらぶら金沢城公園あたりまで来ると、ほどなく開店という時間になって、来る途中決めていたパチンコ屋へ北村は戻って行った。私は金沢城付近の芝公園で寝ると決めていました。春だったか秋だったか忘れましたが、暑くも寒くもない戸外が最適の季節だったのは間違いなく、穏やかによく晴れた日、木陰で芝生の上だと夕方まででも寝られそうです。
周りを見回しても芝公園に人の姿はなく、木陰で芝生の上に寝転んで思い切り手足を伸ばすと、あまりの気持ちよさに日ごろの鬱々した気分も消えていました。下宿では眠りさえ四方八方から脅迫されて神経衰弱気味なのですが、知らぬ土地で快適な環境に解放されて、心地よい眠りにすんなり落ちました。
久々の快眠でどれくらい時が経ったのか、何かの気配でふと目が覚めました。寝ている私のすぐ近く女の人が芝生に足を投げ出して座っている。眠りが深かったようで私も咄嗟の状況判断が出来ません。少し微笑んでいるような優し気な彼女の目に、「ここはどこ?」と聞くと、「芝公園よ。」と返ってきました。「違うよ!どこでもないわまだ、だよ。」と突然自分でも何を言い出すやらですが、「谷川俊太郎ね。」と彼女。「あんたは誰?」と言うと、「誰でもないわまだ。」と彼女。何か嬉し楽しくなってきて私は笑っている彼女に、「ここがどこかで、あんたが誰かになるためには、どうすればいいのだろう?」と言うと、「それはあなた次第よ。」と彼女。
こんなほんわか優しそうな美人が、何故わざわざ寝ている私のすぐ側に腰を下ろしたのか、それは今考えても不思議です。彼女は北國新聞社の社長秘書で、昼休みで芝公園に寛ぎに来たそうです。出会った一瞬で触れ合えるところがあるのを感じ取りながら、好みのタイプであるがゆえにその先に私は進めません。就職はしたくないし生活に夢も望みも未来志向が全くない人間に恋愛は不可能で、好みのタイプほどに関わるのを避けてしまいます。
芝公園の入口付近に北村が見えた。宿泊費を稼ぎに行った友達が帰ってきたと言うと、彼女は立ち上がって帰って行った。お互いに名前とかを教えることもなく、その場限りの出会いで終わらせたのですが、どこかに切なさが疼くような心残りはあります。そんな気持ちを処理するのにも慣れていますが、ふと思うのは、仮に神様が出会いを仕組んだとしても意志が無ければ何も生まれない、ということです。「あなた次第よ。」と彼女の言葉が胸に刺さっているのに気付いて、「痛っ!」と顔を顰めました。
posted by 明石 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月16日

知らぬ間に

私は10代後半頃から作家志望で、そのために読書とか勉強する時間が欲しくて大学へ行ったのですが、自分は作家志望でも文学少年少女とかはあまり好きではありませんでした。妙に老成して斜に構えている頭でっかちを見ると、それ自体中身のない虚構のようで、汗や涙や血を生身で流して自分を知ったらどうなのだと腹立たしくなりました。
大学は京都の立命館大学で、言うのが気恥ずかしくて言わなかったのですが、文学部英米文学科です。特に英米文学が好きだとかは一切ありませんが、どうせ勉強しないのはわかっているから、得意の屁理屈を捏ね回して単位が取れそうな文学部を選んだだけです。あの美人シンガー倉木麻衣ちゃんの落ちこぼれ大先輩でもあるのです。
50年前の学園紛争の真っただ中の学園生活は、今の時代からだと想像するのも困難なほどに隔たってしまっています。あちこち窓ガラスが割れ、学生運動の貼り紙だらけで散らかり放題の大学に初登校の日、私は下駄ばきジーパンで真っ赤なセーター真っ黒なサングラスとさながらチンピラ姿で、校舎ロビーでいきなり上級生と喧嘩となり、学園生活は騒々しくスタートしました。
同じゼミに富山県高岡市から来た大場という、まさにそのものという文学少年がいました。小柄で長い前髪が顔を隠していて、髪の間から時々メガネが覗いていました。嫌いなタイプなのでこちらから話しかけたりはしませんが、妙にいろんなとこで顔を合わすのには閉口しました。
私は最初の半年は毎日講義に出ていました。大学の教授とはどの程度なのか興味があったからです。特に専攻ゼミでは気が向けば積極的に発言したりすることもあって、チンピラ然とした最初の印象からは皆意外であったようです。
ある日確かエドガー・アラン・ポーに関する講義中、作品のモチーフとか作品論になった時、私は教授に襲い掛かってしまいました。「死を凝視する感情の透明さ」ということを私は言ったのですが、教授が理解不能で半ばパニックに陥っているようでもあり、蓋をしてその場を脱しようとした時、大場が「先生、真面目に授業してください!」と甲高く叫びました。「私は真面目ですよ。」と教授は狼狽えと怒りが半々といった風で、結局ムニャムニャ授業を終えました。大場が「明石が本気になるなら先生も本気になれよ!」とそう言いたかったのはよくわかっていました。そんな目で見ていたのかと、この時から私も大場に多少は態度を軟化させて、時々話したりもするようにもなりましたが、前期が終わって後期になると私はばったり講義には出なくなりました。
本来の目的通り下宿の部屋に籠って文学、哲学思想、歴史、心理学に至るまで、古今東西の著作を手あたり次第読み漁りました。一日500〜600ページは読んでいましたが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は一気読みみたいに、それでも何日かは続くので最後の頃は発熱して、読み終えると寝込んでしまいました。
大場が自殺したと聞かされたのは、一回生の終わり頃なのか二回生になってからなのかは忘れましたが、内臓をざっくり抉られるようなショックがありました。あのゼミ以後会えば短い言葉でも交わすようになって、同人誌だったか彼の文章を読んだりもしたのですが、中身のない小生意気なポーズだけで、私の嫌いな文学少年そのものでした。話している時見せる屈託のない笑顔が本来の大場であるのなら、自縄自縛のポーズを壊してやったほうが良かったのではとの思いも掠めたのですが、私も自分のこともままならず、そんな余裕も力もなっかたはずです。なんで大場が自殺したのか真相は闇の彼方ですが、コンプレックスがその一因にあったのではと、なぜだか強くそう思いました。
今考えてみても、あの笑顔であれば、他者とフランクに交われたはずで、良いおじさんになれてしっかり生きられたはずだと、そう思います。
出会いは一瞬の交錯であったかも知れませんが、50年経っても私は大場のことを覚えているし、或いは彼が望んでいたかもしれない、友人に知らぬ間になっていたのかもと思ったりします。
posted by 明石 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月10日

月の道

3年前大学時代の友人3人と淡路島の温泉ホテルに集って、ミニ同窓会を行った時の情景が時々頭に浮かんでくることがあります。大阪出身で今は和歌山県橋本市に住むY氏、京都のI氏、加古川のU氏、それに私の4人で、I氏はその前年にも我が家に来ていますが、Y氏とは20年は会っていないように思えるし、U氏とは学生の頃からだと40何年になるのか考えると面倒くさくなります。
その数年前からY氏が、元気なうちに一度皆に会っておきたいと、I氏を通じて言ってくるのですが、あいつどこか悪いのかと聞くとそんなことはないとのことで、あまり気が乗らない私は先送りし続けていました。都会育ちほどに大学時代の仲間を懐かしむのは何なのだろうと、高校や大学に懐かしさのカケラも持ち合わせていない私からは奇異に映ります。もっとも向こうからすると、私の薄情そうなところが不安要素であるようですが、田舎人特有の土着体質なのか、私は小学時代を一緒に過ごした仲間が比較にならないほど懐かしい。
業を煮やしたY氏が直接再三電話してくるようになって、私も観念してミニ同窓会が実現した次第です。
最初は南紀の温泉ということでY氏に任せていたのですが、いささか独特の趣味嗜好の持ち主で、I氏がそれを懸念して私に電話してきたので、それでは関西と四国の中間淡路島にして私が手配すると決めました。
10月のよく晴れた日の昼下がり、私は淡路島は初めてでしたが、予定通りに2時間足らずで到着しました。ホテルのロビーで寛いでいると、ほどなく全員集合というか、皆私より早く着いて近辺をうろついていたらしい。
Y氏はさすがに老けて、何をやらかすか得体の知れないようなオーラが消えて、なんとなく小さくなったなと感じてしまいました。小柄なU氏が学生時代そのままで殆ど変わっていないのには驚きました。
海を見渡せる眺めのいい部屋を用意しましたとのことで、10階だったかどうか忘れましたが、部屋に入ってみると眺めの良さは言葉以上で、気持ちが伸びやかになります。20年とか、40年ぶりとかそんな長い時間を経てでも同じ部屋に集えば、何の違和感もなく収まるのも不思議ですが、部屋の背景に伸びやかな眺望が開けていることも無関係ではないのだろうと思ってしまいます。
60半ばを過ぎると皆さすがに憑きものが落ちているというか、口角泡を飛ばして激論とか、そんなエネルギーは源で枯れてしまっています。Y氏が「生きた証を何か残したい。」と真顔で言うので、「お前子供がいるだろ、子供や孫がいるなら、それがお前が生きた証だろ!」と即座に返してしまったのですが、いかにも不機嫌な言い方で自分でもびっくりしました。私は時々他者が消えてしまうほど自己完結的であり過ぎるところがあって、他者の中に自分を刻み込むような欲求は見失いがちです。高校時代からの悪友K氏の葬儀の話をしたのですが、関係性の中で人は死んでも、その人を知る人が居て思い出されたり話題になったりする限り存在し続け、そういう人が一人も居なくなった時初めてこの世から消滅する、ということを。
「生きた証」とか死後何時までも名前を残したいとしても、歴史に名を刻むような大人物にならない限り、人は皆大差なく忘れられ消えていく存在なのだということです。野に咲く花は誰のために咲くのではなく、自分という一つの命を精一杯生きているから、変わらぬ一つの命の尊さを宿しているのです。
Y氏はスマホで私のブログを読み始めました。U氏が「悪友の死」のブログ読んだけど、あれからブログが更新されていない、もう書かないのかと聞く。分からないと答えると、特異な生き方をしているのだから小説を、自伝小説とか書いてほしいと言う。
自伝小説はどこまで本当の自分に迫って描いたとしても、どこまで行ってもフィクションでしかあり得ない。日本の近代小説が私小説云々は、読者も作者もここを混同して描かれた主人公と作者を同一視するから、作品という次元へ飛翔しないのだ。もし私が小説を書くなら、私は私のこと以外書けないから、その意味では自伝的と言えなくもないが、生身の総体を書ききることは不可能で、書かれた私は主題視点とかで切り取られた断面である上、私の気づかない作意がどう働いているかも分からず、故に描かれた私は作品としてしか成り立たないということです。ここに集った4人は皆文学部で、最後に自伝の一つも書いて自分を残したいらしく、それが妙に私を苛立たせます。
夜9時ごろだっただろうか、仲居さんが教えてくれていたのですが、ベランダへ出てみると、満月が海面に月の道を描いていました。一人で暫くその幻想的な風景を眺めていると、それだけでもここへ来た甲斐はあったと納得できました。その後も時々あの月の道を思い出すということなのです。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月28日

初出荷

まさか東京市場へミカンを出荷することになるとは思ってもいませんでしたが、2月に入るや担当者からサンプルが欲しいと連絡があって送ると、何時から出せますかと問われ2月中旬からの予定だと答えると、出荷スケジュールが自動的に確定してしまいました。
初出荷は2月17日でした。青果高速のトラック便のため販売は2日後となりますが、どんな入りになるやら私ほどの市場経験をもつと、最低ラインを考えるだけであまり期待はしません。昔大阪本場の担当者に「お前は市場と言っても自分とこだけだろ、俺は全国何か所も北海道市場でさへ出したことがある、市場がどんなところかお前よりはるかによくわかっている。」と怒鳴ったことがありますが、地元、東京、大阪、愛媛、岡山、北海道等私ほど単独で市場を渡り歩いた生産者はあまり居ないだろうと思えるほどです。
東京市場でブドウの実績はあってもミカンの実績はゼロです。実績がゼロだとどんなに良いものを出しても、いきなり高値を付けてくれないのが市場の常です。特に個人出荷物はこの傾向が顕著です。私が注目してるのは単に買いたたかれるだけなのか、伸びしろを含ませた評価を出すのかです。
初出荷の販売市況が2日後にFAXで送られてきて、少し驚いたのは予想外の高値がついていたことです。調べてみると静岡三ヶ日と同じだから、青島系としてはトップレベルということになります。今年からブドウの出荷を再開すると伝えていたから、ブドウへのラブコールなのかこれ一回ではわかりません、
1週間後2回目の出荷時の市況も同じでした。そんなにあっさりトップレベルに仲間入りさせてくれるのは、合点がいかないところもありますが、嬉しいことは嬉しいです。
55年ほど前、ミカンを作るため、国の補助事業で山の斜面を開墾して40haの畑を作った親父等先人達、そこへ植え付けた苗木が成木になって本格的な収穫時に入るころには、ミカンは全国で生産過剰になって暴落して、そこから10年ももたず撤退を余儀なくされ、ミカンの木を切り倒すと奨励金を出すような農政で、先人たちがこの地で作ったミカン組合は数年で実質崩壊してしまいました。日の目を見ることが一切なかった先人達のミカンづくりの、その崩壊の末期に30年前私は就農しました。
私は初めからブドウ作り一本で30年を過ごしてきて、父の死後わずかのミカンを引き継いだ形ですが、最初気が乗らなくてお座なりでも、何年も続けると次第に本気になってくるという私特有のパターンです。従業員とか人を雇って大規模なブドウづくりは経営維持が困難で、夫婦二人だけでできる程度にブドウの規模を縮小したことで、多少はミカンに手を回せるという事情もあって、年々ミカンへの本気度が加速したようです。特にここ3〜4年、品質が目に見えて向上して、どこにもないようなレベルのミカンを作れるのではとの手ごたえを得ていました。
私の頭の片隅に全く日の目を見ることがなく終わった先人達があって、私が本気でミカンに取り組んでそれに全国レベルの光が少しでも当たれば、それは報われなかった先人達の苦労に意味のある光を当てることになるのではと考えると、おまけでそんなことが出来ればと意欲が増します。
日本のトップの市場でトップレベルの評価を受けることは、全国に認知される端緒であり、今回思いもかけずその端緒に着かせてもらって、一矢報えたかなという思いと、今植え付けている苗木が成木域に入る頃にはと、、、、、秘かに期すものがあります。
私は10年後にはブドウ作りは辞めているかも知れません。幅4m近い100m巻きのビニールは70〜80sはありそうで、それを持ち運び出来なくなった時がブドウを辞める時だときめています。いつまで生きていつまで働けるかそればかりは分かりませんが、父と同じ85歳まで働けるなら、最後はミカン作りで終わろうとの思いが固まりつつあります。無論自分事ではありますが、どこか先人達の思いに応えたい自分も、おまけ程度にはあるようです。
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2019年02月19日

続 30年を過ぎて

先日ミカンの出荷で地元の市場へ行くと、果実部の幹部連中に取り囲まれて、「明石さんお久し振り、元気でしたか。」から始まってわいわいがやがや。4年ほど前からミカンを出荷しているのだけれど、夕方ごろ行くから会わなかっただけで、部長、課長とは10年くらいは会っていないから久し振りなのは間違いないです。
「どうしてます?」と聞かれ、「うん、ブドウを半分くらいに規模縮小して、ブドウを止めたハウスにミカンを植えている。小原紅は15aのところに100本ほど植えて、半分は6〜7年生でやっと出荷できるレベルになってきた。普通温州も昨年50本植えて、今年も50本、来年は100本植えようと、、、」と明石先生の演説が始まると、皆ニヤニヤしながら結構楽しそうなのでつい調子に乗ってしまいました。帰り際部長が「明石さんが時々来て吠えてくれたら僕らも元気がでますよ。」と言われると、お笑いタレントなのかとがっくり。
夢や野望が潰えてもそれで全てが終わるわけでもなく、生きて在ることの副産物程度のことなのだろう。専業農家なのだからそれで食っていかないと死活問題になるのだけれど、だからといって、食っていくためだけに農業をしているのではない自分があります。
専業の果樹農家として30年を越えてくると、苗木を植え付けて育てることはそれもまた一つ一つの命と向き合うことで、私の生活は樹々と不可分変更不能となっているようです。雨が降ろうと雪だろうと台風だろうとどんな悪天候でも、一日一度は必ず園地を巡回します。寝床に入ると明日の作業を考え、目覚めると今日の仕事の段取りを反芻してから起き、私の日々は果樹を作るためにオートシステム化されてしまっているようです。雨とか悪天候で二日も仕事ができないと気が滅入ったりしますが、そんな時文章を刻むことに向き合えばと言われそうですが、余暇ですることは本分がしっかり確保されているからこそできることなのです。
30年を過ごしてみて、これほどまでに農業に適性があるとは自分でも予想外でしたが、土に根ざす農業は土に根ざすような生き方と重なり合ってあるようです。成功者となり得ませんでしたが、破局へ向かう一方と言えるほど困難な時代に農業に従事したことは、自分ではらしくて良いとどこか納得できるところがあります。終活を破棄していわば墓場から蘇生してきて、近頃、このまま終わってたまるかと、持ち前の反骨精神がむくむく頭をもたげてきています。時代と衝突して生きて、自己主張を貫くには、或いは農業が最適であったのかもと思ったりもしますが、死ぬまでまだ終わっていないのは確かです。
農業、漁業、林業はさながら絶滅危惧産業と化していますが、第一次産業が終われば国が形を失って崩壊するのは間違いないと思っています。経済は世界が連動しているだけに、どこかの国の事件が深刻な世界同時不況になったり、先が見通せないし不安定です。本当に強い国、少しでも確かな国とは、農業、漁業、林業の第一次産業の基盤整備ができていて、そこをベースに確保できている国だろうと思います。経済がこけた時に何もない国、そんな日本を想像してみる必要が切迫してあるのだと言いたいです。


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2019年02月11日

農業歴30年を過ぎて

私の農業歴は今年で何年になるのだろうとふと思うと、始まりは平成元年とほぼ同時だから分かりやすくて、農業に従事して専業農家として30年が過ぎたことになります。専業だから一個人一経営者ということもあって、30年間生産資材、機材の価格とか市場価格の変動をつぶさに見てきましたが、生産資材、機材の価格の上昇にはただ呆れるばかりです。20年以上続いたデフレスパイラルのなかでも、農業の生産資材は原油が値上がりするたびに値上げを繰り返し、30年前となら2〜3倍価格が上昇しているはずです。
デフレスパイラルの中で他の殆どの物価は据え置かれたままなのに、農業の生産資材(漁業、林業も多分同じだと思う)は何故毎年のよう値上げを繰り返すことができるのかと考えると、値上げに歯止めを掛けるものが何もないという実情です。個人である農家がいくら文句を言ったところで、気に食わなければ買わなければいいとメーカーに言われればそれまでです。農協がもし本当に農家のためにあるのなら唯一歯止めになれるのだけど、販売価格が高いほどに農協に落ちる金額が増えるのだから自ずとメーカーサイドになり、農家のために農協があるのではなく農協のために農家があるのが実情です。
少し前、小泉進次郎氏が自民党の農政部長をしている時、日本の農業の生産資材は韓国に比べて2〜3倍高いと発言して、私はこの人は本物かもと見直したのですが、物価がほぼ同じの韓国の2〜3倍高い生産資材というのはどうみたって異常です。例えば30年前20s1袋1000円以下だった肥料が今3000円前後です。これを10アールあたり7〜8袋使用するとその費用の回収が難しくなります。今全国の畑で土壌の栄養不良化が過激に進んでいるそうです。
生産コストの過激な上昇とは逆に、農産物の市場価格はこの30年まさにデフレスパイラルで下がり続けています。市場の仲買さんは生産コストは一顧だにせず売れるか売れないか商売の都合だけで価格を決めてきたからです。農家は安く買いたたいて殺しても次々現れるから大丈夫と平気で放言する仲買を何人も見てきたし、価格を決める市場の現場にはそんな雰囲気がいつもどこかにあったのを感じ続けていました。
生産コストの上昇と市場価格の低迷にじりじり追い詰められて、リーマンショックの前年の原油高ショックは衝撃でした。当時私は東京市場に出荷していてつぶさにそれをわが身で体験しましたが、高額なブランド農産物がばったり売れなくなりました。東京日本橋の百貨店本店筋でです。翌年リーマンショックが起きて不況風が吹き荒れると、あろうことか百貨店がやがてスーパーと青果物の安売り価格競争を始め、市場価格は更に急降下となり、何年もしないうちにブランド農産物の産地が全国のあちらこちらで崩壊し始めました。
品質の高いものを作ろうとすると手間もコストも増大しますが、市場で軒並みスーパー価格で扱われたのでは生産コスト割れとなって、経営が困難になるのは必至です。良い物を作ろうと一生懸命に努力するほどに貧しくなり成り立たなくなる、なんて馬鹿馬鹿しい時代に入ったんだと苦虫を噛むばかりです。
私の30年の農業歴は農業の崩壊最終局面と重なってあるようです。価格上昇を続ける生産資材、機材、下がり続ける市場価格でじわじわ追い詰められた挙句、原油高ショックとその翌年のリーマンショックによる不況風がとどめとなったようです。
今全国の青果市場が血眼になるほどに生産者は激減しているはずです。生産コストが販売価格より高くなれば経営が不可能になるのは自明で、結局農業農家は四方八方から食い潰されて終わるのだなというのが私の見方です。
生産者サイドで販売価格が決められない農業、漁業、林業の第一次産業は、多分同じ状況下にあるはずです。一昨年今国民民主党の党首である玉木雄一郎氏と話す機会があって、その時「突き詰めると非常に単純な結論に至りますよ。農業も製造業の一つと横並びに考えると、販売価格が生産コストをもとに生産者サイドで決められるよう構造改革がなされない限り、産業としての自立はあり得ないし、どこまで行っても食い物にされるだけですよ。」と私は言ったのですが、氏からコメントは返ってきませんでした。
市場が色めき立って生産者確保に走り回っても、生産コスト以上で販売価格を確約しない限り、農家を繋ぎとめることは無理です。先日東京市場の担当者が来た時、「最低でも今の市場価格の倍」と言ったのですが、スーパーとかの店頭価格が今の倍以上になった時、果たして売れるのかとなると多分売れないだろうとまで付け加えました。地元の小売業者さんから「安くても売れない時代に入った」との声が時々耳に入ります。「地方は安くても売れない時代に入り始めている」と言うと、「東京は下げればまだ売れますよ」と返ってきましたが、地方から始まっていずれ波及するのは時間の問題です。
本当に最大の問題は、日本の国内消費力がどこまで落ちるかです。私等団塊の世代からは年金だけでは生活が厳しく、大半が生活苦予備軍となります。また全国の就業者の40%余りが非正規雇用ということは、そこも生活苦予備軍ともいえ、合わせると国民総数の半分近くになりそうです。ここがベースになると内需で成長してきた日本経済が凋んでいくのは疑いのないことに想えます。
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2019年02月06日

8年ぶりに

昨年7月に愛知県の販売業者さんが8年ぶりに電話してきて、シンガポールから特上のブドウが欲しいと言ってきているのだけど、出せますかと問う。この業者さん、思えば8年前、名古屋在留の中国政府高官に私のピオーネを試食させたことがあって、その時こんな美味しいブドウ初めてですと感激するくらい気に入れられたそうで、輸送ルート販売ルートは確保するので来年から出してもらえませんか、というところまで話が進んだそうです。中国は日本の果物はリンゴと梨の2品目だけが輸入が認められていますが、表向きはそうであっても香港とか台湾とかの迂回ルートから、それ以外の品目でも多少は北京まで届いているらしい情報はありましたが、あからさまに中国政府高官に輸入規制を無視するようなことを言われると、国策って何なのだと馬鹿馬鹿しくなってきます。加えて、北京の中国政府の高官達は中国の農産物は安全性に問題があるから食べたがらない、とその高官が言ったそうですが、「よく言うよ、あんたら政治が悪いから、虐げられた農家農業に歪みが集中しているんだろ!」と怒りがこみあげてきます。
実はこの年の秋、中国政府が日本の果物の輸入規制を大幅に緩和して、2品目以外の輸入を認めようとの発言がありました。ブドウはその一番手とされていました。また中国最大手の一つである米業者が来日して、来年度日本の米を20万トン入れることを明言し、それを皮切りに米輸入拡大を本格化させるとの見通しを語っていました。中国が米とか果物日本の農産物を大きく門戸を開いて受け入れようとしている、その報道は末期的状況に喘いでいる私達農業者には救いの光のようでもありました。
例えば米で考えると、中国の必要量は1億5千万トン、日本の生産量は8百万トンで、中国の富裕層をほぼ1億人くらいとしてみて、安全で美味しい日本の米を食べる流れが加速すると、8百万トン程度あっと言う間だろうし、中国が日本の米に乗せてる関税を考えると、それが撤廃されるか近いところまで下げられると、日本国内の倍以上の価格も可能なのではとおもえてきます。蓋を開けてみるまで分からないということはありますが、中国の方針転換で日本の農業に希望の光が差した瞬間でした。
ところが翌年3月の東日本大震災、ことに福島の原発事故です。海外の空港に降り立った日本人があちこちの国々で放射能検査をされる映像を見ると、中国政府がコメントを出す必要がないくらい、日本の農産物が海外に出ることがなくなったのはあまりにも明白でした。私のブドウが中国に出ることが無くなったのも相手に聞く必要はありませんでした。農業に光が差したと喜んだ途端このどんでん返しは、以前にも増して闇を深めるばかりでした。その後今日に至るまでそんなことを言う人を見かけたことはありませんが、日本の農業が息を吹き返す絶好の機会が福島原発事故で潰えてしまったと、私はいまだにその無念さをどこか引きずっています。
昨年愛知の業者さんにシンガポールへブドウをと問い合わせられた時、8年の空白期間の後止まっていた時間が再び動き出す、再現フィルムでも見ているような感覚に見舞われました。
シンガポールは私が一番出したいところだから、言われるままにブドウのサンプルを二度送りました。相手はシンガポールでトップクラスの食品関係業者さんだそうで、日本のトップクラスのブドウを要望されたとのことですが、サンプルとして送ったピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの3品種ともに好評価だったようです。
ついては原産地証明書が必要だから取ってくれないかと業者さんが私に言う。生産者が取る証明なのか少し疑問だったのですが、商工会議所に行くと、原産地証明書は国内の輸出最終業者さんが取る書類ですよと言われ、業者さんに返しましたが、その後連絡がぷっつり途絶えました。おそらく原産地証明書を取る手続きとかが面倒で、そこまで本気でない業者さんが退いてしまったのだろうと、私の方も出荷に忙しい真っ最中であえて連絡はしませんでした。
海外は個人で直接だと言葉の壁を始めとして問題が多々あって、加えて私も全盛期の半分程度までに規模縮小していて、海外への意欲は最近は殆ど薄れてしまっているようです。
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2019年01月26日

本気になるほどに

ブドウを作るのをやめた15aのハウスに小原紅ミカンを植えて、半分は6〜7年生で3年前から収穫を始めていますが、今年度やっと商品化できるレベルになってきました。昨年は収穫後に追熟させるのが上手くできなくて、糖度は12度前後はあるものの酸抜けがまったくせず、食味は酸味ばかりで商品レベルではないので全部廃棄処分にしました。今年度は追熟のさせかたをあちこち調べて昨年とは全く違ったやりかたで、着色と酸抜けにほぼ成功して、商品化してもいけそうな程度の仕上がりにはなりました。糖度的には11〜14度で殆ど12度以上だから、JAだと最上ランクの讃岐紅ミカンとなります。
これから一年一年木が育って葉が茂って果実のグレードも上がってゆくはずで、3〜4年先成木域に達し始める頃には、糖度13度以上の最高レベルのものを作れそうだと思うと、早生系は上手くいかないかもとの予想を覆せそうで嬉しくなってきます。試食モニターをと、収穫した400sは年末年始に親戚友人とかに配ってしまいましたが、食味感想は概ね良好だったようです。
先週東京の市場関係者がやってきました。今年から市場出荷を再開すると昨年伝えていたこともあって、こちらへ来る機会に会っておきたいとのこと。以前私のブドウを担当してくれたO氏と久々に会いましたが、10数年振りだと聞かされて、改めて驚きました。新しく私の担当になるS氏も一緒で、新年早々2人に小原紅ミカンを試食用に送っていたのですが、答えは出荷OKのレベルに達しているとのことで、日本のトップ市場が認めるなら、商品化にお墨付きをもらったようなものです。
ブドウとミカンの園地を一回りして、倉庫に貯蔵している「金峰ミカン」を見てもらったのですが、無造作に取った2個のミカンの糖度を測るといずれも15度以上で、こんな高糖度のミカンは初めてだとあっさり認めました。市場出荷をやめてからもO氏との付き合いは続いて、年に何度かは電話で話すことがあって、数年前から「金峰ミカン」の糖度15度は珍しくなくなってきていることを話してはいたのですが、実際に現場で現物を試食して嘘でなかったことを確認できたようです。「可能なら今年少しでも出荷してもらえませんか。」とミカンの出荷要請は全く予想していなかったので、「少しでもいいなら試しに出してみますか。」と控えめに返答しました。
東京市場にないほど高糖度のミカンに化け始めたことを改めて思うと、強剪定で木の形を縦より横に広げるように作り変えたこととか、全くの自己流でやってきたことが間違いではなかったのを確信できます。ブドウをやめたハウスに小原紅ミカンを植え始めた6〜7年前から、ミカンに取り組む本気度が徐々に増して、普通温州を植え付けようと決めた一昨年から急加速です。本気で取り組むほどに想う以上の結果が出始めると、ものづくりとしての充足感はそれだけでも何物にも替えがたく、更なる次元へとエネルギーが湧いてきます。
posted by 明石 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月20日

「書く」

半年ほどブログとか「書く」ことから離れていましたが、カラオケにもいい加減飽きがきていて次は何をと思うと、最後くらいは「書く」ことに本気で向き合ったらどうなんだとの声が、自分の中で次第に強くなってきています。
20代半ばで「書く」ことを封印して、生身で燃焼して生きて30年後まだ「書く」ことに向かおうとする何かがあるなら、そこで向き合えばいいと思い決めたことを、55歳ではなく60歳になってからだったけれど、まさか本当に実践した自分に自分でも驚いています。
ブドウの直販のためにホームページを立ち上げて、そのアシストに生育日誌をブログに綴ったというたまたまもあったのですが、それ以上に「書く」ということは私の中で燻り続けていたようです。ブドウの生育状況をブログで公開して集客に繋げるという販売戦略でしたが、ブログがそこにとどまらないのは初めから予想していました。ブログ以前にホームページを立ち上げるため文章原稿をその前年に書いているとき、やっととか妙に懐かしい一体感を覚えたり、「書く」ことを再開する恰好のきっかけになりそうだとの予感は、ホームページを立ち上げる以上に強くありました。
ときたま目の前の風景から退いてしまう瞬間、「何時になったらお前はこの部屋に帰ってくるのだ。」と呟く声を何十年も聞き続けてきましたが、30年後の50代半ばになっても「書く」ことに向き合おうとはしませんでした。「書く」気にならないなら「書く」必要は全くないのだから放置し続けましたが、でも30年が過ぎたことはそれなりに意識があって、伏せられていた自分がそこからざわめきを増し始めたというのはありました。
還暦を迎えて、このまま「書く」ことに向き合うことなく終わってしまうのかと焦りすら生じていたのですが、ブドウ作りに没頭している日常に風穴を開けるような転機は、どこにも見出せそうにありませんでした。
ブドウの販売の最終局面は直販でと、何時頃からそう思っていたのかは忘れましたが、還暦頃からはと明確に目標化していて、実際還暦を迎えた途端手始めにホームページを立ち上げる準備に取り掛かりました。翌年春ホームページを立ち上げてブログもそこから始まりましたが、ブドウの生育日誌を綴りながらその先に私が本当に見据えていたのは、「書く」ことに向き合えるかどうかでした。
5年間一度も休むことなく毎週ブログの更新を続けて、多少なりとも「書く」準備はできたのではと思っていますが、やはりまだ休むと「書く」ことを先送りし続けるようです。
今70歳を迎える頃になって、さすがに先送りする時間的余裕がなくなって、最後くらいは本気で「書く」ことに向き合おうと思いが定まりつつあります。
「桜の咲く前に」からブログは2年少しブランクがあり、再開後は文章を小説風に意図的に変えました。小説であれ思想であれ、読む者を解放する感性がベースにあるものが偉大なのだとの私の持論は変わりませんが、ジャンルは分かりませんがそんなところを目指したいとの思いはあります。
芸術は資質的に自由でなければ適いませんが、天国と地獄は裏表で、どんな世界を描いたとしても、ベースに自由な感性があるかどうかです。悪を極めつくししその業火に焼かれた者でなければ神にはなれない近づけない、これも私の持論です。
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2019年01月12日

最後の同窓会

還暦を始めとして5年毎3度目の同窓会が1月5日に行われました。
出席者は47名と前回より10名ほど少なく、卒業時総数が242名だから出席率はほぼ2割です。既に亡くなっている者が、26名というところまでは分かっていますが、全体の1割強ということになり、この割合は全国どこでもそう大差ないのかなと思ったりします。
私等は今年度中に全員70歳を迎えますが、皆5年前に比べてやや老けた感があるとはいえそう大差もなく、本当に老いが加速してくるのはこれからなのだろうと、差し迫った予兆に色濃く覆われています。
元気でいたいのなら自分から老け込まないのが肝心だと、1昨年以来私はそのことを実感し続けています。農業経営の抜け道の無いような厳しさということもあったのですが、60代に入ってから私は経営規模の縮小を重ねたり、意図した訳でもないのに終活のサイクルに入っていて、年々面白くなさが募る一方になり、60代半ばごろには、早くお迎えが来ることを願うようにさへなっていました。
1昨年秋温州ミカンの苗木を50本予約注文した時、採算が取れるまで10年も要するものを植え付けるなど終活目線からは論外で、終活に入っていた自分をその時明確に破棄してしまいました。冬場に苗床を準備して春3月に苗木を植え付けると、小さく縮こまり続けた自分から解放されて、久々に活気を取り戻してやる気と元気が出てきました。
今春ミカン苗木100本と思っていたのですが、苗木屋さんの都合で50本になりましたが、苗床の準備はもう終わっていて、3月にそこへ植え付けて育てるのだと思うと、更にやる気と元気がでてきます。
元気でいようと思うなら、年だからと自分から老いを迎えに行くことをやめて、自分が活き活きできることにエネルギーを注ぎ込むのが一番です。
同窓会でまわりの参加者を見回しながら、仕事できる体力能力とも私は多分ダントツであるのだろうと思えます。私は65歳を境に年々若返ってきて今60歳に帰りつつあるので、同級生と年齢差は10歳にまで広がったと少し前京都の友人に言ったのですが、最近の元気さからすると爆笑されるほどの冗談でもなさそうです。
二次会でカラオケに行ったのですが、そこでSuperflyや宇多田ヒカルを歌うと皆唖然としていたようです。やはり少々破天荒なほうが私には似つかわしいようです。そのうちとんでもなく若い彼女ができるかもと言い出しそうになったのですが、自分で吹き出しそうになるので止めました。
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2018年07月07日

あの日 あの時

夕方野菜畑へ草刈りに行こうとすると、「あのアパートからおじちゃーんてアカリちゃんが駆け出してくることはもうないよね。」と奥さんがぽつりと言う。どこかタブーに触れた感を覚えながら、何を今更「そんなことはない。人生どんな事が起きるか分からないから、アカリちゃんがあのアパートに戻ってくることは絶対ないとは言い切れない。」とへそ曲がりの本領を発揮して返してしまいました。
アカリちゃん達一家が居なくなってから、努めて考えないようにしていたのを、奥さんに蓋を開けられたようで、もぬけの殻のアパートから隙間風が忍びこんできます。隙間風に晒されたくないから無視していただけで、本当は何時だって風は何処かで吹いていました。
アカリちゃん達一家が居なくなってからその後それっきりなのかと言えば、これが全く逆で10か月くらいで4〜5回は会っているし、親密度は一家がこちらに居たときよりはるかに増してます。以前ブログに記したことがありますが、人との関りで私が本当に大切にしたいのは、気持ちが通う心が通うような人との出会いです。本音で触れ合うところがあるのなら、その得難さは何物にも換え難いと思っています。ヒサヨちゃん親子と私等には何かそのようなものがあると感じています。でなければとっくに終わっていた関係のはずです。
でもいくら親密になっても、ヒサヨちゃん親子を毎日見ることができたあの頃の日常とは違います。あのアパートにヒサヨちゃん親子が居た頃の日々は既に過去になって、永遠に二度と帰ることはありません。同じ状態で同じ時同じ場所にとどまるものは何ひとつない、仏教的には無常ということになるのだろうけれど、愛しいあの日あの時にもう一度帰りたいと欲すると、さながら業風に晒されるように無常観にキリモミ状態にされます。60代後半になっても常に前を向き続けているのは、それを嫌というほど味わっているからです。
私が野菜畑に行くとアカリちゃんが「おじちゃ〜ん」とアパートから駆け出してくる、あの情景は、私の心に深く刻み込まれています。心に深く刻み込まれた情景を、刻み込まれた情景シリーズでブログに記していますが、その殆どは10代の頃のことですが、今この60代後半になって、その頃と変わらないほどに深く刻み込まれた情景に出会えたことに感謝するとともに、まだ動脈硬化を起こしていない自分の感受性を宝物のように嬉しく思います。
posted by 明石 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年07月03日

天山のお問い合わせに

瀬戸口さんからの天山に関するお問い合わせですが、6年前の記事のコメント欄となりますので、最新のブログ更新という形で返信いたします。
表面にサビ化ということだけでは本当のところが分かりかねますが、今の時期ならうどんこ病と縮果病があります。多分うどんこ病ではないかと思いますが、トリフミンを通常の2000倍よりやや濃いめに(私なら1500倍)で散布するのがベストかとおもいますが、うどんこ病は本格的に発症すれば果実は石化したり著しく見た目は損なわれます。皮ごと食べれる皮の薄い品種は、この他ベト病、灰カビ病とかに高温多湿だと侵されやすくなります。農薬は残効日数をしっかり確保するよう散布すれば、安全基準値を上回るようなことはまずありません。私も筑波で検査してもらったことがありますが、残留農薬はほとんど検出されませんでした。
ですから、天山の防除暦を調べて、どんな病気や害虫に備えなければならないかを知っておいてください。
あとひとつ裂果についてですが、天山が一番裂ける時期は、糖度15度を越え始めたころからです。若木の頃わりと裂けずに仕上がったりすることもありますが、たまたまと考えるほうがよさそうです。雨を完全にシャットアウトして水をコントロールすることと、30度以上の高温にならないような設備の中でないと、天山は難しいのだろうと思っています。
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2018年04月13日

続 よりフリーに

釣りに行かなくなってもう4年が過ぎました。往復500q以上の宇和島方面への日帰り釣行は疲れが残り過ぎて、体を休めてエネルギーを蓄えなければならないオフシーズンにこんなに疲れていたらとの思いが次第に募って、4年前から釣行はぷっつり途絶えました。釣りそのものに10年以上前から飽きが来ていて、オフシーズンの10月後半頃からブドウから頭を切り離すために釣行するのですが、釣りに気が入らなくて寝てばかりというのが毎年最初1〜2回の釣行恒例となっていました。2〜3回釣れない(釣らない)釣りを続けると、やっとむくむく釣り師魂が目覚めてきます。釣れなかった、釣らなかったから釣ってやろうと思うだけで、どれほど釣果を出しても嬉しさとか感動はあまりないし、向上心に燃えて釣りに夢中だった時期がとっくに過ぎているのはどうにもなりません。
釣りは30歳頃に始めて35年間続いたのですが、私は本気になると30年近くやり続けるというところがあって、間違うとちょっと怖いなと自分でも思っています。
今気づいたのですが、ブドウづくりも今年で30年目のはずで、私の一段落のサイクルはそこにあるのか、それでミカンとか他のことをやろうとしているのか、サイクルという新たな角度で見ると、そうでもあるようだと思ってしまいます。
草野球も50歳の手前まで、走れなくなって止めたのですが、30年近く続いたことを考えると、30年というのは私の本気度成就の一サイクルの時間で共通しているようです。
カラオケは今年4年目ですが、釣りがカラオケに変わったということは無論自覚しています。釣りは疲労が残り過ぎたり、却ってストレスをためこんだりということもあって、気分転換ということならカラオケの方が容易です。あらん限りの声を振り絞って歌っていると、自分の中身も空っぽになっていくような大掃除状態で、これって凄い健康法なのかと思ってしまいます。
最近一人カラオケが多くなってきています。相方が友人の仕事を手伝うようになって、週一回一緒にというのも難しくなってきているのですが、一人だと2〜3時間で十分だから週一程度ならまだしばらくは行けそうです。
カラオケは何時まで続くのか、そう長くは続かないだろうと思っていますが、問題は他者に歌を聴いてもらいたいと思うかどうかというところなのは分かっています。それはこのブログとかの文章表現で他者に向かう気持ちがどうなのかということと共通しています。他者に向かう気持ちが無ければ文章は刻まないし、もう少し強い気持ちがあれば本気で書くことに向き合うだろうと思ったりもしますが、デリケート微妙で点いたり消えたりというところです。
昨年カラオケはもういい止めようという時期がありましたが、歌も表現である以上他者に向かわざるを得ないところがあって、ここを無視して自分一人の世界に閉じ籠り続けるのは難しいようです。つい5〜6年前までカラオケに行く自分などあり得ないと疑う余地もなかったはずですが、それを自分の意志で覆したのだから、更に在り得ない自分を展開させてみようかと思うこともありますが、冗談ではないと憮然とする自分も強固です。
70歳が近くなっても、あるいはだからこそなのか、知らない自分と出会うのはことのほか嬉しいです。よりフリーに在ろうとすることは、生命の輝きその炎を自分の中に見出したい故にです。
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2018年03月28日

苗木を植え付けて

注文していたミカンの苗木が届いたので、翌日早速植え付けました。
3月に入ってすぐ苗床をもう一度耕すなど準備を万全にしていたため、5時間ほどで50本植え終わり、予想よりはるかに早くて、100本植えるのも2日あれば楽にできそうです。
来年100本植えて、再来年も100本と思うと、なんだか元気が出てきます。10a60本で計算すると300本だと50aになり、既にハウス跡15aは小原紅ミカンが2年前に植え付け終わっていて、現在収穫している青島系金峰ミカンとも合わせると、70a(7000u)は越えるような規模のミカン園となりそうです。
もともとミカンを作るために開墾された畑を、最後にもう一度ミカン畑に戻すのは、日の目を全く見ることなく終わった物をそれに携わった先人たちの思いも含めて、このままでは終わらせないという意地か反骨魂をどこかにちらっと感じたりもします。標高による気温差が当初は大きなハンディとなってミカン畑は壊滅したのですが、10年ほど前からことに夏場の高温でブランドの産地が品質を低下させる一方、平地に比べて3〜4度気温が低いということが大きな利点となっていて、ここでなら質の高いものが作れると気象環境は今や逆転しています。
私等の畑は五色台の南東中腹斜面の一角にあって、標高200〜300mというところですが、斜面である以上労働条件はその分厳しくもありますが、美味しいものができる条件はほぼ完備しています。立地条件は人の努力や技術で越え難いもので、たとえば私が西向きとか北向とかで作っていたなら、どれほど努力しても今のブドウのレベルには到達しなかったのではと思ったりします。立地条件とは言葉を換えれば自然環境で、農業は自然の中での生産活動であるが故に、自然のなせる業に人がどれほど無力であるのか、時として嫌というほど教えられます。だからせめて適地適正を誤らない選択をしなければということに尽きるのだろうということです。
私は昨年末からミカン園の復活に本気になり始めてから、終活に入っていたような自分をどこかへ蹴飛ばしてしまいました。ことさらそう思って終活に入ったのではありませんが、60歳になった時、もう何時終わってもいいと思ったことが引き金になってしまったようです。ホームページを立ち上げて、ブログを書き始めたのも60歳からで、だからブログも次第に終活的な動機を反映したものになっていったということはあるようです。60代中頃には何事につけ意欲も薄れて、早くお迎えが来ることをどこかで願ってもいました。
けれど、仕事をしていて分かるのは、体力も能力もまだ殆ど衰えが来ていないということです。今68歳ですが、日本の専業農家の主力の平均年齢と同じです。体にどこか悪いところがある訳でもなく、まだばりばりの現役生産者であるのが当然なはずです。結局、終活に収まらない体力や元気さが内側から爆発して、終活を破り捨てたということになるようです。もう一度生き直しのようでもあり、今度は最後までイケイケです。
完成や完結はそもそも無いのが本当で、自分という命が燃えれることが一番大切で、燃え尽きて終わればそれでいいのです。
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2018年03月15日

黙する季節

6年前に親父殿が亡くなってから、毎年のように1月から3月の間に近しい者親しい者が亡くなり続けて、気が付いてみるとこの時期になると私の語り口は閉ざされがちになっています。喪に服すとか別にそんなことを思っているのではありませんが、命日頃には故人をなんとなく思い浮かべて、亡くなったからと言っても何も変わらず私の中では存在し続けているよ、と面影に語りかけていたりします。
親父殿や北村氏の死はブログに記していますが、北村氏の一年後の一昨年3月には姉が亡くなり、昨年1月には叔父が亡くなっています。不思議なのは死別ということにあまり感情が湧かず、私の中では変わらずに存在し続けていて、違いは生身の本人に対面することがなくなったということです。他者との関係が記憶の積み重ねの中ににあるのなら、死もそれほど決定的な意味を持たず、新たな記憶を生み出す未来が閉ざされただけのことになるのではと思えたりします。
私もそうでしたが、人の寿命から考えて平均的であると、60歳前後から親世代との別れが始まり、兄弟とか友人とかにまで及び始めてくると、死が自分にも身近に迫って来つつあるのを漸く悟ります。命は必ず終わりが来ると頭では理解していても、まさか本当に自分にそんなことが起こるとは思っていないのが常ですが、60を越えて毎年葬式ばかりに出席していたら感じ方が変わってきます。それがことに自分の近しい者親しい者であれば猶更です。
近しい者親しい者が亡くなり続けたここ5〜6年、彼らは私の中では変わらずに存在し続けています。死者は物理的には存在しなくても、関係が深いほどに人の心の中には存在し続けます。私は年齢的にはまだ始まったばかりかも知れませんが、高齢になるほどに他者との関係は死者の割合が増えてきて、例えば百歳の人の心の中に存在する人々は圧倒的に死者の割合が高いのではないかと思ったりします。
何時だったか、同級生とのお茶会の日、皆が来るのが遅れて、私は一人でぼんやり戸外の樹々を眺めていると、朝陽が眩しくて白日夢的に、皆がこの世にいなくなって自分が最後の一人になったと仮想してみると、ああ長生きはしたくないとの思いがこみ上げてきて、白日夢は終わりにさせました。
命はどこまでも生き続けようと欲するものかもしれませんが、あまりの長生きは心理的にきつそうです。私の親父殿は死の2月前まで畑仕事をしていました。いわば死ぬまで現役の生産者であり続けたという、羨ましい限りの理想的な終わり方で、私も同じような終わり方ができるようただ願うばかりです。
posted by 明石 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言