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2019年02月19日

続 30年を過ぎて

先日ミカンの出荷で地元の市場へ行くと、果実部の幹部連中に取り囲まれて、「明石さんお久し振り、元気でしたか。」から始まってわいわいがやがや。4年ほど前からミカンを出荷しているのだけれど、夕方ごろ行くから会わなかっただけで、部長、課長とは10年くらいは会っていないから久し振りなのは間違いないです。
「どうしてます?」と聞かれ、「うん、ブドウを半分くらいに規模縮小して、ブドウを止めたハウスにミカンを植えている。小原紅は15aのところに100本ほど植えて、半分は6〜7年生でやっと出荷できるレベルになってきた。普通温州も昨年50本植えて、今年も50本、来年は100本植えようと、、、」と明石先生の演説が始まると、皆ニヤニヤしながら結構楽しそうなのでつい調子に乗ってしまいました。帰り際部長が「明石さんが時々来て吠えてくれたら僕らも元気がでますよ。」と言われると、お笑いタレントなのかとがっくり。
夢や野望が潰えてもそれで全てが終わるわけでもなく、生きて在ることの副産物程度のことなのだろう。専業農家なのだからそれで食っていかないと死活問題になるのだけれど、だからといって、食っていくためだけに農業をしているのではない自分があります。
専業の果樹農家として30年を越えてくると、苗木を植え付けて育てることはそれもまた一つ一つの命と向き合うことで、私の生活は樹々と不可分変更不能となっているようです。雨が降ろうと雪だろうと台風だろうとどんな悪天候でも、一日一度は必ず園地を巡回します。寝床に入ると明日の作業を考え、目覚めると今日の仕事の段取りを反芻してから起き、私の日々は果樹を作るためにオートシステム化されてしまっているようです。雨とか悪天候で二日も仕事ができないと気が滅入ったりしますが、そんな時文章を刻むことに向き合えばと言われそうですが、余暇ですることは本分がしっかり確保されているからこそできることなのです。
30年を過ごしてみて、これほどまでに農業に適性があるとは自分でも予想外でしたが、土に根ざす農業は土に根ざすような生き方と重なり合ってあるようです。成功者となり得ませんでしたが、破局へ向かう一方と言えるほど困難な時代に農業に従事したことは、自分ではらしくて良いとどこか納得できるところがあります。終活を破棄していわば墓場から蘇生してきて、近頃、このまま終わってたまるかと、持ち前の反骨精神がむくむく頭をもたげてきています。時代と衝突して生きて、自己主張を貫くには、或いは農業が最適であったのかもと思ったりもしますが、死ぬまでまだ終わっていないのは確かです。
農業、漁業、林業はさながら絶滅危惧産業と化していますが、第一次産業が終われば国が形を失って崩壊するのは間違いないと思っています。経済は世界が連動しているだけに、どこかの国の事件が深刻な世界同時不況になったり、先が見通せないし不安定です。本当に強い国、少しでも確かな国とは、農業、漁業、林業の第一次産業の基盤整備ができていて、そこをベースに確保できている国だろうと思います。経済がこけた時に何もない国、そんな日本を想像してみる必要が切迫してあるのだと言いたいです。


posted by 明石 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月11日

農業歴30年を過ぎて

私の農業歴は今年で何年になるのだろうとふと思うと、始まりは平成元年とほぼ同時だから分かりやすくて、農業に従事して専業農家として30年が過ぎたことになります。専業だから一個人一経営者ということもあって、30年間生産資材、機材の価格とか市場価格の変動をつぶさに見てきましたが、生産資材、機材の価格の上昇にはただ呆れるばかりです。20年以上続いたデフレスパイラルのなかでも、農業の生産資材は原油が値上がりするたびに値上げを繰り返し、30年前となら2〜3倍価格が上昇しているはずです。
デフレスパイラルの中で他の殆どの物価は据え置かれたままなのに、農業の生産資材(漁業、林業も多分同じだと思う)は何故毎年のよう値上げを繰り返すことができるのかと考えると、値上げに歯止めを掛けるものが何もないという実情です。個人である農家がいくら文句を言ったところで、気に食わなければ買わなければいいとメーカーに言われればそれまでです。農協がもし本当に農家のためにあるのなら唯一歯止めになれるのだけど、販売価格が高いほどに農協に落ちる金額が増えるのだから自ずとメーカーサイドになり、農家のために農協があるのではなく農協のために農家があるのが実情です。
少し前、小泉進次郎氏が自民党の農政部長をしている時、日本の農業の生産資材は韓国に比べて2〜3倍高いと発言して、私はこの人は本物かもと見直したのですが、物価がほぼ同じの韓国の2〜3倍高い生産資材というのはどうみたって異常です。例えば30年前20s1袋1000円以下だった肥料が今3000円前後です。これを10アールあたり7〜8袋使用するとその費用の回収が難しくなります。今全国の畑で土壌の栄養不良化が過激に進んでいるそうです。
生産コストの過激な上昇とは逆に、農産物の市場価格はこの30年まさにデフレスパイラルで下がり続けています。市場の仲買さんは生産コストは一顧だにせず売れるか売れないか商売の都合だけで価格を決めてきたからです。農家は安く買いたたいて殺しても次々現れるから大丈夫と平気で放言する仲買を何人も見てきたし、価格を決める市場の現場にはそんな雰囲気がいつもどこかにあったのを感じ続けていました。
生産コストの上昇と市場価格の低迷にじりじり追い詰められて、リーマンショックの前年の原油高ショックは衝撃でした。当時私は東京市場に出荷していてつぶさにそれをわが身で体験しましたが、高額なブランド農産物がばったり売れなくなりました。東京日本橋の百貨店本店筋でです。翌年リーマンショックが起きて不況風が吹き荒れると、あろうことか百貨店がやがてスーパーと青果物の安売り価格競争を始め、市場価格は更に急降下となり、何年もしないうちにブランド農産物の産地が全国のあちらこちらで崩壊し始めました。
品質の高いものを作ろうとすると手間もコストも増大しますが、市場で軒並みスーパー価格で扱われたのでは生産コスト割れとなって、経営が困難になるのは必至です。良い物を作ろうと一生懸命に努力するほどに貧しくなり成り立たなくなる、なんて馬鹿馬鹿しい時代に入ったんだと苦虫を噛むばかりです。
私の30年の農業歴は農業の崩壊最終局面と重なってあるようです。価格上昇を続ける生産資材、機材、下がり続ける市場価格でじわじわ追い詰められた挙句、原油高ショックとその翌年のリーマンショックによる不況風がとどめとなったようです。
今全国の青果市場が血眼になるほどに生産者は激減しているはずです。生産コストが販売価格より高くなれば経営が不可能になるのは自明で、結局農業農家は四方八方から食い潰されて終わるのだなというのが私の見方です。
生産者サイドで販売価格が決められない農業、漁業、林業の第一次産業は、多分同じ状況下にあるはずです。一昨年今国民民主党の党首である玉木雄一郎氏と話す機会があって、その時「突き詰めると非常に単純な結論に至りますよ。農業も製造業の一つと横並びに考えると、販売価格が生産コストをもとに生産者サイドで決められるよう構造改革がなされない限り、産業としての自立はあり得ないし、どこまで行っても食い物にされるだけですよ。」と私は言ったのですが、氏からコメントは返ってきませんでした。
市場が色めき立って生産者確保に走り回っても、生産コスト以上で販売価格を確約しない限り、農家を繋ぎとめることは無理です。先日東京市場の担当者が来た時、「最低でも今の市場価格の倍」と言ったのですが、スーパーとかの店頭価格が今の倍以上になった時、果たして売れるのかとなると多分売れないだろうとまで付け加えました。地元の小売業者さんから「安くても売れない時代に入った」との声が時々耳に入ります。「地方は安くても売れない時代に入り始めている」と言うと、「東京は下げればまだ売れますよ」と返ってきましたが、地方から始まっていずれ波及するのは時間の問題です。
本当に最大の問題は、日本の国内消費力がどこまで落ちるかです。私等団塊の世代からは年金だけでは生活が厳しく、大半が生活苦予備軍となります。また全国の就業者の40%余りが非正規雇用ということは、そこも生活苦予備軍ともいえ、合わせると国民総数の半分近くになりそうです。ここがベースになると内需で成長してきた日本経済が凋んでいくのは疑いのないことに想えます。
posted by 明石 at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月06日

8年ぶりに

昨年7月に愛知県の販売業者さんが8年ぶりに電話してきて、シンガポールから特上のブドウが欲しいと言ってきているのだけど、出せますかと問う。この業者さん、思えば8年前、名古屋在留の中国政府高官に私のピオーネを試食させたことがあって、その時こんな美味しいブドウ初めてですと感激するくらい気に入れられたそうで、輸送ルート販売ルートは確保するので来年から出してもらえませんか、というところまで話が進んだそうです。中国は日本の果物はリンゴと梨の2品目だけが輸入が認められていますが、表向きはそうであっても香港とか台湾とかの迂回ルートから、それ以外の品目でも多少は北京まで届いているらしい情報はありましたが、あからさまに中国政府高官に輸入規制を無視するようなことを言われると、国策って何なのだと馬鹿馬鹿しくなってきます。加えて、北京の中国政府の高官達は中国の農産物は安全性に問題があるから食べたがらない、とその高官が言ったそうですが、「よく言うよ、あんたら政治が悪いから、虐げられた農家農業に歪みが集中しているんだろ!」と怒りがこみあげてきます。
実はこの年の秋、中国政府が日本の果物の輸入規制を大幅に緩和して、2品目以外の輸入を認めようとの発言がありました。ブドウはその一番手とされていました。また中国最大手の一つである米業者が来日して、来年度日本の米を20万トン入れることを明言し、それを皮切りに米輸入拡大を本格化させるとの見通しを語っていました。中国が米とか果物日本の農産物を大きく門戸を開いて受け入れようとしている、その報道は末期的状況に喘いでいる私達農業者には救いの光のようでもありました。
例えば米で考えると、中国の必要量は1億5千万トン、日本の生産量は8百万トンで、中国の富裕層をほぼ1億人くらいとしてみて、安全で美味しい日本の米を食べる流れが加速すると、8百万トン程度あっと言う間だろうし、中国が日本の米に乗せてる関税を考えると、それが撤廃されるか近いところまで下げられると、日本国内の倍以上の価格も可能なのではとおもえてきます。蓋を開けてみるまで分からないということはありますが、中国の方針転換で日本の農業に希望の光が差した瞬間でした。
ところが翌年3月の東日本大震災、ことに福島の原発事故です。海外の空港に降り立った日本人があちこちの国々で放射能検査をされる映像を見ると、中国政府がコメントを出す必要がないくらい、日本の農産物が海外に出ることがなくなったのはあまりにも明白でした。私のブドウが中国に出ることが無くなったのも相手に聞く必要はありませんでした。農業に光が差したと喜んだ途端このどんでん返しは、以前にも増して闇を深めるばかりでした。その後今日に至るまでそんなことを言う人を見かけたことはありませんが、日本の農業が息を吹き返す絶好の機会が福島原発事故で潰えてしまったと、私はいまだにその無念さをどこか引きずっています。
昨年愛知の業者さんにシンガポールへブドウをと問い合わせられた時、8年の空白期間の後止まっていた時間が再び動き出す、再現フィルムでも見ているような感覚に見舞われました。
シンガポールは私が一番出したいところだから、言われるままにブドウのサンプルを二度送りました。相手はシンガポールでトップクラスの食品関係業者さんだそうで、日本のトップクラスのブドウを要望されたとのことですが、サンプルとして送ったピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの3品種ともに好評価だったようです。
ついては原産地証明書が必要だから取ってくれないかと業者さんが私に言う。生産者が取る証明なのか少し疑問だったのですが、商工会議所に行くと、原産地証明書は国内の輸出最終業者さんが取る書類ですよと言われ、業者さんに返しましたが、その後連絡がぷっつり途絶えました。おそらく原産地証明書を取る手続きとかが面倒で、そこまで本気でない業者さんが退いてしまったのだろうと、私の方も出荷に忙しい真っ最中であえて連絡はしませんでした。
海外は個人で直接だと言葉の壁を始めとして問題が多々あって、加えて私も全盛期の半分程度までに規模縮小していて、海外への意欲は最近は殆ど薄れてしまっているようです。
posted by 明石 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月26日

本気になるほどに

ブドウを作るのをやめた15aのハウスに小原紅ミカンを植えて、半分は6〜7年生で3年前から収穫を始めていますが、今年度やっと商品化できるレベルになってきました。昨年は収穫後に追熟させるのが上手くできなくて、糖度は12度前後はあるものの酸抜けがまったくせず、食味は酸味ばかりで商品レベルではないので全部廃棄処分にしました。今年度は追熟のさせかたをあちこち調べて昨年とは全く違ったやりかたで、着色と酸抜けにほぼ成功して、商品化してもいけそうな程度の仕上がりにはなりました。糖度的には11〜14度で殆ど12度以上だから、JAだと最上ランクの讃岐紅ミカンとなります。
これから一年一年木が育って葉が茂って果実のグレードも上がってゆくはずで、3〜4年先成木域に達し始める頃には、糖度13度以上の最高レベルのものを作れそうだと思うと、早生系は上手くいかないかもとの予想を覆せそうで嬉しくなってきます。試食モニターをと、収穫した400sは年末年始に親戚友人とかに配ってしまいましたが、食味感想は概ね良好だったようです。
先週東京の市場関係者がやってきました。今年から市場出荷を再開すると昨年伝えていたこともあって、こちらへ来る機会に会っておきたいとのこと。以前私のブドウを担当してくれたO氏と久々に会いましたが、10数年振りだと聞かされて、改めて驚きました。新しく私の担当になるS氏も一緒で、新年早々2人に小原紅ミカンを試食用に送っていたのですが、答えは出荷OKのレベルに達しているとのことで、日本のトップ市場が認めるなら、商品化にお墨付きをもらったようなものです。
ブドウとミカンの園地を一回りして、倉庫に貯蔵している「金峰ミカン」を見てもらったのですが、無造作に取った2個のミカンの糖度を測るといずれも15度以上で、こんな高糖度のミカンは初めてだとあっさり認めました。市場出荷をやめてからもO氏との付き合いは続いて、年に何度かは電話で話すことがあって、数年前から「金峰ミカン」の糖度15度は珍しくなくなってきていることを話してはいたのですが、実際に現場で現物を試食して嘘でなかったことを確認できたようです。「可能なら今年少しでも出荷してもらえませんか。」とミカンの出荷要請は全く予想していなかったので、「少しでもいいなら試しに出してみますか。」と控えめに返答しました。
東京市場にないほど高糖度のミカンに化け始めたことを改めて思うと、強剪定で木の形を縦より横に広げるように作り変えたこととか、全くの自己流でやってきたことが間違いではなかったのを確信できます。ブドウをやめたハウスに小原紅ミカンを植え始めた6〜7年前から、ミカンに取り組む本気度が徐々に増して、普通温州を植え付けようと決めた一昨年から急加速です。本気で取り組むほどに想う以上の結果が出始めると、ものづくりとしての充足感はそれだけでも何物にも替えがたく、更なる次元へとエネルギーが湧いてきます。
posted by 明石 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月20日

「書く」

半年ほどブログとか「書く」ことから離れていましたが、カラオケにもいい加減飽きがきていて次は何をと思うと、最後くらいは「書く」ことに本気で向き合ったらどうなんだとの声が、自分の中で次第に強くなってきています。
20代半ばで「書く」ことを封印して、生身で燃焼して生きて30年後まだ「書く」ことに向かおうとする何かがあるなら、そこで向き合えばいいと思い決めたことを、55歳ではなく60歳になってからだったけれど、まさか本当に実践した自分に自分でも驚いています。
ブドウの直販のためにホームページを立ち上げて、そのアシストに生育日誌をブログに綴ったというたまたまもあったのですが、それ以上に「書く」ということは私の中で燻り続けていたようです。ブドウの生育状況をブログで公開して集客に繋げるという販売戦略でしたが、ブログがそこにとどまらないのは初めから予想していました。ブログ以前にホームページを立ち上げるため文章原稿をその前年に書いているとき、やっととか妙に懐かしい一体感を覚えたり、「書く」ことを再開する恰好のきっかけになりそうだとの予感は、ホームページを立ち上げる以上に強くありました。
ときたま目の前の風景から退いてしまう瞬間、「何時になったらお前はこの部屋に帰ってくるのだ。」と呟く声を何十年も聞き続けてきましたが、30年後の50代半ばになっても「書く」ことに向き合おうとはしませんでした。「書く」気にならないなら「書く」必要は全くないのだから放置し続けましたが、でも30年が過ぎたことはそれなりに意識があって、伏せられていた自分がそこからざわめきを増し始めたというのはありました。
還暦を迎えて、このまま「書く」ことに向き合うことなく終わってしまうのかと焦りすら生じていたのですが、ブドウ作りに没頭している日常に風穴を開けるような転機は、どこにも見出せそうにありませんでした。
ブドウの販売の最終局面は直販でと、何時頃からそう思っていたのかは忘れましたが、還暦頃からはと明確に目標化していて、実際還暦を迎えた途端手始めにホームページを立ち上げる準備に取り掛かりました。翌年春ホームページを立ち上げてブログもそこから始まりましたが、ブドウの生育日誌を綴りながらその先に私が本当に見据えていたのは、「書く」ことに向き合えるかどうかでした。
5年間一度も休むことなく毎週ブログの更新を続けて、多少なりとも「書く」準備はできたのではと思っていますが、やはりまだ休むと「書く」ことを先送りし続けるようです。
今70歳を迎える頃になって、さすがに先送りする時間的余裕がなくなって、最後くらいは本気で「書く」ことに向き合おうと思いが定まりつつあります。
「桜の咲く前に」からブログは2年少しブランクがあり、再開後は文章を小説風に意図的に変えました。小説であれ思想であれ、読む者を解放する感性がベースにあるものが偉大なのだとの私の持論は変わりませんが、ジャンルは分かりませんがそんなところを目指したいとの思いはあります。
芸術は資質的に自由でなければ適いませんが、天国と地獄は裏表で、どんな世界を描いたとしても、ベースに自由な感性があるかどうかです。悪を極めつくししその業火に焼かれた者でなければ神にはなれない近づけない、これも私の持論です。
posted by 明石 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月12日

最後の同窓会

還暦を始めとして5年毎3度目の同窓会が1月5日に行われました。
出席者は47名と前回より10名ほど少なく、卒業時総数が242名だから出席率はほぼ2割です。既に亡くなっている者が、26名というところまでは分かっていますが、全体の1割強ということになり、この割合は全国どこでもそう大差ないのかなと思ったりします。
私等は今年度中に全員70歳を迎えますが、皆5年前に比べてやや老けた感があるとはいえそう大差もなく、本当に老いが加速してくるのはこれからなのだろうと、差し迫った予兆に色濃く覆われています。
元気でいたいのなら自分から老け込まないのが肝心だと、1昨年以来私はそのことを実感し続けています。農業経営の抜け道の無いような厳しさということもあったのですが、60代に入ってから私は経営規模の縮小を重ねたり、意図した訳でもないのに終活のサイクルに入っていて、年々面白くなさが募る一方になり、60代半ばごろには、早くお迎えが来ることを願うようにさへなっていました。
1昨年秋温州ミカンの苗木を50本予約注文した時、採算が取れるまで10年も要するものを植え付けるなど終活目線からは論外で、終活に入っていた自分をその時明確に破棄してしまいました。冬場に苗床を準備して春3月に苗木を植え付けると、小さく縮こまり続けた自分から解放されて、久々に活気を取り戻してやる気と元気が出てきました。
今春ミカン苗木100本と思っていたのですが、苗木屋さんの都合で50本になりましたが、苗床の準備はもう終わっていて、3月にそこへ植え付けて育てるのだと思うと、更にやる気と元気がでてきます。
元気でいようと思うなら、年だからと自分から老いを迎えに行くことをやめて、自分が活き活きできることにエネルギーを注ぎ込むのが一番です。
同窓会でまわりの参加者を見回しながら、仕事できる体力能力とも私は多分ダントツであるのだろうと思えます。私は65歳を境に年々若返ってきて今60歳に帰りつつあるので、同級生と年齢差は10歳にまで広がったと少し前京都の友人に言ったのですが、最近の元気さからすると爆笑されるほどの冗談でもなさそうです。
二次会でカラオケに行ったのですが、そこでSuperflyや宇多田ヒカルを歌うと皆唖然としていたようです。やはり少々破天荒なほうが私には似つかわしいようです。そのうちとんでもなく若い彼女ができるかもと言い出しそうになったのですが、自分で吹き出しそうになるので止めました。
posted by 明石 at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年07月07日

あの日 あの時

夕方野菜畑へ草刈りに行こうとすると、「あのアパートからおじちゃーんてアカリちゃんが駆け出してくることはもうないよね。」と奥さんがぽつりと言う。どこかタブーに触れた感を覚えながら、何を今更「そんなことはない。人生どんな事が起きるか分からないから、アカリちゃんがあのアパートに戻ってくることは絶対ないとは言い切れない。」とへそ曲がりの本領を発揮して返してしまいました。
アカリちゃん達一家が居なくなってから、努めて考えないようにしていたのを、奥さんに蓋を開けられたようで、もぬけの殻のアパートから隙間風が忍びこんできます。隙間風に晒されたくないから無視していただけで、本当は何時だって風は何処かで吹いていました。
アカリちゃん達一家が居なくなってからその後それっきりなのかと言えば、これが全く逆で10か月くらいで4〜5回は会っているし、親密度は一家がこちらに居たときよりはるかに増してます。以前ブログに記したことがありますが、人との関りで私が本当に大切にしたいのは、気持ちが通う心が通うような人との出会いです。本音で触れ合うところがあるのなら、その得難さは何物にも換え難いと思っています。ヒサヨちゃん親子と私等には何かそのようなものがあると感じています。でなければとっくに終わっていた関係のはずです。
でもいくら親密になっても、ヒサヨちゃん親子を毎日見ることができたあの頃の日常とは違います。あのアパートにヒサヨちゃん親子が居た頃の日々は既に過去になって、永遠に二度と帰ることはありません。同じ状態で同じ時同じ場所にとどまるものは何ひとつない、仏教的には無常ということになるのだろうけれど、愛しいあの日あの時にもう一度帰りたいと欲すると、さながら業風に晒されるように無常観にキリモミ状態にされます。60代後半になっても常に前を向き続けているのは、それを嫌というほど味わっているからです。
私が野菜畑に行くとアカリちゃんが「おじちゃ〜ん」とアパートから駆け出してくる、あの情景は、私の心に深く刻み込まれています。心に深く刻み込まれた情景を、刻み込まれた情景シリーズでブログに記していますが、その殆どは10代の頃のことですが、今この60代後半になって、その頃と変わらないほどに深く刻み込まれた情景に出会えたことに感謝するとともに、まだ動脈硬化を起こしていない自分の感受性を宝物のように嬉しく思います。
posted by 明石 at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年07月03日

天山のお問い合わせに

瀬戸口さんからの天山に関するお問い合わせですが、6年前の記事のコメント欄となりますので、最新のブログ更新という形で返信いたします。
表面にサビ化ということだけでは本当のところが分かりかねますが、今の時期ならうどんこ病と縮果病があります。多分うどんこ病ではないかと思いますが、トリフミンを通常の2000倍よりやや濃いめに(私なら1500倍)で散布するのがベストかとおもいますが、うどんこ病は本格的に発症すれば果実は石化したり著しく見た目は損なわれます。皮ごと食べれる皮の薄い品種は、この他ベト病、灰カビ病とかに高温多湿だと侵されやすくなります。農薬は残効日数をしっかり確保するよう散布すれば、安全基準値を上回るようなことはまずありません。私も筑波で検査してもらったことがありますが、残留農薬はほとんど検出されませんでした。
ですから、天山の防除暦を調べて、どんな病気や害虫に備えなければならないかを知っておいてください。
あとひとつ裂果についてですが、天山が一番裂ける時期は、糖度15度を越え始めたころからです。若木の頃わりと裂けずに仕上がったりすることもありますが、たまたまと考えるほうがよさそうです。雨を完全にシャットアウトして水をコントロールすることと、30度以上の高温にならないような設備の中でないと、天山は難しいのだろうと思っています。
posted by 明石 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年04月13日

続 よりフリーに

釣りに行かなくなってもう4年が過ぎました。往復500q以上の宇和島方面への日帰り釣行は疲れが残り過ぎて、体を休めてエネルギーを蓄えなければならないオフシーズンにこんなに疲れていたらとの思いが次第に募って、4年前から釣行はぷっつり途絶えました。釣りそのものに10年以上前から飽きが来ていて、オフシーズンの10月後半頃からブドウから頭を切り離すために釣行するのですが、釣りに気が入らなくて寝てばかりというのが毎年最初1〜2回の釣行恒例となっていました。2〜3回釣れない(釣らない)釣りを続けると、やっとむくむく釣り師魂が目覚めてきます。釣れなかった、釣らなかったから釣ってやろうと思うだけで、どれほど釣果を出しても嬉しさとか感動はあまりないし、向上心に燃えて釣りに夢中だった時期がとっくに過ぎているのはどうにもなりません。
釣りは30歳頃に始めて35年間続いたのですが、私は本気になると30年近くやり続けるというところがあって、間違うとちょっと怖いなと自分でも思っています。
今気づいたのですが、ブドウづくりも今年で30年目のはずで、私の一段落のサイクルはそこにあるのか、それでミカンとか他のことをやろうとしているのか、サイクルという新たな角度で見ると、そうでもあるようだと思ってしまいます。
草野球も50歳の手前まで、走れなくなって止めたのですが、30年近く続いたことを考えると、30年というのは私の本気度成就の一サイクルの時間で共通しているようです。
カラオケは今年4年目ですが、釣りがカラオケに変わったということは無論自覚しています。釣りは疲労が残り過ぎたり、却ってストレスをためこんだりということもあって、気分転換ということならカラオケの方が容易です。あらん限りの声を振り絞って歌っていると、自分の中身も空っぽになっていくような大掃除状態で、これって凄い健康法なのかと思ってしまいます。
最近一人カラオケが多くなってきています。相方が友人の仕事を手伝うようになって、週一回一緒にというのも難しくなってきているのですが、一人だと2〜3時間で十分だから週一程度ならまだしばらくは行けそうです。
カラオケは何時まで続くのか、そう長くは続かないだろうと思っていますが、問題は他者に歌を聴いてもらいたいと思うかどうかというところなのは分かっています。それはこのブログとかの文章表現で他者に向かう気持ちがどうなのかということと共通しています。他者に向かう気持ちが無ければ文章は刻まないし、もう少し強い気持ちがあれば本気で書くことに向き合うだろうと思ったりもしますが、デリケート微妙で点いたり消えたりというところです。
昨年カラオケはもういい止めようという時期がありましたが、歌も表現である以上他者に向かわざるを得ないところがあって、ここを無視して自分一人の世界に閉じ籠り続けるのは難しいようです。つい5〜6年前までカラオケに行く自分などあり得ないと疑う余地もなかったはずですが、それを自分の意志で覆したのだから、更に在り得ない自分を展開させてみようかと思うこともありますが、冗談ではないと憮然とする自分も強固です。
70歳が近くなっても、あるいはだからこそなのか、知らない自分と出会うのはことのほか嬉しいです。よりフリーに在ろうとすることは、生命の輝きその炎を自分の中に見出したい故にです。
posted by 明石 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年03月28日

苗木を植え付けて

注文していたミカンの苗木が届いたので、翌日早速植え付けました。
3月に入ってすぐ苗床をもう一度耕すなど準備を万全にしていたため、5時間ほどで50本植え終わり、予想よりはるかに早くて、100本植えるのも2日あれば楽にできそうです。
来年100本植えて、再来年も100本と思うと、なんだか元気が出てきます。10a60本で計算すると300本だと50aになり、既にハウス跡15aは小原紅ミカンが2年前に植え付け終わっていて、現在収穫している青島系金峰ミカンとも合わせると、70a(7000u)は越えるような規模のミカン園となりそうです。
もともとミカンを作るために開墾された畑を、最後にもう一度ミカン畑に戻すのは、日の目を全く見ることなく終わった物をそれに携わった先人たちの思いも含めて、このままでは終わらせないという意地か反骨魂をどこかにちらっと感じたりもします。標高による気温差が当初は大きなハンディとなってミカン畑は壊滅したのですが、10年ほど前からことに夏場の高温でブランドの産地が品質を低下させる一方、平地に比べて3〜4度気温が低いということが大きな利点となっていて、ここでなら質の高いものが作れると気象環境は今や逆転しています。
私等の畑は五色台の南東中腹斜面の一角にあって、標高200〜300mというところですが、斜面である以上労働条件はその分厳しくもありますが、美味しいものができる条件はほぼ完備しています。立地条件は人の努力や技術で越え難いもので、たとえば私が西向きとか北向とかで作っていたなら、どれほど努力しても今のブドウのレベルには到達しなかったのではと思ったりします。立地条件とは言葉を換えれば自然環境で、農業は自然の中での生産活動であるが故に、自然のなせる業に人がどれほど無力であるのか、時として嫌というほど教えられます。だからせめて適地適正を誤らない選択をしなければということに尽きるのだろうということです。
私は昨年末からミカン園の復活に本気になり始めてから、終活に入っていたような自分をどこかへ蹴飛ばしてしまいました。ことさらそう思って終活に入ったのではありませんが、60歳になった時、もう何時終わってもいいと思ったことが引き金になってしまったようです。ホームページを立ち上げて、ブログを書き始めたのも60歳からで、だからブログも次第に終活的な動機を反映したものになっていったということはあるようです。60代中頃には何事につけ意欲も薄れて、早くお迎えが来ることをどこかで願ってもいました。
けれど、仕事をしていて分かるのは、体力も能力もまだ殆ど衰えが来ていないということです。今68歳ですが、日本の専業農家の主力の平均年齢と同じです。体にどこか悪いところがある訳でもなく、まだばりばりの現役生産者であるのが当然なはずです。結局、終活に収まらない体力や元気さが内側から爆発して、終活を破り捨てたということになるようです。もう一度生き直しのようでもあり、今度は最後までイケイケです。
完成や完結はそもそも無いのが本当で、自分という命が燃えれることが一番大切で、燃え尽きて終わればそれでいいのです。
posted by 明石 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2018年03月15日

黙する季節

6年前に親父殿が亡くなってから、毎年のように1月から3月の間に近しい者親しい者が亡くなり続けて、気が付いてみるとこの時期になると私の語り口は閉ざされがちになっています。喪に服すとか別にそんなことを思っているのではありませんが、命日頃には故人をなんとなく思い浮かべて、亡くなったからと言っても何も変わらず私の中では存在し続けているよ、と面影に語りかけていたりします。
親父殿や北村氏の死はブログに記していますが、北村氏の一年後の一昨年3月には姉が亡くなり、昨年1月には叔父が亡くなっています。不思議なのは死別ということにあまり感情が湧かず、私の中では変わらずに存在し続けていて、違いは生身の本人に対面することがなくなったということです。他者との関係が記憶の積み重ねの中ににあるのなら、死もそれほど決定的な意味を持たず、新たな記憶を生み出す未来が閉ざされただけのことになるのではと思えたりします。
私もそうでしたが、人の寿命から考えて平均的であると、60歳前後から親世代との別れが始まり、兄弟とか友人とかにまで及び始めてくると、死が自分にも身近に迫って来つつあるのを漸く悟ります。命は必ず終わりが来ると頭では理解していても、まさか本当に自分にそんなことが起こるとは思っていないのが常ですが、60を越えて毎年葬式ばかりに出席していたら感じ方が変わってきます。それがことに自分の近しい者親しい者であれば猶更です。
近しい者親しい者が亡くなり続けたここ5〜6年、彼らは私の中では変わらずに存在し続けています。死者は物理的には存在しなくても、関係が深いほどに人の心の中には存在し続けます。私は年齢的にはまだ始まったばかりかも知れませんが、高齢になるほどに他者との関係は死者の割合が増えてきて、例えば百歳の人の心の中に存在する人々は圧倒的に死者の割合が高いのではないかと思ったりします。
何時だったか、同級生とのお茶会の日、皆が来るのが遅れて、私は一人でぼんやり戸外の樹々を眺めていると、朝陽が眩しくて白日夢的に、皆がこの世にいなくなって自分が最後の一人になったと仮想してみると、ああ長生きはしたくないとの思いがこみ上げてきて、白日夢は終わりにさせました。
命はどこまでも生き続けようと欲するものかもしれませんが、あまりの長生きは心理的にきつそうです。私の親父殿は死の2月前まで畑仕事をしていました。いわば死ぬまで現役の生産者であり続けたという、羨ましい限りの理想的な終わり方で、私も同じような終わり方ができるようただ願うばかりです。
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2017年12月25日

苗床準備

これから3〜4年で普通温州みかんの苗木を300本植え付けるとして、苗床の準備にどの程度手間時間がかかるのか、とりあえず来春に植え付ける30本分の苗床を掘ってみることにしました。ブドウだと苗木一本植え付けるのに、永年床くらいのつもりで、深さ40pで20〜25u掘り起こして砕きます。1日に2本分しかできませんが、面積にすると40〜50uとなります。みかんだと1本分は3uと決めているから、単純計算だと1日に15本分前後となりますが、根の広がりとか土の固さとかでずいぶん違ってくるので掘ってみないとわかりません。
道具は例によって ツルハシと二本鍬とで、今時こんな原始的な肉体労働をする者は居るのか、と思ってしまうほどハードです。土建業の友人がこの作業を見て、「今時の若い奴にそんなことをさせたら、半日も持たずに皆辞めてしまいますよ。」と言う。
気温が3℃以下の時でも額が汗ばむほどにキツイのだけど、一堀り一堀りに思いが籠っていくから、私はこの作業が嫌いではない。途中苗木屋さんに電話してみると、苗木の追加注文20本可能だとのことで、結局6日間で50本分の苗床を掘って今回はここまでです。来春は50本の植え付けですが、再来春からは100本となりますが問題なさそうです。
ツルハシや二本鍬を打ち込む度にミカン園再生の思いが強く固まって本物になってきます。3年後までに300本苗木を植え付ければ、普通温州ミカンの園地面積は50aは楽に超えそうです。
ミカンは普通温州の青島系がやはり一番おいしいです。私のところで今収穫しているのは青島系金峰ですが、糖度12〜13度はごく普通、時には15度を計測することもあります。
10度以下の極早生や10度前後の早生ミカンから撤退が始まっていると報じられていますが、美味しくないと消費者離れは当然だろうと思っています。
ミカン園地の再生は10年後を睨んでのものですが、店じまいにかかっていた自分を破棄して、元気と意欲を取り戻し始めている自分が本物になりつつあるようです。活気を得られること生命を燃え立たせてくれるようなことが最大の価値があると今改めて思っています。
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2017年11月29日

ミカン園地の再生

普通温州ミカンの苗木を30本予約注文しました。苗木が届くのは来年3月ですが、これを手始めとして、いよいよ普通温州ミカンの園地の整備改植を本格化させる積りです。3〜4年後までに300本程度苗木を植え付けて、普通温州ミカンの園地面積を50aまで復活させようと考えています。私等の園地はもともとミカン栽培のために国の補助事業で開墾されたものですが、木が成長して本格出荷を迎えた頃には、ミカンは生産過剰で市場は惨状を呈していました。加えて園地が標高200m〜300mほどの高地にあり、気温が平地より3〜4°低く、出荷時期が他産地より一月近く遅れて勝負にならず、ただの一度も日の目を見ることもなく、生産が本格化するのと撤退が始まるのがほぼ同時でした。総面積40haほどのミカン畑で今残っているのは、生産者は一人で面積は2haほどかと思います。
私のところは自家用程度にしか残していませんが、再びミカンをと思い始めたのは、特にここ5〜6年気温の上昇で、ブランドの産地でもことごとく品質が低下の一途にあるという現実です。昔は3〜4°気温が低い高地ということが太刀打ちできないハンディだったのですが、今はそれ故に品質の良いものができると、逆転しているのを感じ取っているからです。加えて生産者も激減しているはずで、10年後なら尚更です。
小原紅早生ミカンは今春40本苗木を植え付けて、ブドウを止めた15aのハウス全域に苗木の植え付けが完了しました。ハウス半分は6年前に苗木を植え付けていて、来年には初出荷となりそうです。まだ若木なので成木にならないと結論は出ませんが、現在一番糖度の高い木は13°を越え始めて、糖度的には最高レベルに達しそうです。
ミカンは苗木を植え付けて成木化するまでに10年以上を要します。10年後に私は仕事ができるのか生きているのかそれは分かりませんが、10年後でも自立自活できるだけの基盤整備をしておこうと、最近考え方が変わってきています。何時まで仕事ができるのか、生きているのかばかり考えていたら、何もできなくなるだけです。父が85歳まで現役で農業を続けられたのだから、それを一つの目安として、生涯現役を目標とします。考えてみると、80歳を過ぎて自立自活の専業農家で在り続けるのは素晴らしいことで、生来へそ曲がりの私にはぴったりの理想形であるのかも知れません。
70歳が近くなって10年後のために苗木を植え付け、80歳が近くなっても10年後のために苗木を植え付け、90歳でまだ10年後のために苗木を植え付けられるなら、それはもう笑い話になりそうですが、専業の生産農家の生態は本質的にそうであるのだろうと思えます。私も農業人であるならそのように農業人生を全うしたいものです。
ヒサヨちゃん一家との関わりで、また別のところで自分が目覚めたようです。60歳を迎えた時からもう何時終わってもいいと、どこか終活に入ってしまっていた自分を破棄して、本来の自分に帰り着いただけなのかも知れませんが、やる気を取り戻せたのなら願っても無いことです。ヒサヨちゃんが私の後をやるのかどうかは分かりませんが、やれるように基盤整備をしておかねばと思うのと、ヒサヨちゃんがやらないのなら農業体験塾的なこともしたりして良い出会いがあればと考えたりもします。いずれにしろ、私が自立した専業農家の現役最前線であることが前提で、何時まで何処までとかつまらないことは考えないで、そう在り続けようと努めるだけです。
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2017年11月11日

花澤先生ご夫妻と

最近何時訪れたのか思いだしませんが、ともかく久しぶりに花澤ブドウ研究所を訪れました。今年5月に花澤先生の奥さんからメールが入って、その時ぶどうの販売が終わればお伺いしますと返信していたのです。
5年前の12月に父が亡くなってから、次の年の8月には大学時代からの友人が、その次の年の3月には高校時代からの悪友が、そして昨年3月には姉が、今年1月には叔父がと近しい親しい者が亡くなり続けて、こうも続くと私もどこか自失状態であることは否めません。
以前はブドウが終われば花澤ブドウ研究所を訪れるのを毎年恒例としていたのですが、それも父の死後ぷっつり途絶えていたのかもと思うと、この5年間の空白さが私に改めて突きつけられているようです。
花澤先生も今年で85歳になられたとのこと。80歳前後から病院通いが多くなったのは聞いていましたが、現在も週2回はリハビリに通って自立自活に努めているそうです。
私の父は5年前85歳で亡くなりましたが、死の2月前まで仕事をしていて、現役でなくなった途端この世を去ったという、羨ましいほど理想的な終わり方でした。私が父の年まで生きられるとしたらまだ20年近くありますが、還暦を迎えた時にもう何時終わってもいいと思ったことが、その後基底気分ともなっていて、意欲が薄れて退潮気味になっていたのは否定できません。日本の専業農家の主力の平均年齢が丁度私と同じであることを考えると、意欲をなくして老けこむには確かに早すぎるのだろうとは思ったりもします。
「日本の農業農政に関してもっと発言発信を!」と花澤先生が私に言いたかったのは分かっていますが、末期症状の患者に延命治療を施すより、終わらせてしまった方がいいのではと思ったりします。人口増加と加速する気候変動で、世界の食糧事情が厳しくなるだろうことは容易に予測できますが、我が国の危機感の乏しさは致命的で、日々の生活に困窮を極めるほどの食糧不足に至らなければ、国として食糧を自給することの重大さは分からないのだろうと思っています。
農業を国民の総意で再生させる時が来るのかどうかは分かりませんが、それができるのであれば国としての基本的な在り方を問い直す道も開けて、現在のような不毛な憲法改正論争などとか見なくても済むのだろうと思います。選択肢のないところまで追い詰められて、困窮を極めないと、この国は変われないのだろうと思っています。
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2017年10月23日

暗欝な日々

卒業してから50年経っても、高校時代をことをあまり思いだしたくないのは、在学中私は高校を刑務所のように、自分はそこに繋がれた囚人のように感じ続けていたからです。いまだに高校に近づきたくないほどの嫌悪感が残っていて、残念ながら私には愛校心は殆どなさそうです。
県内3番手の進学校に入ったのですが、進学校だから毎月模擬試験があって、成績順位が出されます。私はトップクラスの成績で入学したそうですが、その4月から3カ月連続で150番前後成績順位を落とし続けて、そこがどん底なのか卒業するまでその位置をキープし続けました。学年の総数が600人だから、500番落ちれば底に着くはずです。
授業は聞かない、家庭学習はしないのは完璧と言えるほどで、劣等生を極め尽くした3年間でした。家庭学習日誌を提出する時、0時間とは書けないので1時間前後と嘘を書くのですが、それでよく進級できたなと担任に呆れられたのですが、後々考えてみても、よく卒業できたものだと自分でも思います。もともとの志望校、県内トップの進学校に行っていたら、まわりとの落差があまりに極端で、卒業できずに退学することになっていたではと思わずにはおれませんでした。
高校生になると反抗的な態度に暴力的なところも加わって、私が何をしようと授業の邪魔をしないなら放置すると、先生方もそう決めていたようです。態度の悪さは目立っていたはずで、補導部の主任先生がやってきて、「おまえは今のところは目立った悪さをしていないが、そのうち尻尾を捕まえて、必ず退学にしてやる。」と仰る。何もせずに1日を過ごすことは苦痛過ぎて、早退したり不登校だったり、市内をうろうろして補導員に追っかけまわされたりしましたが、いつも逃げ切ったので退学騒動までには至りませんでした。
私はいつも単独行動でグループ行動はあまりしません。落ちこぼれたり悪になったりするのは自分一人でいい、他者を巻き込みたくないと、その心構えだけははるか子供のころから身に付けていたようです。
高校1年生のある日、私は突然物語を書き始めました。幼少のころから私には夢想癖があって、反抗的になるほどに、救いを求めるように夢想世界に浸るのもありがちでした。夢物語の世界を突然文章表現し始めたのは、何もしない苦痛感から抜け出したかったからですが、最初はお試しの暇つぶしであったはずです。それがほそぼそでも続いて次第にのめり込み始めると、一つの思いが芽生え始めました。
私は依然として自分が何をやりたいのか、何になりたいのかを見出してはいませんでした。大人社会に目を向けると、やりたくない、なりたくないばかりで、自分の居場所が何処にもないのを知るばかりです。夢物語を書き続ける自分が、「ないのなら作ればいい、自分の世界を作るんだ。」と声をあげました。「自分の世界を作るために作家になる。」と繰り返すと、その思いは一つの芽となって私の内側に根付いて、それ以後育ち膨らんでゆきました。文学、哲学、思想書等古今東西の著作を読み漁るために進学したいと思うようになった時、私は多分初めて勉強したい自分と出会っていたのです。
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2017年10月22日

何処へ

エリートにならないと決心してからは、離脱の日々が始まって、ただ遠くを眺めているような時間が増えたような気がします。授業は全く聞いていないし、それだけで辛うじて学力を保っていた、試験前の一夜漬け学習も以前よりなおざりになり、本音を言えばどうでもよくなってゆきました。
授業を受けるのが苦痛で、その度合いが日々膨れ上がっていたある日、1年生時の担任の数学の授業中、苦痛感が極度に高まって、額は汗ばんで体は小刻みに震えていました。必死で我慢していたのですが、もう駄目だとパンクした瞬間、筆箱を叩きつけて教室を駆けだしました。「爆弾教師」だから追いかけてくると思ったのですが、来ませんでした。考えてみると、あまりに唐突で訳の分からない出来事だったのかも知れません。ちなみに同窓会とかで同じクラスだった者に聞いてみても、この事件を記憶している者は誰も居ませんでした。
自分が何をしたいのかが皆目見えてこないので、手も足も出せず、ストレスばかりが増大して、精神とか神経に障害が出るようになり、発作も時々出て、情緒不安定とか集中力欠如とかの評価を受け続けました。
私が一番困ったのは笑えなくなったことです。笑おうとすると顔面の神経が硬直して、苦痛に歪んだような顔になるので、相手は驚いたような表情になり、それが度重なると対人恐怖症になりそうになる。負の連鎖的に次々いろいろな神経症に襲われたのですが、なんとか持ちこたえて中学を卒業するまでには自力で克服しました。
当然のことながら、成績はずるずると上級生になるほど下がり続けました。「お前はなんだ!皆が受験で一生懸命勉強しているのに、上の空で他ごとばかり。高校を受験する気があるのか!」3年生時の担任が苦々しく吐き捨てるように言う。私も嫌いなタイプなので無視して相手にしません。
これほど授業を受けるのが苦痛なのに高校へ行くのかと考えると、気持ちが萎えてきますが、大人社会に出て行くのは尚更嫌だから選択肢はなしです。
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2017年10月19日

刻みこまれた情景 13歳の春

中学2年生の13歳の春、私は「エリートコースは歩まない、エリートにはならない。」といやにはっきりと決心しました。まわりの大人たちとか世の中の価値観、例えば東大を出て大蔵省へ入るのがベストというようなエリート人生を思うと、そんなつまらない生き方はしたくないと強く思ったからです。この決意、決心は今も明確に私の内に深く刻まれています。というより、その後現在に至るまでここをベースに歩んだのだから、この思いを抱えて私は生きてきたと言っても過言ではありません。
私にとってそれほどの大事件ででありながら、心の内の問題であるだけに外からは一切見えず、何も無かったことになるのですが、この時から周りの同級生達に私は一切見えなくなるだろうとの思いもあって、心のどこかで秘かにさよならを告げていました。
1年生終了時に担任に言われたことが、自分の進路を考える引き金になったのは間違いありません。私は小学校の6年間は担任は女の先生ばかりで、中学生になってやっと男の担任になった安ど感もあって、担任に悪い印象は持っていませんでした。担任はびんた制裁も時々ある「爆弾」とあだ名された数学の教師で、当然私もびんたを食わされたことはありますが、親父の鉄拳制裁に比べると蚊程度でたいして気にもならず、私としてはまともに先生の授業は聞いていたはずです。中学は学年ごとにクラス編成があってクラスメートが変わり、担任が変わります。それ故なのかどうかは分かりませんが、1年生の終わりごろになって先生が皆の前で、「明石よ、まだ勉強する気にはならないか。お前は今回の試験でも主要5科目は素晴らしく、学年で2番だった。先生はお前が本気で勉強するとどこまで伸びるのか、それが見てみたい。」と懇願するように言われて、頭からがつんと勉強しろと言われれば猛然と反発するのですが、そんな風に言われると私でも少しは心に刺さりました。
私は中学生になっても授業はあまり聞かないし、家での学習も普段はまるでしませんが、試験になると主要5科目だけは前日に一夜漬け程度には勉強しました。他の4科目はまるでやらないから点数はせいぜい40〜50点で、9科目合計での順位は250人中10〜15位程度だったと記憶しています。成績とか順位とか殆ど気にしていなかったのは小学生の頃から変わらずで、その意味では向上心は全然とは言いませんがあまりなかったです。主要5科目ならトップ争いをしていたと先生に言われて、初めてそのことを知って、少し心に刺さった先生の言葉を反芻していました。
いくら想って見ても先生が見たがっているようなエリートになる自分は想像できず、もう既にまわりの大人とか社会への反抗心は目覚め過ぎていて、翻意の余地は殆どなかったようです。エリートコースを歩まない、エリートにはならない、と決心したのはわたしにとってはごく自然な成り行きだったと思っています。
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2017年10月17日

刻みこまれた情景 小学生の頃

自分が見る自分と他人が見る自分との違いはいつでもあるものですが、同窓会で何十年振りかの同級生に会うと、「明石は勉強ばかりしていた秀才だった。」とよく言われるのには愕然とします。自分の知る自分とは天地ほどの落差があって、それではまるで見られていないのと一緒で、一体何なのだと思ってしまいます。
私の記憶に今も鮮明に刻みこまれている自分は、勉強する暇がないくらい野山を駆け回って遊び呆けている自分です。平日でも放課後4〜5人は遊びに来ていたし、休日だと10人前後というのも珍しくなく、自分では遊びの天才だったのではと思っています。小学校5〜6年時の記憶は特に鮮明で、担任にとって厄介な生徒であったことは間違いありません。
授業はあまり聞かないし、宿題は殆どやらない、罰で立たされるのはクラス最下位の落ちこぼれ君と双璧で、例えば夏休みの宿題とか、まったくやらなくても1〜2時間立たされれば済むのだから、それなら当然罰を受ける方を選ぶという生徒でした。
授業を聞かないというのは元々と言うのもありますが、聞いていると同じ事を何度も先生が繰り返すのに苛立って、進むペースの遅さに我慢できなくなり爆発しそうになり、噛みつくような顔を先生に向けていたと思いますが、「あなた一人のために授業をしているのではない。進むのが遅くて我慢ができないのなら一人でどんどん先に行きなさい。」と怒られて、「あ そう。分かりました。二度と授業は聞きません。」と密かに応えていました。
母親が授業参観に来ると、先生は私が机の奥に押し込んでいる0点とかそれに近い答案用紙を引っ張り出して見せ、「授業を聞いていない時はこうなんですよ。」と私の素行を教える。テストの点数とか成績とか全く気にしていないから、気が向かないと答案用紙を白紙で出すというのも、この頃から始まったようです。
それでもトータルすると成績はクラスで3番手で、さすがに先生も納得がいかないのか、「皆さん、明石君に騙されてはいけません。明石君は勉強しないふりをして秘かにやっているのです。」とやられた時は私も頭に血が上って、この先生は許さないぞと誓っていました。
6年生の3学期、先生がひそひそ声で「中央委員会でのあなたの発言が建設的だと先生方の間で評判になっていて、校長先生も卒業時に特別表彰しようと言ってる。」と嬉しそうに私に聞かせました。話の途中から自分の顔から血の気が退いてゆくのがはっきり分かったし、聞き終わった時には私は完璧に破壊者に豹変していたはずです。次の委員会から凄まじく破壊者一辺倒で、手当たりしだい壊しまくって、そして小学校を卒業しました。
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2017年10月15日

老いた子供

2年余りブログの更新はしませんでしたが、この間も月1回定例のお茶会とか年に数度の飲み会とか、同級生と付き合いは変わりなく続いていて、お茶会などここまで長く続くとは予想していなかったので、メンバーそれぞれが相当くたびれるかなり大詰めまで続くのではと、改めて考えると驚きも混じってきます。
70という歳が近くなってきた同級生の集いで不思議なのは、共に過ごした小中学生時代を起点にして、そこから老いた現在のお互いを見ているのか、現在から共に過ごした子供時代を手繰り寄せているのか、両方が入り混じって判別しづらいということです。どちらの割合が大きいのかあえて判定すれば、多分子供時代から現在を見ている方だと思えるのは、私だけなのかどうかそのうち皆に聞いて見るつもりです。
いずれにしろ私が思うのは、同級生の集いとかで顕著ですが、人の記憶に10歳前後の頃が何時までもまざまざ鮮明に在り続けるのは、この歳になってみると驚くほどです。私自身振り返っても、30代から50代の記憶の残像は薄く、20代前半までが圧倒的に鮮明であるようです。
何故なのかひとつ言えるのは、人それぞれ感受性が鋭敏で豊かであるのはおそらく10歳前後を頂点に若い時ほどで、大人になって社会化されるほどに感受性は鈍化しているのだと考えます。
個人が社会に組み込まれていくほどに感受性を失っていくとすれば、人間の成長ってなんだろうとふと思ってしまいます。
この歳になってもその頃の同級生が集えば、いともたやすく子供心に帰り着くのであれば、年齢を重ねるほどに外側は劣化して老いても、浸食され尽くさないかぎり、内側コア部分には子供心が刻まれていて、老人とは老人の衣装を着た子供なんだ、と考えると少し楽しくなってきます、「俺たちは子供だ!俺たちは自由だ!これからはやりたいことをやるんだ!」と。
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2017年10月10日

やっと来たその日

愚図ついた天気が続いて久々に晴れた日の朝、10時になったので倉庫に降りて栗の実を取りだしていると、うちの奥さんの車が上がってきました。後ろのドアが開いて「おじちゃーん!」アカリちゃんです。「アカリちゃん、おはよう。」笑いながら言うと、なんだか照れくさそうにもじもじしています。一か月余りのご無沙汰が正直に反映しているようです。
早すぎず遅すぎずという絶妙のタイミングで、ヒサヨちゃんとうちの奥さんがこの日を決めたのですが、別れ際の言葉を本音と受け取っていいのかどうか、お互いに手探り的なところもあったようです。そんな心配は取り越し苦労で、お互いに本音だったからすんなり実現したのだと思います。
「すごく楽しみにしていました。」とヒサヨちゃんが何度も言いましたが、それは私等も同じで、来る日が決まったその時からカウントダウンの日々を指折り数えていました。
ヒサヨチャン一家が私の近所のアパートに居たのは、昨年3月から今年の8月までの1年半で、それはヒサヨちゃんにとって過酷といえるほどに厳しい1年半になったのではと思っています。あちこちの休耕地や放棄地を借りて、総面積5町(5ヘクタール)でにんにくを栽培するためにやってきたと言うので、7〜8人の作業員でやるのかと思えば、3人でやるのだと言う。3人で5町の栽培は不可能で、5反の間違いでは問い直すと、間違いなく5町だと言う。その無茶無謀さに呆れ返ったのですが、50代の社長をはじめ全員農業未経験で、盲蛇に怖じずとはまさにこのことだなと溜息が出ました。
今年の1月、実は旦那が昨年10月に出て行ったのだとヒサヨちゃんから聞かされた時は、私はその場に凍って固まりました。どんな事情があるにせよ、1歳と3歳の幼子を抱えた妻を残して出て行くなど、もうそれだけで男として人として失格だと、やがてめらめら怒りが燃え上がって来て、この時から私と妻はヒサヨちゃん一家に気持ち的に本気で肩入れするようになり、通常のご近所さんラインは越えてしまったようです。
今年8月でヒサヨちゃんは会社を辞めましたが、これがまた酷い話で、胸糞悪いので要約しますが、社長がとんでもないペテン師であることが発覚したということです。今年は猛暑日がうんざりするほど続いて私でもへとへと気味でしたが、ヒサヨちゃんに聞くと草刈りをするのだと言う。馬鹿な、こんな猛暑の中で毎日8時間以上も草刈りなどしたら死ぬぞと警告をしても、ヒサヨちゃんに仕事を指示するのは社長だからどうにもならず、私ほどにヒサヨちゃんも社長もその危険性を認識していない故に、素人の馬鹿社長に殺されてしまうぞと心配で心配で、怒鳴りこんでやろうかと発作が起きそうになるほどでした。「私、そんなに弱くない。大丈夫だから。」と猛暑の中で毎日草を刈り続けるヒサヨちゃんに驚きました、「なんて凄い娘なんだと!」
1年余り子育てに仕事に一生懸命なヒサヨちゃんを見てて、なんでそんなに頑張れるのか心打たれるほどで、体力も精神力もこんな凄い娘もいるのだと自分の認識を改めさせられました。
私等にはヒサヨちゃんは前向きな顔しか見せませんでしたが、旦那さんのこととか長年信じてきたお寺さん社長のこととか、本当は深く傷ついていたのだろうと思っています。どれほど深く傷ついてもアカリちゃんやダイゴちゃんの世話は泣く暇もないくらい待ったなしで、それが逆にヒサヨちゃんを救った面もあるのだろうと思います。子供が居なかったら一人で持ちこたえられたのかどうかそれは分かりませんが、子供を守ることで逆に子供に守られていることもあるのだろうと思えます。
私には子供も居ないし後継者もいません。私と妻、私等が終われば園地は廃園、家は廃家となります。市場関係者とかお客さんとか行政など関係各方面から後継者をなんとかと言われ続けてきましたが、どれほどレベルの高いぶどうを作っても食べていくのが精いっぱいというのでは後継者を作ろうという気にはなりませんでした。
それが猛暑の中で草刈りをするヒサヨちゃんを見てて初めて気が変わりました。1週間余り考え尽くして、ヒサヨちゃんに伝えたのは、「農業で自立したいと言うのがにんにくでなくぶどうでもいいのなら、うちでぶどうを作るという手もあるよ。私には子供も後継者も居ないし、私が終われば廃園になるだけだから、ヒサヨちゃんがやるのであればいずれヒサヨちゃんに全部あげるよ、農地も家も。ただ養子縁組して法定相続人になってもらわないと、私には甥や姪がいるので、贈与では立場が弱いから。」ということです。
その時はヒサヨちゃんはにんにくに一生懸命であまりピンとこなかったようですが、この件に関しては私の方は全く同じ変わっていません。ヒサヨちゃんのお父さんにも引き上げる際にはっきりそう伝えています。
ただ決めるのはヒサヨちゃんです。そんなに慌てて決める必要もありませんが、技術の伝承というか、1人前のブドウ作りに育てるために、3〜5年の期間が必要ということもあり、私がくたびれてしまってからではきつくなるということと、現在どんどん規模を縮小しているのをどうするかということもありますが、今の私の体力、能力ならまだ暫くは両睨みでもいけそうです。今回園地でヒサヨちゃんに言ったのは、やれるかどうかではなく、やる気になるかどうかだということ。私の密かな想いは、もしやるのであれば、5年で日本のトップクラスのブドウ作りに育てる自信はあるし、本人がどう思おうと、ヒサヨちゃんはそれだけの人材だと私は勝手に惚れ込んでいます。
私の現状に問題なのは販売面です。商売の資質が乏しいこともありますが、それ以上に職人としてのプライドとか整合性を求めすぎる性格が、販路を細くしているのはよく分かっています。ここをどうするかが経営上の最大の問題点であり、打開策が無い訳ではありませんが、自分の生き方にかかわることなので簡単ではありません。が、自分だけの問題で済まなくなれば、突破することになるのだろうとおもいます。
今回やっとヒサヨちゃんと一緒にカラオケに行けました。ヒサヨちゃんは20代の頃は演歌歌手を目指していたそうで、その歌を聴いてみたかったのですが、こちらに居る時のあの忙しさでは到底無理でした。ここ3〜4年あまり歌っていないそうで、それでは思うように声が出ないだろうと思っていたのですが、迫力のある綺麗な声に驚きました。高い声が出るかどうかと言っていましたが、よく響く個性豊かな声で、キーンと金属音が入ってくる高温はボイストレーニングでどんどん高くなりそうです。プロを目指していたのはもっともだと、私も奥さんも全く納得しました。ほぼ40年前、会社の慰安旅行で宮崎に行った時、スナックのお姉さんの歌声にしびれたことを思い出しました。プロを上回る個性豊かな歌い手に出会うと、プロって何なのだろうと思ってしまいます。
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