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2019年10月29日

私流(チヌ釣り編)

釣りに行かなくなって6年目になりますが、30年以上続いたことを止めても今のところ、釣りをしたいという蒸し返しは殆どないようです。別に釣りを止めようとか思った訳ではありませんが、宇和島あたりへ日帰り釣行すると疲れが3日も残るので、それが億劫になって行かなくなっただけです。釣りも始めて20年くらいは向上心に燃えてやっていたのですが、今考えてみると地元大屋冨の筏で8時間余りで192枚のチヌを釣りあげ、吐き気がしてもううんざりした時、そこをピークに向上心を失くしていったような気がします。
釣りを始めたのは30歳頃で、当時私は会社でもプライベートでも余暇は野球ばっかりで、会社の上司に3年がかりで口説かれてやむなく釣りに同行したのですが、教えられた通りに釣るといきなり35センチのチヌを釣りあげてびっくりです。その衝撃が強烈でチヌ釣りにのめり込むことになったのですが、釣り方を教えてもらったのもこの1回限りで、後はここを起点に釣りの世界にまっしぐら、10年くらいは仕事をしていても頭のどこかでチヌが泳いでいるほどでした。
海の底は見えていないから想像力でどこまで真相に迫れるかです。竿の穂先に出るアタリだけで海の底の状況を把握するには、経験をどれほど積んでその分析をどれほど正確にやれるか、ということになります。釣りもブドウ作りも対象が違うだけで、基本的に手法は一緒とだと常々私は言ってきましたが、それは今も変わりません。
私の釣りはチヌが主体で、赤土とか壁土とかに集魚剤を混ぜて土ダンゴを作り、エサを付けた針をそのダンゴに包んで海底に届け、着底後タイミングを測ってダンゴからエサの付いた針を抜き出しチヌに食わせる、中四国ではバクダン釣法と言われている釣りです。
ブドウなら生理構造ですが、魚なら習性をどこまで把握できるかで、習性は潮の流れの速い所と遅い所動かぬ所では全く違うため、同じチヌでも共通事項とその土地の独自性があって厄介です。
地元大屋冨の筏でギネス的な爆釣をしたのが多分釣り歴20年ごろのはずで、そこまでは瀬戸内とか鳴門の潮の速い所ばかりで釣っていましたが、その後は高知の浦の内や野見湾5〜6年通って、宇和島の吉田湾、北灘の「チヌ屋くまさか」へと場所を変えました。高知も宇和島も潮の流れが遅すぎて、食性が全くゆっくりしているので、私は特に鳴門の急流釣りでの瞬殺の合わせを得意としているので往生しました。
私の釣り歴は34年ほどで止まったままですが、通った釣り場では殆ど数釣りの記録は大幅に更新しているはずです。34年間でどれほどのチヌを釣ったのか、記帳記録するほどマニアックではないので分かりませんが、多分大雑把に言って2万匹は越えているのではと思っています。私はハラミチヌは釣りたくないので春はチヌ釣りをしませんが、年7〜8か月はチヌをターゲットにしていました。夏から冬まで、潮の急流から動かぬ所まで、いろいろな場所でいろいろな気象環境の中でチヌを釣り続けて、穂先に出るチヌのアタリを見続けると、所によって季節によってまた時間によってもそのアタリは全く違うものであったりします。
それを克服して釣りあげた2万匹は、別にその数がどうだとは思っていませんが、そこまで釣らないと言葉では伝えきれない感覚みたいなものがあるようです。
釣り座に座ってチヌと向き合う時、どんな食い方をしてもチヌのアタリだけは見抜ける確信があると、その自負は多分誰よりも強く持っているのかも知れないとは思います。
posted by 明石 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年10月28日

私流(ブドウ編)

私が就農したのは38歳の時ですが、施設栽培で種無しピオーネを作るにあたって、一つ私が心に決めていたことは、作る前から書物などで雑多な知識を詰め込まないということです。実は私の父も、あいつは頭で勝負するタイプだから本など読んで知識先行で理屈ばかり言うのではと懸念していたようですが、私は現場主義というか未経験な領域では先ず白紙状態で経験を積み上げることを優先します。
農家の息子とはいえたまに手伝うことはあっても、主体で作るという意味では農業経験はゼロで、ブドウを作るにあたって手元にあるのは、生産工程及び防除暦を箇条書きに記したA3用紙一枚のマニュアルと父の通り一辺倒な大雑把な知識だけです。ここからブドウ作りをどう展開したかは、以前ブログに記したこともありますが、自分の感性主体のひたすら体験学習です。
毎日園内の最低最高気温とか天気状況を分厚い一冊のノートに記録し、ブドウの生育状況と作業状況をもう一冊のノートに記録しながら、ともかくブドウの状態の変化をひたすら見続けます。特に私が注目し続けたのは葉の状態です。活力の高い樹を作りより高品質な果実を得るには葉と根こそがその源であるはずだから、目に見える葉の状態を目を凝らして見続けます。それは何年も何年も続くと、朝園地に入るとむき出しの腕の毛穴がざわつくような皮膚感覚があって、微妙な変化を目より早く感知していることもあるほどでした。乳幼児とか動物の一瞬で敵味方を見抜くあの直観力をどこかで思い描いていたのかもしれません。感性を研ぎ澄まして真理に迫れ、その思いは私の中では何事に対しても基本となっているのかもしれません。
天気状況と生育及び作業状況を2冊のノートに記録し続けていくと、2年や3年では分析対象となるようなデーターにはなりませんが、5年以上になるとそれなりのデーターとなり、現在では30年以上となって分厚いノートもそろそろ6冊目になりそうです。私はこのデーターを分析して、ブドウの生育状況と温度との関係とか潅水のタイミングとか、すべてを自分の経験値記録値から割り出します。
ブドウに関する著作を読まないようにしていましたが、病気や害虫とか農薬の専門書とかは別で、最初から手元において事あるたびにその正体を調べていました。ブドウに取り組んで20年が経ったころ、ブドウに関するどんな著作を読んでも構わないと、初めて自分に許可を出しました。20年もデーターを取り続けてそれを分析し続けると、ブドウの生理構造を基本的に的確に把握できていたと思うし、唯一のたたき台としていたマニュアルの不備もことに加温栽培での設定温度のでたらめさなど、早々に見抜けていました。またブドウの大産地の常識常道が、作り手の都合でブドウの健全な生育を捻じ曲げているところがあるようだとも早くから思っていました。
20年後に読書を解禁してブドウの作り方的な本を何冊か読んでみましたが、正直そこから得られるようなものはあまりなさそうでした。書かれていることが正しいか否かは自分の把握していることから即座に判断できるし、学説と現場のズレみたいなところが本には多々あって、その後その類の本は二度と読みません。
始める前に雑多な知識を詰め込まないで、何も持たずに現場へ出て、そこで体験学習を通じて生きた知識を積み上げることを基本とするのが私の流儀です。始める前に雑多な知識を詰め込むと、却って真相が見えにくくなり右往左往迷走して、自分を確立するのが遅れるのだと思っています。
ブドウ作り30年余りに渡って積み上げたものが、ブドウに関する全ての著作を上回るほどにブドウの全てを把握しているかと言えば、それはないです。30年を越えてでも新しい発見は次々とあるし、どこまで行っても完璧など到達し得ないのだろうと思っています。自分が相応に確立されているなら、自分以外の他者の視点に触れて新たな発見発想を得ることもあるだろうし、ブドウ以外更には農業以外のところでもブドウに関する新たな発見発想を得られることもあるはずだと思っています。
posted by 明石 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年10月19日

方向転換(未知との遭遇)

やっと秋らしく涼しくなってきて、我に帰るというか、暑さの中影を潜めていた書くことに向き合おうとする自分に辿り着きそうです。無理をしてまで書くことに向き合う必要はないとの思いは常に何処かにありますが、書くことへの欲求がそれを上回れば自ずと従うまでです。雑念や邪念から離脱して、ごく単純に書きたいことを書きたいように書くだけです。大切なのは自分の内に湧き起こる欲求です。70歳を迎えるにあたって更に活性を取り戻そうと、私は私の内なる欲求に耳をより傾け続けています。
先日ミカンの苗木を70本予約注文しました。ミカンはある程度採算が出るようになるのに10年は要しますが、70歳だと10年後は80歳だから自分でも笑ってしまいますが、でもこれをやるとやる気と元気がみなぎってきて活性が高まります。10年後の80歳でも苗木を植え付けるほど元気であればと、そう思うとなんだか嬉し楽しくなってきます。
私は60代半ばから生き方を真逆に方向転換してきているのです。あまりに早すぎた終活というか、奥さんと二人でできる程度に生産規模の縮小を60歳ごろから始めて、気づけば終活サイクルに入ってしまっていました。終活とは終わり支度だから面白くなさが募るばかりで、60〜65歳ごろは秋が来ると早くお迎えが来ることを願ったりしていました。終わるための準備は終わりそのものを引き寄せる結果を招き、終わりを待つだけなら自分で終わらせてしまおうかと思うくらいストレートで短絡的なところが私にはあるのですが、60歳を過ぎての自死はさすがに今更なんだと思ってしまいます。まして終わりたい理由が生きるのに飽きたというのではプラスにもマイナスにもエネルギーの充填ができません。
60歳に到達したとき、60歳まで生きられたのならもう何時終わってもいいとの思いに包まれたりしました。八方塞がりで今日死ぬのか明日死ぬのか、死の想念に囚われていた20歳の頃、自分を叩き壊して濁流に身を投げるように生の側へ帰還したのですが、30歳までは生きられないだろうと思っていた自分からすると、60歳を迎えたことは十分すぎるほどの到達感がありました。
60半ばからの方向転換は、活性を取り戻すために自分の欲求に耳を傾け、年齢とか外的要因でそれをスポイルしないことです。先日ミカンの苗木を70本注文したと言いましたが、本格的に出荷販売するのに10年は要するものを70歳で植え付けると80歳でやっとということになります。終活路線だと在り得ないことですが、5〜6年前からブドウを止めたハウス跡にミカンの苗木を植え付け始めてから、次第に加速して、それが終活サイクルを打破したのです。特に4年ほど前から毎年50本以上の苗木を植え付けて、その度にやる気と元気が出て私は活性を取りもどしています。
65歳から始めたカラオケもその一つで、カラオケ大嫌いだった私がまさかカラオケ通いするようになるとは、未だに何かの間違いみたいな感はありますが、予想もしなかったような自分と出会うことは可能性が新たに広がるようで楽しいです。よりフリーに生きようとするなら、自分はどうなのだと自己規定するのをやめて、自分の欲求に耳を傾けてそれを大切にすることです。最近は週一回程度の一人カラオケが多くなっていますが、確か5年目に入って思うことは、思いっきり声を出すことはストレス発散とか呼吸器系統とか心身ともに凄い健康法になってるようです。CDに自分の歌を取り込めば別に文章なんか残さなくてもいいか、と時たま思うことがあるほどです。
そのうち若い彼女ができたりするかもと奥さんに言うと、「あんた金持ちじゃないから若い子が相手にしないわよ!」とばっさり。活力を高めて元気でいようとするなら、自分から老け込まないことです。年輪は年毎に刻まれて外側へと広がりますが、コアの部分は動脈硬化とか起こさない限りあまり変わらずにあるようです。そこを枯らさずに持続することが活力を高め活性を得る最大のポイントなのだろうと、私の方向転換は年齢に背きます。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年08月28日

雨ばかりご難続きの瀬戸ジャイアンツ

今日も雨、昨日も雨、明日も明後日もネットで見ると9月10日頃までの予報は雨ばかり、9月から出荷予定の瀬戸ジャイアンツはどうなるのだろうと思うと実にイヤーな感じ。熟期に雨ばかり降り続くとどうなるのかはここ5〜6年毎年のように嫌というほど見てきました。糖度18度以上で噛めばコリコリ音がする食感でという品質目標に到達不能になるばかりか、果実の表面にカビが生えて腐ってしまうという事態を、ここ5〜6年程度の差こそあれ毎年のように見続けています。予報通り9月10日頃まで雨が降り続くなら、今年が我が園の瀬戸ジャイアンツ史上最悪になるのではと思うと、腹立たしさや怒りがこみ上げてくるのを抑えようがありません、お天気に翻弄されるのが農業の宿命とは言え、最後の仕上げのところで谷底に突き落とされるのでは、お天気様だろうと神様だろうと食ってかかりたくもなります。
先の台風10号の時、強風を恐れて屋根被覆は天井の柱に束ねて縛り付けていたのですが、その後雨ばかりの予報で台風通過後すぐにまた広げました。台風の度に屋根被覆を蕾めたり広げたりするのはもう止めようと思っていても、ブドウを助けたい一心で結局はこれを繰り返します。数年前台風がやたら頻繁だった年、7月〜9月で計8回も屋根被覆を蕾めたり広げたりを繰り返した挙句、結局半分近くカビが生えて腐ってしまいほとほと疲れ果てたことがありますが、今年も予報通りだと最悪を更新するのではと嫌な予感が頭を掠めたりします。
現在園地の状況は、5〜6年生の若木を主体に6割程度は糖度17〜18度に達していそうで、皮も熟れてきています。あとは果肉の締まりというところですが、こうも雨ばかりだとそれも難しくなる一方だし、待つほどに糖度も下がりカビが生えて腐りが広がるのは目に見えているのだから、晴れ間が望めないのなら来週から出荷する決断をしなければと思いを定め始めています。
posted by 明石 at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年07月20日

やっと満水

先週11日から4日間雨が降り続いて、100ミリには届きませんが計45ミリほどの雨で、貯水池や貯水槽はほぼ満水となって、夏場を乗り切る水が確保できてやれやれやっとほっとです。今週18日19日の2日間で計80ミリほどのダメ押しの雨、もう十分だよと水が確保できた途端に迷惑顔に変わります。
3日前ピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの糖度を測ってみたのですが、熟成の早い樹では18度は乗っているようで、来週からの出荷はOKです。後は梅雨が明けて日照が戻ると、一週間ほどで熟成は過激に進むはずです。今年も何とか出荷に辿り着いたかという思いは、農業の現場は近年それほどままならぬお天気に追い詰められてきていることの裏返しです。
今年は春先から雨が少なく水不足干ばつへの不安を書き綴ってきましたが、近年11月12月が次第に暖かくなってきているのも不安材料の一つです。落葉樹は落葉して休眠に入ると、7度以下の低温に500時間以上置かれないと休眠から目覚めないそうで、種によって多少の違いはあっても概ね同じなのだろうと思っています。7度以下500時間というのは暖冬になると、一体何時になったらクリアできるのか厄介です。
私は3か所計40aのハウスでブドウを作っていますが、被覆の時期を各2週間以上ずらしたり1番手を加温したりして、3か所の生育状況を2週間ずつずらそうとしますが、500時間クリアが遅れて今年も昨年も萌芽発芽が3か所ほぼ一斉となって叶いませんでした。ことに1番手2番手は全く同時で、その後の寒暖の差の激しさで、加温無加温の違いで生育状況に1週間程度のずれを確保できた次第です。
7度以下500時間以上をクリアするのがこれ以上遅くなると、萌芽発芽が露地栽培と同じになったり、更には被覆の施設栽培の方が遅くなったりすることもありそうな、暖冬も落葉樹には瀬戸際にかなり近づきつつあるようです。
もはや異常気象とは言えないのだと思います。気象庁が言う足して20で割るような平年はもともと存在しないし、その近辺で収まるお天気を常態とするなら、常態を脱してから既に10年は優に越えてます。過去の経験データーが役に立たないほどに、気候変動は史上初を連発するような未知な気象領域に入りつつあり、自然の中での営みである農林漁業者は自分の肌でそれを感じ取っているはずです。残念なのは地球の自然環境が壊れてゆくことに伴う気候変動であるため、可能性が閉ざされてゆくような未来予想しか描かれないことです。
posted by 明石 at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年07月11日

袋がけが終わって

瀬戸ジャイアンツの袋掛けも終わって今年のブドウ作りも一段落です。
草を刈ったり潅水したり芽をかいだり日々の管理は続きますが、ブドウの仕上がりは日照とかお天気次第で、袋を掛け終わると既に私の手から離れています。今年は春先から雨が少なく水の心配で苦しめられましたが、梅雨入りしたとは言え依然雨は少なくいまだ水不足不安が解消されてはいません。100ミリ程度のまとまった雨があれば全部の池や水槽が満水して不安から解放されるのですが、降りそうな予報も近づくほどに消え続けています。
農業の難しいところはままならぬお天気に翻弄されて、時には壊滅とか最悪なことも起きたり無力感に打ちひしがれることもあるのですが、相手が自然だから理不尽とも言えないのです。ここ10年程前から気候変動に伴う異常気象が頻発して、過去のデーターが全く役に立たないほどに毎年史上初のとんでもない天気に晒され続けています。その自然環境下で営まれる農林漁業の第一次産業は生産が厳しく困難なものになりつつあります。
関東あたりは今極端な日照不足のようですが、大雨とか干ばつとか巨大台風とか、何が起こるのか分からないのだけれど何でも起こり得るという気象への差し迫った不安が私等生産者に重くのしかかっています。ここ瀬戸内地方は元々雨が少なくことに香川県は干ばつ水不足の頻発する地域で、そのうちとんでもない大干ばつに見舞われるのではとの不安が私の内にあります。ブドウ作り30年の間に水不足でブドウが出来損なったことが実際に何度かあって、その情けなさを何度か味わえばナーバスになって当然です。
今年は水が底をつきそうになったり水不足の不安で苦しめられたとは言え、実際には通常の潅水をここまで続けられて、ブドウの粒張り等品質も良好のようですが、一点本当に頭にくる腹立たしいことがあります。6月半ば過ぎから今年もアライグマの出現です。どれほど苦労や心労を重ねてここまで辿り着いたか、こいつらは一切関係なく毎晩袋を破ってはブドウを食い散らかします。アライグマの食害はもう10年以上続いていて、一番多い年だと1000房近く食べられて、これ以上被害が増え続けるとブドウを作れなくなると蒼ざめたのですが、その後どんな防御策を講じても侵入を防げませんでした。周囲に電線を張って電気を流しても効き目があったのは一晩だけ、ペットショップで犬の毛をもらってきて周囲に100か所以上ネットに入れて吊るした時はひと月ほど防げたのでこれで行けるのかと思ったのですが、次の年には全く効果なしでした。東南アジアのカブサイシンという最強の辛子をまぶした辛子ネットも全く効果はありませんでした。国や県の農業試験場辺りでもアライグマに対処できないということでは、個人の生産者ではこれまたとんでもない難しさです。
本来日本にいない外来種が東京都心とか全国で増え続けて、日本古来の生態系はズタズタにされて絶滅の淵にあるようです。外来種のもとをただせばペットとして入ってきたというのが圧倒的です。アライグマによる食害ももとをただせば人災ということになるのは当然です。
犬とか猫とか家畜とか古来から常に身近にいた種は別に、可愛いからと言って自然界に住む動物をやたらペットにしたがるのは、所有欲独占欲等人間の思い上がりで動物愛とは極端に隔たったものだと私は思っています。ペット欲ではなく本当に動物愛があるなら、地球上の人口を減らして、減らした分を自然に帰して、動物に返すところまで行かないと、本物ではないとついでに言っておきたいです。
温暖化の影響で北極海に流氷が無くて白熊が何か月も猟ができなくて、やせ細ってふらふらの映像を何年か前見ましたが、常駐する監視員は絶対にエサを与えない。人間の手が入ると自然界の法則が壊れるからです。監視員は倒れていく白熊を涙を流しながら見続けていますが、それでもエサは与えない。本当の愛はそれほどに厳しいものだと映像はつたえて、見てるこちらも涙ぐんでしまいます。
posted by 明石 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年06月22日

梅雨が来ない6月

先週15日の土曜日、やっと雨が降りました。63ミリの雨量で、久々に雨水が貯水池に流れ込んでいるのを見てほっとしたのですが、翌朝見ると水の流入量が嘘みたいに少ない。通常50ミリを越える雨だと3〜4日は勢いよく流れ込むのですが、それほど地面が乾いてて水が吸い込まれたのかと驚きます。予想外とは言えそれでも全5か所の池や水槽に半分程度には雨水が流入したため、5回5週間程度の水が確保できたため一先ずピンチは脱しました。
今年は春先から雨が少なく4月頃から水の心配ばかりです。2月程度の水は確保していたのですが、5月から6月中旬までの1月半の総雨量が14ミリとまで雨が降らないと、さすがに水も底をつきます。先週一通り潅水して後1回分の水があるかどうかというところまで来ていて、一体何時になったら雨が降るのか、梅雨が来るのか、ストレスが眠りまで圧迫しているようで、ブドウ作りの一番忙しい時期と重なって、疲れ方が異常です。仕事を終えて家に帰り横になるとすぐ寝入ってしまいます。何も考える暇がないくらい精一杯仕事をしているのなら充実しているのだけれど、どうにもならない天気にただひたすらストレスをため込んでいるのです。
ブドウは今粒の肥大期です。過去に何度か経験していますが、この時期に水がないと粒は小さいままで商品にならないバラ房になります。今年駄目でも来年出直せるかとなると、干ばつで早々と葉を黄葉させたり落葉させたり樹を傷めると、来年以降も品質低下は免れません。一年生の野菜や花と違って果樹は多年生で、一年一年をしっかり作ってその連続した積み重ねがあって、品質の維持向上が計れるのです。一年でも樹を傷めるような天気とか事象があれば、成木ほど品質は下降線を辿ることになります。
お天気に傷められてまた苗木にやり替えるのは理不尽ですが、この理不尽は農業の宿命です。ブドウの施設栽培を30年続けてきて、どうにもならないお天気ばかりを気にするのはもううんざりだというところもあります。ミカンに移行を目指すのはいろんな事情や理由が絡んであるのです。
posted by 明石 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月29日

前記続き

私は経済最優先の破壊尽くしの現代を史上最悪の時代と思っていますが、国連の報告書でも、経済第一主義の最近50年間の破壊が過去とは比較にならないほどひどいとしています。自然や多様な生物生態系を破壊し、つまりは地球を傷めて住みづらくして、或いはいずれは住めないような星にして、それでも進化向上していると思うならそれは完璧に気狂いの領域です。
経済を極めて単純化して金儲けと考えて、金になるかどうかが唯一の価値観であるなら、金にならないことは全て壊れることになり、人は金の盲者以外の何者でもなくなります。自然や生物生態系ばかりでなく人も、その一点に支配されると壊れてしまうことになるのだと思います。企業の生態、企業の論理は経済の持つ性格に支配されていて、その中に組み込まれて人は経済を生きてそれ以外の自分を生きられないようになっているのだと思います。
経済最優先の経済至上主義は最悪の結果しか招かなかったのだから、史上最大の間違いと言われても仕方がないはずです。何時どんな時代に姿形を変えても、根底にあるのは独占欲、支配欲という人間の欲望。結果的に言えば、自由な競争経済社会もほんの数パーセントがその欲望を叶えるために仕組んだ、巧妙な罠なのかと思ってしまいます。
経済の膨張と人口の爆発的な増加は市場の拡大というところで繋がっているようにも思えますが、いずれもこれ以上野放しにすると破滅的です。私は以前経済にも共存共生の理念を組み込む必要があると記しましたが、共存共生の理念は人と人、国と国は無論、多様な生物生態系つまり地球の自然環境を同レベル以上で含むということです。経済の中に敢えて性格的に相容れない共存共生の理念を組み込んで経済を規制しないと、今の延長線上には未来は見えないというか、無いのではと思ってしまいます。
投資ファンドのマネーゲームで株価が実体経済とかけ離れた動きをすることもよくありますが、これも以前懸念を記したことですが、今世界の穀倉地帯の2割が天気とかで壊滅的な不作になると、世界は食糧パニックに陥ります。ここに先物買いの投機マネーが流れ込むと世界の食糧は一気に高騰して、アフリカとか途上国では何億もの餓死者がでるとされています。何億人餓死者が出ようと投資は自由な経済活動だから合法だとするなら、合法な大量虐殺がまかり通ることになります。どこかで国際的な規制をかけないとそれはいつでも起こりうることです。こんな気違いじみた話がまかり通るほどおかしな時代になっているのに、世界はそんな危機感を持っていないかのようです。
世界が食糧パニックになったら日本も無事で済むはずがありません。今現在でも世界で食料を買いあさろうとしたら、多分中国に歯が立たないだろうし、世界的な食糧パニックが勃発すれば経済力があったとしても買えないと考える方が正しいように思えます。今国内で農業は衰弱の極みにあって、もともと低い自給力が更に低下し続けているはずです。他国から買えなくて自給力が乏しいとなると餓死せざるを得ないのに、この国は何度も申し上げるけれど本当に危機感が欠如しています。国の政治の最大の責任事はなにがあっても国民を餓死させないことだと私は思っていますが、本気でそのことに命を懸けるような政治家が果たしてこの国に居るのか疑問です。
私等団塊の世代が子供の頃日本は戦後ということもあって貧しかったのですが、それでも狭い農地にしがみついて食べ物を作って隣近所助け合ったりして餓死というような心配はあまりなかったようで、今よりは確かさがあったのだと感じます。これからの日本の貧しさはコンクリートのカケラを食っていけるのかな的な貧しさなのだと思います。
posted by 明石 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月21日

百万種が絶滅の危機

つい先日ニュースで流れていましたが、2019年5月7日、国連報告書は「人類が自然環境と生物多様性に壊滅的な打撃を与えて、動植物百万種が今後30年以内に絶滅の危機に瀕している。」と警告しました。百万種とは驚きますが、雪崩を打って種が絶滅するそんなところまで来たかという思いと、人類は善なのか悪なのか単純な二元論的な問いに、地球にとって決して好ましい存在ではないという一つの答えが出始めているのを覚えます。
環境とか生態系とかの問題で私が以前からずっと疑問だったのは、爆発的に増え続ける世界の人口こそが問題なのに、なぜ誰もそのことに触れようとしないのかということです。経済最優先という時代に人口を減らさねばという話は、市場の縮小ということになるので、著しく時代にそぐわないからなのだろうと思っていますが、世界の人口は毎年1億増えて今75億、2055年には100億に達するそうで、ついこの間70億になったばかりだと思っていただけに、爆発的な増加とはまさにこのことだなと驚いています。
世界の人口の増加と食糧難ということもあって、今現在でも農地にできるところは農地にしようと、南米とかを筆頭に森林の伐採は広がり続けているようです。自然環境や多様な生物生態系の破壊は広がり続けて、温暖化ガスの排出は毎年過去最高を更新するほど増え続けているのですが、人類はいまだ何の対策も講じることができず、COPとかIPCCとか国連での世界会議でも世界は結束することも出来ず、結局は無為無策のまま爆発的に増加する人口に呑まれて、最悪のシナリオを辿ることになるのだろうと思っています。どのみち避けられないのなら行きつくところまで行って、なるようにしかならないのだから、その地点が次への始まりとなるのであれば幸いかなと楽天的に思ったりします。
環境問題とか多様な生物生態系の問題とか、私は学者ではないのでどれくらいの数が適当なのか分かりませんが、それでも今の世界の人口を2分の1とか3分の1とかに、50年後とか100年後とかに減らすことが唯一の解決策だと思っています。ちなみに先進国諸国は日本もそうですが軒並みに人口減少傾向にあるようで、過渡的に超高齢化社会を潜り抜けねばなりませんが、30年後あたりを考えるとかなり人口は減るのではと思ったりします。中国でも1人っ子政策が30年も続いて、凄い逆ピラミッドの超高齢化社会をやがて迎えますが、1人っ子政策を辞めても子供をあまり作らない傾向は変わらないようで、30年くらいのスパンで考えると過激に人口は減少しそうです。
爆発的に人口が増加しているのは途上国ですが、先進国諸国が途上国の子供の教育をもっと支援すれば、教育水準が上がるほどに爆発的な出生率は自ずと下がってくるのではと思います。            続く
posted by 明石 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月12日

悪い予想はよく当たる

本業のブドウ作りが今年は忙しい。12月〜1月が暖冬になると7度以下の休眠500時間に達するのが遅くて、3か所40aのブドウが発芽から全部一緒になって困ったことになります。3か所の園地で、発芽が10日から14日ずれるように、被覆の時期をずらしたり1番手を加温したりしているのですが、暖冬だと500時間に達するのが遅れて、発芽をずらすことができなくなります。予想はしていましたが、3か所一斉に同じ作業に追い回されると、とんでもなく忙しくなります。かつて5か所90aでハウス栽培していた頃の眩暈がするような忙しさを、それほどではないにしろ久々にちらり思い出したりします。
このまま同時進行で1番手のピオーネと3番手の瀬戸ジャイアンツのジベ処理が同時になったりすると、摘粒房づくりが支障が出て困ったことになると思っていたら、幸い4月が寒暖の差が激しく寒の功績というか、1番手の加温を強めてジベ処理で2週間のずれは確保できたのでやれやれです。
落葉樹は7度以下の低温に500時間以上置かれないと休眠から目覚めないそうですが、これ以上あまりに暖冬になると500時間が難しくなりそうで、落葉樹の生理障害を招くことになるのではと危惧します。
気象環境が全く過去のデーターが役に立たなくなるほど激変して、寒暖の差の激しさ、極端な雨量、毎夏の猛暑とか巨大化する台風など、農産物の生産には厳しくなる一方のようで、品質が総じて低下一方なのは市場関係者が口を揃えるところです。品質が低下しても出来てるうちはまだいいのですが、出来なくなることが何時起きても不思議ではないと、私の想定内に既に入っています。
施設園芸ブドウのハウス栽培で、一番苦労するのは室内の温度管理です。もう20年以上前のことですが、丁度ジベ処理時期の今頃、朝から雨で昼からも雨の確率が90パーセントとの予報。昼食に家へ帰ったのですが、食事中ににわかに陽が差して晴れ間となり、しかも強い日差しです。信号を無視するほど慌てて軽トラで山へ駆けあがったのですが、それでも家からだと15分前後は要し、最初に1番手のハウスに入ると熱くて息ができませんでした。温度計を見ると55度で花穂も葉もぐったり萎れ気味だったのですが、ハウスの上下を全開して晴れてから30分以内の短時間で30度くらいに下げられたので、傷みは全体の10パーセント程度で済みました。もしあんな高温の中に何時間も置いたらそれで全て終わると思うと、この時以来4月以降になると、ハウスを離れる時は雨が降っていてもハウスの上側は開けるようにしています。30分も待ってくれない温度管理の厳しさはこの時たった一回で骨身に沁みました。
温度管理の次は水の確保です。週一回30ミリ程度潅水するなら40aで120トン、1か月だとその4倍で480トンとなり、200トン、300トン、500トンの水槽というより池を作りましたが、セメントのひび割れ補修とか水漏れ防止に努めないと維持できないのが常態です。雨が全く降らなくても2か月は凌げますが、今年は春から雨が少なくて残量であとどこまで行けるか計算ばかりでストレスが溜ります。
あと被覆中だと風とか雪とかも程度によっては壊滅的な災いとなるし、猛暑続きの夏場に気温が40度を越えると多分持たないだろうとか、心配してもどうにもならないお天気なのでストレスばかり溜まります。「雨にも負け風にも負け」は決して冗談ではありません。風でハウスがごっそり持ち上げられたり、雪で全ハウスが壊滅したり、ハウスでブドウ作り30年の間には随分痛い目を見ています。長い年月の間には時として自然が猛威を振るって襲い掛かることもありますが、これまでより本当に怖いのはこれからです。温暖化による気候変動とか、地球が壊れかけているのだから、経験したこともない予測も出来ないことが頻発するのは当然なのだろうと思えます。
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2019年04月24日

一瞬が一生に

夜10時頃だっただろうか、部屋のドアがノックされて「すみません!」と女の人の声。ドアを開けると少女っぽく見える女の子が立っていて、「私カギを忘れてきて部屋に入れないんです。泊めてもらえないでしょうか。」と困り果てた顔で言う。同じアパートの二つ隣の部屋だというのですが、私は会ったことも見たこともありません。切羽詰まった彼女の気迫に押されとりあえず部屋に入ってもらったのですが、まさか4畳あるかどうかの狭い部屋で見ず知らずの若い娘と朝まで一緒に過ごせるはずもなく、「俺、友達のところへ行くから朝までこの部屋使ってくれたらいいよ。」と咄嗟に決断しました。部屋に入ってから彼女の表情は固く押し黙ったまま、頷くだけで一言もありませんでしたが、お茶とか必要なことを伝えて私はバタバタ部屋を後にしました。道中、「何なんだこれは?これじゃあ俺が夜逃げしているみたいだ!」と愚痴りたくなるほど奇妙な展開です。
翌日部屋に帰った時にもちろん彼女は部屋にはいませんでした。その後も彼女の音沙汰は皆無で、お礼の一言くらいあってしかるべきなのではとちらっと思いが掠めたりもしましたが、そんなことに頓着しないのが私の流儀です。結局その後二度と彼女を見ることも会うこともありませんでしたが、一体何だったのだあれはと、何かに化かされたような不思議さだけが残りました。
私は想像力を働かせて事件事象の核心に迫るのが遊び心的にも好きで、好奇心が刺激されれば気づけば対象の回りをあらゆる角度から覗こうとぐるぐる回っていたりします。今回のことも本当言えば最初に直感はあったのですが、一晩部屋を提供してお礼の一言もないということで、それはある程度は裏付けられたようです。
多分彼女は余程思い詰めた行動であったようで、であるが故に時間とともに冷静さを取りもどしたときに、恥ずかしさに包まれたのではと推測したりします。はたまた女心を全く理解しない私に腹を立てたのかとおもったりもしますが、私の方からすると見たことも会ったこともないのにそんな無茶苦茶な話はないということになります。私は自由人志向で常識的や良識的な枠外に自分の立ち位置を探し続けますが、自分の心や欲望の在り様を拠点としているのだと思っています。つまり、心とか欲望とかが、反応して動かないと、何も始まらないということです。
事故のように突発的な出来事でしたが、半世紀近く隔たった今も、あれは本当は何だったのかとふと思ったりします。彼女と一緒に居たのは10分あるかどうかのはずですが、いまだに私の記憶の中に存在し続けています。瞬間的な出会い、ごく短時間の交わりを書き綴っていますが、例え10分程の出来事だったとしても、半世紀も生き続けるなら、他者との出会い触れ合いは感受性次第で無限に広がっていく可能性があるのだと思います。
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2019年04月15日

消息不明

何処へ行っても同じだと頭で分かっていても、今ここに居ることに耐えられず、アルバイトで旅費を作っては行ったことのない地へ飛び出す、20歳の終わり頃からそんなことを繰り返すようになっていました。旅とかいうそんな余裕とはおよそかけ離れていて、日常性を絶たないとパンクしそうになって、それを避けるために飛び出す放浪というよりは彷徨だったのだと思っています。
以前ブログに記しましたが、中学生の頃授業を受けるのが苦痛でその限界に達した時、筆箱を黒板に叩きつけて教室を飛び出したことがありますが、それと全く同じことだったような気がします。ここに居れないとしたら住めば地獄で、どこだろうといずれ居れなくなるのは必至なのは分かっていますが、動き回ることで多少の時間差や未知との出会いとかで自分が持ち直せて、その積み重ねの中どこか別のところに新たな自分が熟してくるのを願うところもあります。
2回生になると大学へは殆ど寄り付かず、講義を受けることは全くなく取得単位はゼロで、3回生になった時にさすがに心苦しくて、もう大学は辞めるから授業料は納めなくていいと実家へ葉書を送り、この時から表向きは学生でも本業はアルバイターとなったのです。様々な職種のアルバイトをして分かったのは、私は決して働くのが嫌いなのではなく、肉体酷使の重労働でもそれほど苦にもならず、資質的にも肉体的にも仕事人としての適性能力は高いようで、大学を辞めるならうちへ来ないかと様々な業種で声を掛けられたりしました。
アルバイトで旅費を作っては旅に出る、その繰り返しが正味2年は続いて、網走から根室に向かうバスの中で旅の終わりを感じて一段落したのですが、私にとってこの期間が無ければこの世から消えていただろうと思えるほど、それほど重大な期間であったのだと今そう思います。
母が授業料を収め続けてくれていたので大学に籍は残っていて、4回生になって大学に戻った時に何年かかっても卒業だけはしなければ申し訳ないと思い直して、結局6回生で卒業したのですが、2,3回生時が全く抜けているので実質4年で帳尻は合います。4回生になった頃には喫茶レストランのバーテンが本業で、学生は付録のようでした。満席だと105人お客さんを収容できるほどのお店で、ここで3年間シェーカーからフライパンまでマスターにみっちり仕込まれて、プロのバーテンを使うまでになっていました。卒業して店を辞める時、「大学を出てバーテンはもうやらないだろうけど、全国どこでも一人前のバーテンとして立派に通用しますよ。」とマスターが太鼓判を押して送り出してくれました。45年前のことですが、ブドウを感謝の気持ちを込めて送ったりマスター夫婦との付き合いは途切れることなく続いています。
それで旅は終わったのかと言えば、そんなことはなく、旅はいまだに続いています。命は生まれ、育ち、真っ盛り、老い、衰え、そして終わる、その一生で同じ状態で同じ場所にとどまるものは何一つない、時は無常の旅を強いています。私が時々不思議に思うのは、昨日があって明日があるように私たちは慣らされているが、本当にあるのは永遠に今という瞬間であるのだろうということです。この時の不思議さをいつか大天才が説明してくれるだろうかとふと想ったりします。
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2019年04月05日

最北へ

雪の原野を倒れるまで歩き続けたい、いつの間にか根付いたそんな願望が次第に成長して、時折熱い疼きとなって私の内部を駆け巡るようになっていました。
学生生活2年目の12月、アルバイトでどうにか旅費を作って、意を決するように北海道宗谷岬へ私は旅立ちました。京都から稚内までは鉄道で急行などを乗り継いでも二晩三日は要したような記憶がありますが、50年近く前のことだから定かではありません。
日本海側を北上しながら東北に入ると空は黒々雲に覆われて、白く波立った海は牙をむいて襲い掛かるとてつもなく巨大な猛獣のようにも見えた。車窓に映った自分が固まったような表情でこちらを見返している。なんて暗いのだと自分でも思う。東北でこれだと北海道の最北端宗谷はどうなのだろうと胸騒ぎもします。
列車を乗り継いで2日目になると寝不足もあってさすがに疲れます。途中下車なしの稚内までノンストップの旅だから猶更です。京都を出てどれくらいの時間を経て旭川に辿り着いたのか分かりませんが、仕事帰りの勤め人に交じって普通列車に乗っていました。二人掛けが向かい合った座席にあまり空席もなく、私の向かい側は慎ましやかそうなお姉さんが腰かけていました。
「旭川は日本で一番冷え込む処だと言われているけど本当?」と多分私が話しかけたのだと思いますが、彼女は首を横に振って「私の住む名寄の方がもっと冷え込む、氷点下30度以下に下がることもある。」と寒そうな顔をする。「寒くて寒くてあんまり寒いと心も凍ってしまいそうになるのよ。」彼女はその寒さの中に居るような表情を見せたが、私は彼女のずっと向こう、先ほどこの車両に入ってきた熊のような大男が、多分酔っ払いなのだろう、乗客に絡みながらこちらに近づいてきているのを見てる。ここへ来て彼女に絡んだらただではおかないぞともう心は構えています。「こんな寒い処に住んでいると、暖かい処に住んでいる人が羨ましいし、あの活気が私達にはない異質さで、怖いとさえ感じるの。」「だったら関西人は一番怖いかも知れないね。」と私が言ったとき大男が彼女に倒れ掛かるように絡みついた。
「おい、おっさん、お前ぶっ殺すぞ!頭かち割ってザクロにしたろか!」大男の胸倉を掴んで彼女から引き離して凄むと、私の目が余程殺気立ったのか、大男は一瞬でしゅんと凋んですごすご車両から出て行った。見ると彼女は蒼ざめて震えているようだ。言葉を掛けようとすると、彼女が怖がっているのは酔っ払いではなく私だと気づいた。ヤクザとでも思われたのかも知れない、列車が名寄に着くと彼女は逃げるように降りて行った。なんでこんな馬鹿馬鹿しいことになるのか、世の中を嫌っているから、世の中に嫌われてもしようがないと思ってしまう。
翌日やっとというか、とうとう稚内駅に着いた。雪は降っているが小雪で空は明るい。宗谷岬行きのバスに乗り込むと、明るかった空が次第に暗くなり、途中から吹雪、猛吹雪となり宗谷岬に近づくほどに視界は閉ざされた。終点宗谷岬は猛吹雪で視界は無いに等しい。バスを降りると数秒で雪柱になり、息をするのも困難だ。バスの待合室に飛び込んで難を逃れたのですが、雪の原野を倒れるまで歩き続けたいなど、なんて現実知らずの妄想だったのか、バスを降りた一瞬で自分の馬鹿さ加減を強烈に悟りました。結局乗ってきたバスが折り返すのを待って稚内に引き返したのですが、笑い話以下のお粗末さだったのは間違いありません。
稚内市内に戻ってラーメンをたべていると、森進一の歌が流れていました。好きな歌手でもないのですが、こんな北の最果てでラーメンを食べている自分が浮き彫りにされるようで、何故なのかわかりませんが、涙が溢れてきます。名寄の彼女は心が凍りそうになるといいましたが、誰のどんな声も届かないほどに凍ってしまっている自分に、私はただ立ち尽くしているだけだったのです。
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2019年03月28日

金沢の女

北村が関西大学だったので時々ふらり京都に来ることがあった。下宿の部屋に居ても面白くないので、どこかへ行かないかということになり、美人の多い北陸金沢に決めました。二人とも学生で所持金は乏しいのですが、往復の運賃と飯代くらいは何とかありそうで、後の展開はパチプロまがいの北村が金沢で稼げるかどうかです。
朝金沢に着いて、パチンコ屋をチェックしながらぶらぶら金沢城公園あたりまで来ると、ほどなく開店という時間になって、来る途中決めていたパチンコ屋へ北村は戻って行った。私は金沢城付近の芝公園で寝ると決めていました。春だったか秋だったか忘れましたが、暑くも寒くもない戸外が最適の季節だったのは間違いなく、穏やかによく晴れた日、木陰で芝生の上だと夕方まででも寝られそうです。
周りを見回しても芝公園に人の姿はなく、木陰で芝生の上に寝転んで思い切り手足を伸ばすと、あまりの気持ちよさに日ごろの鬱々した気分も消えていました。下宿では眠りさえ四方八方から脅迫されて神経衰弱気味なのですが、知らぬ土地で快適な環境に解放されて、心地よい眠りにすんなり落ちました。
久々の快眠でどれくらい時が経ったのか、何かの気配でふと目が覚めました。寝ている私のすぐ近く女の人が芝生に足を投げ出して座っている。眠りが深かったようで私も咄嗟の状況判断が出来ません。少し微笑んでいるような優し気な彼女の目に、「ここはどこ?」と聞くと、「芝公園よ。」と返ってきました。「違うよ!どこでもないわまだ、だよ。」と突然自分でも何を言い出すやらですが、「谷川俊太郎ね。」と彼女。「あんたは誰?」と言うと、「誰でもないわまだ。」と彼女。何か嬉し楽しくなってきて私は笑っている彼女に、「ここがどこかで、あんたが誰かになるためには、どうすればいいのだろう?」と言うと、「それはあなた次第よ。」と彼女。
こんなほんわか優しそうな美人が、何故わざわざ寝ている私のすぐ側に腰を下ろしたのか、それは今考えても不思議です。彼女は北國新聞社の社長秘書で、昼休みで芝公園に寛ぎに来たそうです。出会った一瞬で触れ合えるところがあるのを感じ取りながら、好みのタイプであるがゆえにその先に私は進めません。就職はしたくないし生活に夢も望みも未来志向が全くない人間に恋愛は不可能で、好みのタイプほどに関わるのを避けてしまいます。
芝公園の入口付近に北村が見えた。宿泊費を稼ぎに行った友達が帰ってきたと言うと、彼女は立ち上がって帰って行った。お互いに名前とかを教えることもなく、その場限りの出会いで終わらせたのですが、どこかに切なさが疼くような心残りはあります。そんな気持ちを処理するのにも慣れていますが、ふと思うのは、仮に神様が出会いを仕組んだとしても意志が無ければ何も生まれない、ということです。「あなた次第よ。」と彼女の言葉が胸に刺さっているのに気付いて、「痛っ!」と顔を顰めました。
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2019年03月16日

知らぬ間に

私は10代後半頃から作家志望で、そのために読書とか勉強する時間が欲しくて大学へ行ったのですが、自分は作家志望でも文学少年少女とかはあまり好きではありませんでした。妙に老成して斜に構えている頭でっかちを見ると、それ自体中身のない虚構のようで、汗や涙や血を生身で流して自分を知ったらどうなのだと腹立たしくなりました。
大学は京都の立命館大学で、言うのが気恥ずかしくて言わなかったのですが、文学部英米文学科です。特に英米文学が好きだとかは一切ありませんが、どうせ勉強しないのはわかっているから、得意の屁理屈を捏ね回して単位が取れそうな文学部を選んだだけです。あの美人シンガー倉木麻衣ちゃんの落ちこぼれ大先輩でもあるのです。
50年前の学園紛争の真っただ中の学園生活は、今の時代からだと想像するのも困難なほどに隔たってしまっています。あちこち窓ガラスが割れ、学生運動の貼り紙だらけで散らかり放題の大学に初登校の日、私は下駄ばきジーパンで真っ赤なセーター真っ黒なサングラスとさながらチンピラ姿で、校舎ロビーでいきなり上級生と喧嘩となり、学園生活は騒々しくスタートしました。
同じゼミに富山県高岡市から来た大場という、まさにそのものという文学少年がいました。小柄で長い前髪が顔を隠していて、髪の間から時々メガネが覗いていました。嫌いなタイプなのでこちらから話しかけたりはしませんが、妙にいろんなとこで顔を合わすのには閉口しました。
私は最初の半年は毎日講義に出ていました。大学の教授とはどの程度なのか興味があったからです。特に専攻ゼミでは気が向けば積極的に発言したりすることもあって、チンピラ然とした最初の印象からは皆意外であったようです。
ある日確かエドガー・アラン・ポーに関する講義中、作品のモチーフとか作品論になった時、私は教授に襲い掛かってしまいました。「死を凝視する感情の透明さ」ということを私は言ったのですが、教授が理解不能で半ばパニックに陥っているようでもあり、蓋をしてその場を脱しようとした時、大場が「先生、真面目に授業してください!」と甲高く叫びました。「私は真面目ですよ。」と教授は狼狽えと怒りが半々といった風で、結局ムニャムニャ授業を終えました。大場が「明石が本気になるなら先生も本気になれよ!」とそう言いたかったのはよくわかっていました。そんな目で見ていたのかと、この時から私も大場に多少は態度を軟化させて、時々話したりもするようにもなりましたが、前期が終わって後期になると私はばったり講義には出なくなりました。
本来の目的通り下宿の部屋に籠って文学、哲学思想、歴史、心理学に至るまで、古今東西の著作を手あたり次第読み漁りました。一日500〜600ページは読んでいましたが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は一気読みみたいに、それでも何日かは続くので最後の頃は発熱して、読み終えると寝込んでしまいました。
大場が自殺したと聞かされたのは、一回生の終わり頃なのか二回生になってからなのかは忘れましたが、内臓をざっくり抉られるようなショックがありました。あのゼミ以後会えば短い言葉でも交わすようになって、同人誌だったか彼の文章を読んだりもしたのですが、中身のない小生意気なポーズだけで、私の嫌いな文学少年そのものでした。話している時見せる屈託のない笑顔が本来の大場であるのなら、自縄自縛のポーズを壊してやったほうが良かったのではとの思いも掠めたのですが、私も自分のこともままならず、そんな余裕も力もなっかたはずです。なんで大場が自殺したのか真相は闇の彼方ですが、コンプレックスがその一因にあったのではと、なぜだか強くそう思いました。
今考えてみても、あの笑顔であれば、他者とフランクに交われたはずで、良いおじさんになれてしっかり生きられたはずだと、そう思います。
出会いは一瞬の交錯であったかも知れませんが、50年経っても私は大場のことを覚えているし、或いは彼が望んでいたかもしれない、友人に知らぬ間になっていたのかもと思ったりします。
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2019年03月10日

月の道

3年前大学時代の友人3人と淡路島の温泉ホテルに集って、ミニ同窓会を行った時の情景が時々頭に浮かんでくることがあります。大阪出身で今は和歌山県橋本市に住むY氏、京都のI氏、加古川のU氏、それに私の4人で、I氏はその前年にも我が家に来ていますが、Y氏とは20年は会っていないように思えるし、U氏とは学生の頃からだと40何年になるのか考えると面倒くさくなります。
その数年前からY氏が、元気なうちに一度皆に会っておきたいと、I氏を通じて言ってくるのですが、あいつどこか悪いのかと聞くとそんなことはないとのことで、あまり気が乗らない私は先送りし続けていました。都会育ちほどに大学時代の仲間を懐かしむのは何なのだろうと、高校や大学に懐かしさのカケラも持ち合わせていない私からは奇異に映ります。もっとも向こうからすると、私の薄情そうなところが不安要素であるようですが、田舎人特有の土着体質なのか、私は小学時代を一緒に過ごした仲間が比較にならないほど懐かしい。
業を煮やしたY氏が直接再三電話してくるようになって、私も観念してミニ同窓会が実現した次第です。
最初は南紀の温泉ということでY氏に任せていたのですが、いささか独特の趣味嗜好の持ち主で、I氏がそれを懸念して私に電話してきたので、それでは関西と四国の中間淡路島にして私が手配すると決めました。
10月のよく晴れた日の昼下がり、私は淡路島は初めてでしたが、予定通りに2時間足らずで到着しました。ホテルのロビーで寛いでいると、ほどなく全員集合というか、皆私より早く着いて近辺をうろついていたらしい。
Y氏はさすがに老けて、何をやらかすか得体の知れないようなオーラが消えて、なんとなく小さくなったなと感じてしまいました。小柄なU氏が学生時代そのままで殆ど変わっていないのには驚きました。
海を見渡せる眺めのいい部屋を用意しましたとのことで、10階だったかどうか忘れましたが、部屋に入ってみると眺めの良さは言葉以上で、気持ちが伸びやかになります。20年とか、40年ぶりとかそんな長い時間を経てでも同じ部屋に集えば、何の違和感もなく収まるのも不思議ですが、部屋の背景に伸びやかな眺望が開けていることも無関係ではないのだろうと思ってしまいます。
60半ばを過ぎると皆さすがに憑きものが落ちているというか、口角泡を飛ばして激論とか、そんなエネルギーは源で枯れてしまっています。Y氏が「生きた証を何か残したい。」と真顔で言うので、「お前子供がいるだろ、子供や孫がいるなら、それがお前が生きた証だろ!」と即座に返してしまったのですが、いかにも不機嫌な言い方で自分でもびっくりしました。私は時々他者が消えてしまうほど自己完結的であり過ぎるところがあって、他者の中に自分を刻み込むような欲求は見失いがちです。高校時代からの悪友K氏の葬儀の話をしたのですが、関係性の中で人は死んでも、その人を知る人が居て思い出されたり話題になったりする限り存在し続け、そういう人が一人も居なくなった時初めてこの世から消滅する、ということを。
「生きた証」とか死後何時までも名前を残したいとしても、歴史に名を刻むような大人物にならない限り、人は皆大差なく忘れられ消えていく存在なのだということです。野に咲く花は誰のために咲くのではなく、自分という一つの命を精一杯生きているから、変わらぬ一つの命の尊さを宿しているのです。
Y氏はスマホで私のブログを読み始めました。U氏が「悪友の死」のブログ読んだけど、あれからブログが更新されていない、もう書かないのかと聞く。分からないと答えると、特異な生き方をしているのだから小説を、自伝小説とか書いてほしいと言う。
自伝小説はどこまで本当の自分に迫って描いたとしても、どこまで行ってもフィクションでしかあり得ない。日本の近代小説が私小説云々は、読者も作者もここを混同して描かれた主人公と作者を同一視するから、作品という次元へ飛翔しないのだ。もし私が小説を書くなら、私は私のこと以外書けないから、その意味では自伝的と言えなくもないが、生身の総体を書ききることは不可能で、書かれた私は主題視点とかで切り取られた断面である上、私の気づかない作意がどう働いているかも分からず、故に描かれた私は作品としてしか成り立たないということです。ここに集った4人は皆文学部で、最後に自伝の一つも書いて自分を残したいらしく、それが妙に私を苛立たせます。
夜9時ごろだっただろうか、仲居さんが教えてくれていたのですが、ベランダへ出てみると、満月が海面に月の道を描いていました。一人で暫くその幻想的な風景を眺めていると、それだけでもここへ来た甲斐はあったと納得できました。その後も時々あの月の道を思い出すということなのです。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月28日

初出荷

まさか東京市場へミカンを出荷することになるとは思ってもいませんでしたが、2月に入るや担当者からサンプルが欲しいと連絡があって送ると、何時から出せますかと問われ2月中旬からの予定だと答えると、出荷スケジュールが自動的に確定してしまいました。
初出荷は2月17日でした。青果高速のトラック便のため販売は2日後となりますが、どんな入りになるやら私ほどの市場経験をもつと、最低ラインを考えるだけであまり期待はしません。昔大阪本場の担当者に「お前は市場と言っても自分とこだけだろ、俺は全国何か所も北海道市場でさへ出したことがある、市場がどんなところかお前よりはるかによくわかっている。」と怒鳴ったことがありますが、地元、東京、大阪、愛媛、岡山、北海道等私ほど単独で市場を渡り歩いた生産者はあまり居ないだろうと思えるほどです。
東京市場でブドウの実績はあってもミカンの実績はゼロです。実績がゼロだとどんなに良いものを出しても、いきなり高値を付けてくれないのが市場の常です。特に個人出荷物はこの傾向が顕著です。私が注目してるのは単に買いたたかれるだけなのか、伸びしろを含ませた評価を出すのかです。
初出荷の販売市況が2日後にFAXで送られてきて、少し驚いたのは予想外の高値がついていたことです。調べてみると静岡三ヶ日と同じだから、青島系としてはトップレベルということになります。今年からブドウの出荷を再開すると伝えていたから、ブドウへのラブコールなのかこれ一回ではわかりません、
1週間後2回目の出荷時の市況も同じでした。そんなにあっさりトップレベルに仲間入りさせてくれるのは、合点がいかないところもありますが、嬉しいことは嬉しいです。
55年ほど前、ミカンを作るため、国の補助事業で山の斜面を開墾して40haの畑を作った親父等先人達、そこへ植え付けた苗木が成木になって本格的な収穫時に入るころには、ミカンは全国で生産過剰になって暴落して、そこから10年ももたず撤退を余儀なくされ、ミカンの木を切り倒すと奨励金を出すような農政で、先人たちがこの地で作ったミカン組合は数年で実質崩壊してしまいました。日の目を見ることが一切なかった先人達のミカンづくりの、その崩壊の末期に30年前私は就農しました。
私は初めからブドウ作り一本で30年を過ごしてきて、父の死後わずかのミカンを引き継いだ形ですが、最初気が乗らなくてお座なりでも、何年も続けると次第に本気になってくるという私特有のパターンです。従業員とか人を雇って大規模なブドウづくりは経営維持が困難で、夫婦二人だけでできる程度にブドウの規模を縮小したことで、多少はミカンに手を回せるという事情もあって、年々ミカンへの本気度が加速したようです。特にここ3〜4年、品質が目に見えて向上して、どこにもないようなレベルのミカンを作れるのではとの手ごたえを得ていました。
私の頭の片隅に全く日の目を見ることがなく終わった先人達があって、私が本気でミカンに取り組んでそれに全国レベルの光が少しでも当たれば、それは報われなかった先人達の苦労に意味のある光を当てることになるのではと考えると、おまけでそんなことが出来ればと意欲が増します。
日本のトップの市場でトップレベルの評価を受けることは、全国に認知される端緒であり、今回思いもかけずその端緒に着かせてもらって、一矢報えたかなという思いと、今植え付けている苗木が成木域に入る頃にはと、、、、、秘かに期すものがあります。
私は10年後にはブドウ作りは辞めているかも知れません。幅4m近い100m巻きのビニールは70〜80sはありそうで、それを持ち運び出来なくなった時がブドウを辞める時だときめています。いつまで生きていつまで働けるかそればかりは分かりませんが、父と同じ85歳まで働けるなら、最後はミカン作りで終わろうとの思いが固まりつつあります。無論自分事ではありますが、どこか先人達の思いに応えたい自分も、おまけ程度にはあるようです。
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2019年02月19日

続 30年を過ぎて

先日ミカンの出荷で地元の市場へ行くと、果実部の幹部連中に取り囲まれて、「明石さんお久し振り、元気でしたか。」から始まってわいわいがやがや。4年ほど前からミカンを出荷しているのだけれど、夕方ごろ行くから会わなかっただけで、部長、課長とは10年くらいは会っていないから久し振りなのは間違いないです。
「どうしてます?」と聞かれ、「うん、ブドウを半分くらいに規模縮小して、ブドウを止めたハウスにミカンを植えている。小原紅は15aのところに100本ほど植えて、半分は6〜7年生でやっと出荷できるレベルになってきた。普通温州も昨年50本植えて、今年も50本、来年は100本植えようと、、、」と明石先生の演説が始まると、皆ニヤニヤしながら結構楽しそうなのでつい調子に乗ってしまいました。帰り際部長が「明石さんが時々来て吠えてくれたら僕らも元気がでますよ。」と言われると、お笑いタレントなのかとがっくり。
夢や野望が潰えてもそれで全てが終わるわけでもなく、生きて在ることの副産物程度のことなのだろう。専業農家なのだからそれで食っていかないと死活問題になるのだけれど、だからといって、食っていくためだけに農業をしているのではない自分があります。
専業の果樹農家として30年を越えてくると、苗木を植え付けて育てることはそれもまた一つ一つの命と向き合うことで、私の生活は樹々と不可分変更不能となっているようです。雨が降ろうと雪だろうと台風だろうとどんな悪天候でも、一日一度は必ず園地を巡回します。寝床に入ると明日の作業を考え、目覚めると今日の仕事の段取りを反芻してから起き、私の日々は果樹を作るためにオートシステム化されてしまっているようです。雨とか悪天候で二日も仕事ができないと気が滅入ったりしますが、そんな時文章を刻むことに向き合えばと言われそうですが、余暇ですることは本分がしっかり確保されているからこそできることなのです。
30年を過ごしてみて、これほどまでに農業に適性があるとは自分でも予想外でしたが、土に根ざす農業は土に根ざすような生き方と重なり合ってあるようです。成功者となり得ませんでしたが、破局へ向かう一方と言えるほど困難な時代に農業に従事したことは、自分ではらしくて良いとどこか納得できるところがあります。終活を破棄していわば墓場から蘇生してきて、近頃、このまま終わってたまるかと、持ち前の反骨精神がむくむく頭をもたげてきています。時代と衝突して生きて、自己主張を貫くには、或いは農業が最適であったのかもと思ったりもしますが、死ぬまでまだ終わっていないのは確かです。
農業、漁業、林業はさながら絶滅危惧産業と化していますが、第一次産業が終われば国が形を失って崩壊するのは間違いないと思っています。経済は世界が連動しているだけに、どこかの国の事件が深刻な世界同時不況になったり、先が見通せないし不安定です。本当に強い国、少しでも確かな国とは、農業、漁業、林業の第一次産業の基盤整備ができていて、そこをベースに確保できている国だろうと思います。経済がこけた時に何もない国、そんな日本を想像してみる必要が切迫してあるのだと言いたいです。


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2019年02月11日

農業歴30年を過ぎて

私の農業歴は今年で何年になるのだろうとふと思うと、始まりは平成元年とほぼ同時だから分かりやすくて、農業に従事して専業農家として30年が過ぎたことになります。専業だから一個人一経営者ということもあって、30年間生産資材、機材の価格とか市場価格の変動をつぶさに見てきましたが、生産資材、機材の価格の上昇にはただ呆れるばかりです。20年以上続いたデフレスパイラルのなかでも、農業の生産資材は原油が値上がりするたびに値上げを繰り返し、30年前となら2〜3倍価格が上昇しているはずです。
デフレスパイラルの中で他の殆どの物価は据え置かれたままなのに、農業の生産資材(漁業、林業も多分同じだと思う)は何故毎年のよう値上げを繰り返すことができるのかと考えると、値上げに歯止めを掛けるものが何もないという実情です。個人である農家がいくら文句を言ったところで、気に食わなければ買わなければいいとメーカーに言われればそれまでです。農協がもし本当に農家のためにあるのなら唯一歯止めになれるのだけど、販売価格が高いほどに農協に落ちる金額が増えるのだから自ずとメーカーサイドになり、農家のために農協があるのではなく農協のために農家があるのが実情です。
少し前、小泉進次郎氏が自民党の農政部長をしている時、日本の農業の生産資材は韓国に比べて2〜3倍高いと発言して、私はこの人は本物かもと見直したのですが、物価がほぼ同じの韓国の2〜3倍高い生産資材というのはどうみたって異常です。例えば30年前20s1袋1000円以下だった肥料が今3000円前後です。これを10アールあたり7〜8袋使用するとその費用の回収が難しくなります。今全国の畑で土壌の栄養不良化が過激に進んでいるそうです。
生産コストの過激な上昇とは逆に、農産物の市場価格はこの30年まさにデフレスパイラルで下がり続けています。市場の仲買さんは生産コストは一顧だにせず売れるか売れないか商売の都合だけで価格を決めてきたからです。農家は安く買いたたいて殺しても次々現れるから大丈夫と平気で放言する仲買を何人も見てきたし、価格を決める市場の現場にはそんな雰囲気がいつもどこかにあったのを感じ続けていました。
生産コストの上昇と市場価格の低迷にじりじり追い詰められて、リーマンショックの前年の原油高ショックは衝撃でした。当時私は東京市場に出荷していてつぶさにそれをわが身で体験しましたが、高額なブランド農産物がばったり売れなくなりました。東京日本橋の百貨店本店筋でです。翌年リーマンショックが起きて不況風が吹き荒れると、あろうことか百貨店がやがてスーパーと青果物の安売り価格競争を始め、市場価格は更に急降下となり、何年もしないうちにブランド農産物の産地が全国のあちらこちらで崩壊し始めました。
品質の高いものを作ろうとすると手間もコストも増大しますが、市場で軒並みスーパー価格で扱われたのでは生産コスト割れとなって、経営が困難になるのは必至です。良い物を作ろうと一生懸命に努力するほどに貧しくなり成り立たなくなる、なんて馬鹿馬鹿しい時代に入ったんだと苦虫を噛むばかりです。
私の30年の農業歴は農業の崩壊最終局面と重なってあるようです。価格上昇を続ける生産資材、機材、下がり続ける市場価格でじわじわ追い詰められた挙句、原油高ショックとその翌年のリーマンショックによる不況風がとどめとなったようです。
今全国の青果市場が血眼になるほどに生産者は激減しているはずです。生産コストが販売価格より高くなれば経営が不可能になるのは自明で、結局農業農家は四方八方から食い潰されて終わるのだなというのが私の見方です。
生産者サイドで販売価格が決められない農業、漁業、林業の第一次産業は、多分同じ状況下にあるはずです。一昨年今国民民主党の党首である玉木雄一郎氏と話す機会があって、その時「突き詰めると非常に単純な結論に至りますよ。農業も製造業の一つと横並びに考えると、販売価格が生産コストをもとに生産者サイドで決められるよう構造改革がなされない限り、産業としての自立はあり得ないし、どこまで行っても食い物にされるだけですよ。」と私は言ったのですが、氏からコメントは返ってきませんでした。
市場が色めき立って生産者確保に走り回っても、生産コスト以上で販売価格を確約しない限り、農家を繋ぎとめることは無理です。先日東京市場の担当者が来た時、「最低でも今の市場価格の倍」と言ったのですが、スーパーとかの店頭価格が今の倍以上になった時、果たして売れるのかとなると多分売れないだろうとまで付け加えました。地元の小売業者さんから「安くても売れない時代に入った」との声が時々耳に入ります。「地方は安くても売れない時代に入り始めている」と言うと、「東京は下げればまだ売れますよ」と返ってきましたが、地方から始まっていずれ波及するのは時間の問題です。
本当に最大の問題は、日本の国内消費力がどこまで落ちるかです。私等団塊の世代からは年金だけでは生活が厳しく、大半が生活苦予備軍となります。また全国の就業者の40%余りが非正規雇用ということは、そこも生活苦予備軍ともいえ、合わせると国民総数の半分近くになりそうです。ここがベースになると内需で成長してきた日本経済が凋んでいくのは疑いのないことに想えます。
posted by 明石 at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月06日

8年ぶりに

昨年7月に愛知県の販売業者さんが8年ぶりに電話してきて、シンガポールから特上のブドウが欲しいと言ってきているのだけど、出せますかと問う。この業者さん、思えば8年前、名古屋在留の中国政府高官に私のピオーネを試食させたことがあって、その時こんな美味しいブドウ初めてですと感激するくらい気に入れられたそうで、輸送ルート販売ルートは確保するので来年から出してもらえませんか、というところまで話が進んだそうです。中国は日本の果物はリンゴと梨の2品目だけが輸入が認められていますが、表向きはそうであっても香港とか台湾とかの迂回ルートから、それ以外の品目でも多少は北京まで届いているらしい情報はありましたが、あからさまに中国政府高官に輸入規制を無視するようなことを言われると、国策って何なのだと馬鹿馬鹿しくなってきます。加えて、北京の中国政府の高官達は中国の農産物は安全性に問題があるから食べたがらない、とその高官が言ったそうですが、「よく言うよ、あんたら政治が悪いから、虐げられた農家農業に歪みが集中しているんだろ!」と怒りがこみあげてきます。
実はこの年の秋、中国政府が日本の果物の輸入規制を大幅に緩和して、2品目以外の輸入を認めようとの発言がありました。ブドウはその一番手とされていました。また中国最大手の一つである米業者が来日して、来年度日本の米を20万トン入れることを明言し、それを皮切りに米輸入拡大を本格化させるとの見通しを語っていました。中国が米とか果物日本の農産物を大きく門戸を開いて受け入れようとしている、その報道は末期的状況に喘いでいる私達農業者には救いの光のようでもありました。
例えば米で考えると、中国の必要量は1億5千万トン、日本の生産量は8百万トンで、中国の富裕層をほぼ1億人くらいとしてみて、安全で美味しい日本の米を食べる流れが加速すると、8百万トン程度あっと言う間だろうし、中国が日本の米に乗せてる関税を考えると、それが撤廃されるか近いところまで下げられると、日本国内の倍以上の価格も可能なのではとおもえてきます。蓋を開けてみるまで分からないということはありますが、中国の方針転換で日本の農業に希望の光が差した瞬間でした。
ところが翌年3月の東日本大震災、ことに福島の原発事故です。海外の空港に降り立った日本人があちこちの国々で放射能検査をされる映像を見ると、中国政府がコメントを出す必要がないくらい、日本の農産物が海外に出ることがなくなったのはあまりにも明白でした。私のブドウが中国に出ることが無くなったのも相手に聞く必要はありませんでした。農業に光が差したと喜んだ途端このどんでん返しは、以前にも増して闇を深めるばかりでした。その後今日に至るまでそんなことを言う人を見かけたことはありませんが、日本の農業が息を吹き返す絶好の機会が福島原発事故で潰えてしまったと、私はいまだにその無念さをどこか引きずっています。
昨年愛知の業者さんにシンガポールへブドウをと問い合わせられた時、8年の空白期間の後止まっていた時間が再び動き出す、再現フィルムでも見ているような感覚に見舞われました。
シンガポールは私が一番出したいところだから、言われるままにブドウのサンプルを二度送りました。相手はシンガポールでトップクラスの食品関係業者さんだそうで、日本のトップクラスのブドウを要望されたとのことですが、サンプルとして送ったピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの3品種ともに好評価だったようです。
ついては原産地証明書が必要だから取ってくれないかと業者さんが私に言う。生産者が取る証明なのか少し疑問だったのですが、商工会議所に行くと、原産地証明書は国内の輸出最終業者さんが取る書類ですよと言われ、業者さんに返しましたが、その後連絡がぷっつり途絶えました。おそらく原産地証明書を取る手続きとかが面倒で、そこまで本気でない業者さんが退いてしまったのだろうと、私の方も出荷に忙しい真っ最中であえて連絡はしませんでした。
海外は個人で直接だと言葉の壁を始めとして問題が多々あって、加えて私も全盛期の半分程度までに規模縮小していて、海外への意欲は最近は殆ど薄れてしまっているようです。
posted by 明石 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言