私が三島由紀夫氏著作の「金閣寺」を読んだのは二十歳前後の頃ですが、主人公の青年僧が金閣寺を前にして「美しいと思った。絶対に美しいと思った。」と述べた時、「嘘だ!」と私の内に鋭く叫び声が上がりました。今ではその叫び声以外「金閣寺」は全て忘れてしまい、その一行も正確にそう書かれていたのかどうかは分かりませんが、「金閣寺」を評論するわけでもないので再読して確認することはいたしません。
「嘘だ!」という叫びは、圧倒的な美に直面したとき人の感性はそのような反応を示すはずがない、というところからです。青年僧にとって金閣寺の美は感性に訴えるものではなく、美しくあらねばならぬ強いられた美、観念の所産であることを直感したということです。
私は三島文学の愛読者でもなく、「金閣寺」以外に「仮面の告白」は多分読んだと思う程度ですが、そんなことと関係なく、「金閣寺」のあの一行に三島由紀夫という作家の本質が出ていて、その眼で見れば三島文学の構造が浮き彫りにされてくるのだと思っています。
真に偉大な文学、芸術、哲学、思想は、感性を解放してくれるものであるはずだと、その思いは私の中で脈々と生き続けているようです。白は黒であるというようなヘーゲル観念論とか、快感原則のフロイトの夢理論とか、観念の世界は読者をその世界に閉じ込めようとします。比較が適当でないかもしれませんが、誰もが知っている芭蕉の句例えば「夏草や兵どもが夢のあと」は、読み手の数だけ無限に広がっていく世界です。
優れた作品は、作家の手を離れた瞬間からそれ自体ひとつの生命のような存在となり、作家の意図をはるかに超えて飛翔する。
読者が何を受け取るかは千差万別です。殊更に作家の意図に沿って読む必要もないのだと思います。その作品を読んで自分の琴線に触れる一行一文に出会えたなら、その幸運に感謝する、それでいいのだと思います。
ピオーネの着果状況