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2018年03月15日

黙する季節

6年前に親父殿が亡くなってから、毎年のように1月から3月の間に近しい者親しい者が亡くなり続けて、気が付いてみるとこの時期になると私の語り口は閉ざされがちになっています。喪に服すとか別にそんなことを思っているのではありませんが、命日頃には故人をなんとなく思い浮かべて、亡くなったからと言っても何も変わらず私の中では存在し続けているよ、と面影に語りかけていたりします。
親父殿や北村氏の死はブログに記していますが、北村氏の一年後の一昨年3月には姉が亡くなり、昨年1月には叔父が亡くなっています。不思議なのは死別ということにあまり感情が湧かず、私の中では変わらずに存在し続けていて、違いは生身の本人に対面することがなくなったということです。他者との関係が記憶の積み重ねの中ににあるのなら、死もそれほど決定的な意味を持たず、新たな記憶を生み出す未来が閉ざされただけのことになるのではと思えたりします。
私もそうでしたが、人の寿命から考えて平均的であると、60歳前後から親世代との別れが始まり、兄弟とか友人とかにまで及び始めてくると、死が自分にも身近に迫って来つつあるのを漸く悟ります。命は必ず終わりが来ると頭では理解していても、まさか本当に自分にそんなことが起こるとは思っていないのが常ですが、60を越えて毎年葬式ばかりに出席していたら感じ方が変わってきます。それがことに自分の近しい者親しい者であれば猶更です。
近しい者親しい者が亡くなり続けたここ5〜6年、彼らは私の中では変わらずに存在し続けています。死者は物理的には存在しなくても、関係が深いほどに人の心の中には存在し続けます。私は年齢的にはまだ始まったばかりかも知れませんが、高齢になるほどに他者との関係は死者の割合が増えてきて、例えば百歳の人の心の中に存在する人々は圧倒的に死者の割合が高いのではないかと思ったりします。
何時だったか、同級生とのお茶会の日、皆が来るのが遅れて、私は一人でぼんやり戸外の樹々を眺めていると、朝陽が眩しくて白日夢的に、皆がこの世にいなくなって自分が最後の一人になったと仮想してみると、ああ長生きはしたくないとの思いがこみ上げてきて、白日夢は終わりにさせました。
命はどこまでも生き続けようと欲するものかもしれませんが、あまりの長生きは心理的にきつそうです。私の親父殿は死の2月前まで畑仕事をしていました。いわば死ぬまで現役の生産者であり続けたという、羨ましい限りの理想的な終わり方で、私も同じような終わり方ができるようただ願うばかりです。
posted by 明石 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言
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