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2019年12月04日

私流 その源 

「私流」の源は「自分という一つの命を余すところなく生き尽くす」という処にあるのだけれど、言葉化して表現するのが難しくて、ひと月余り書こうとしては投げ出すことを繰り返していたのですが、どうやらここを棚上げして先送りしては不都合が生じるらしく、我慢して書き綴ってみます。
「自分という一つの命を余すところなく生き尽くす」は多分生涯を通じての私の基本的な生き方であるはずで、「命の完全燃焼」願ったり目指したりの展開に繋がっています。「一つの命」という見方をすれば、人も動植物も命あるものは全て個別で、代わりの無いかけがえのない個ということになります。それぞれ一つの命として生まれ、生まれた瞬間からその環境の中で精一杯生きようとする、命の尊さは人だけが特別であるはずがなく、等価と考えるべきではないかと思ったりします。動物達や植物が生きて在るからこそ人も生きられるという命の連鎖を思えば、人の命だけが尊いと思うのはとんでもない思い上がりです。
生きて在るからではなく、どんな劣悪な環境下でも精一杯生きようとするから、命は全て尊さを宿しているのだと思えます。それは多分根源的な本能であるはずで、全ての命は生まれたときにそれを刷り込まれているのだと思います。
人はよく生きる意味とか理由を見出そうとしますが、この命の根源的な本能に照らすと、それは本末転倒的におかしいです。何でそんなに生きている意味とか理由を得たいのか、意味とか理由のために生きるというなら、それを見失えば生きておれないことになるのか、何でそんな狭苦しく窮屈に生きたがるのだろうと思ってしまいます。
私は「自分という一つの命を余すところなく生き尽くす」ことを唯一の基本目標として、生きる意味とか理由を求めたりはしませんが、敢えて言えばそれらが結果的におまけ的に付随されることはあるかもしれないとは思っています。
「私流」ということに戻りますが、私は頭でっかちに生きることを極力避けて、「生身の燃焼」ということを標語的に念頭に置いて歩を進めてきた自分では思っています。何も持たず手ぶらで現実社会へ出て行って、体当たり的体験を重ねて世界を知り自分を知る「生身の燃焼」のベースは、私という感性であるはずだと思っています。必要最小限度以上に雑多な知識を持ち込みたくないのは、自分という感性を研ぎ澄ましていたいいたいからです。
「私流 ブドウ作り」も「私流 チヌ釣り」も、つまりは私の生き方そのものを体現していることになるようです。
posted by 明石 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言