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2019年03月28日

金沢の女

北村が関西大学だったので時々ふらり京都に来ることがあった。下宿の部屋に居ても面白くないので、どこかへ行かないかということになり、美人の多い北陸金沢に決めました。二人とも学生で所持金は乏しいのですが、往復の運賃と飯代くらいは何とかありそうで、後の展開はパチプロまがいの北村が金沢で稼げるかどうかです。
朝金沢に着いて、パチンコ屋をチェックしながらぶらぶら金沢城公園あたりまで来ると、ほどなく開店という時間になって、来る途中決めていたパチンコ屋へ北村は戻って行った。私は金沢城付近の芝公園で寝ると決めていました。春だったか秋だったか忘れましたが、暑くも寒くもない戸外が最適の季節だったのは間違いなく、穏やかによく晴れた日、木陰で芝生の上だと夕方まででも寝られそうです。
周りを見回しても芝公園に人の姿はなく、木陰で芝生の上に寝転んで思い切り手足を伸ばすと、あまりの気持ちよさに日ごろの鬱々した気分も消えていました。下宿では眠りさえ四方八方から脅迫されて神経衰弱気味なのですが、知らぬ土地で快適な環境に解放されて、心地よい眠りにすんなり落ちました。
久々の快眠でどれくらい時が経ったのか、何かの気配でふと目が覚めました。寝ている私のすぐ近く女の人が芝生に足を投げ出して座っている。眠りが深かったようで私も咄嗟の状況判断が出来ません。少し微笑んでいるような優し気な彼女の目に、「ここはどこ?」と聞くと、「芝公園よ。」と返ってきました。「違うよ!どこでもないわまだ、だよ。」と突然自分でも何を言い出すやらですが、「谷川俊太郎ね。」と彼女。「あんたは誰?」と言うと、「誰でもないわまだ。」と彼女。何か嬉し楽しくなってきて私は笑っている彼女に、「ここがどこかで、あんたが誰かになるためには、どうすればいいのだろう?」と言うと、「それはあなた次第よ。」と彼女。
こんなほんわか優しそうな美人が、何故わざわざ寝ている私のすぐ側に腰を下ろしたのか、それは今考えても不思議です。彼女は北國新聞社の社長秘書で、昼休みで芝公園に寛ぎに来たそうです。出会った一瞬で触れ合えるところがあるのを感じ取りながら、好みのタイプであるがゆえにその先に私は進めません。就職はしたくないし生活に夢も望みも未来志向が全くない人間に恋愛は不可能で、好みのタイプほどに関わるのを避けてしまいます。
芝公園の入口付近に北村が見えた。宿泊費を稼ぎに行った友達が帰ってきたと言うと、彼女は立ち上がって帰って行った。お互いに名前とかを教えることもなく、その場限りの出会いで終わらせたのですが、どこかに切なさが疼くような心残りはあります。そんな気持ちを処理するのにも慣れていますが、ふと思うのは、仮に神様が出会いを仕組んだとしても意志が無ければ何も生まれない、ということです。「あなた次第よ。」と彼女の言葉が胸に刺さっているのに気付いて、「痛っ!」と顔を顰めました。
posted by 明石 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月16日

知らぬ間に

私は10代後半頃から作家志望で、そのために読書とか勉強する時間が欲しくて大学へ行ったのですが、自分は作家志望でも文学少年少女とかはあまり好きではありませんでした。妙に老成して斜に構えている頭でっかちを見ると、それ自体中身のない虚構のようで、汗や涙や血を生身で流して自分を知ったらどうなのだと腹立たしくなりました。
大学は京都の立命館大学で、言うのが気恥ずかしくて言わなかったのですが、文学部英米文学科です。特に英米文学が好きだとかは一切ありませんが、どうせ勉強しないのはわかっているから、得意の屁理屈を捏ね回して単位が取れそうな文学部を選んだだけです。あの美人シンガー倉木麻衣ちゃんの落ちこぼれ大先輩でもあるのです。
50年前の学園紛争の真っただ中の学園生活は、今の時代からだと想像するのも困難なほどに隔たってしまっています。あちこち窓ガラスが割れ、学生運動の貼り紙だらけで散らかり放題の大学に初登校の日、私は下駄ばきジーパンで真っ赤なセーター真っ黒なサングラスとさながらチンピラ姿で、校舎ロビーでいきなり上級生と喧嘩となり、学園生活は騒々しくスタートしました。
同じゼミに富山県高岡市から来た大場という、まさにそのものという文学少年がいました。小柄で長い前髪が顔を隠していて、髪の間から時々メガネが覗いていました。嫌いなタイプなのでこちらから話しかけたりはしませんが、妙にいろんなとこで顔を合わすのには閉口しました。
私は最初の半年は毎日講義に出ていました。大学の教授とはどの程度なのか興味があったからです。特に専攻ゼミでは気が向けば積極的に発言したりすることもあって、チンピラ然とした最初の印象からは皆意外であったようです。
ある日確かエドガー・アラン・ポーに関する講義中、作品のモチーフとか作品論になった時、私は教授に襲い掛かってしまいました。「死を凝視する感情の透明さ」ということを私は言ったのですが、教授が理解不能で半ばパニックに陥っているようでもあり、蓋をしてその場を脱しようとした時、大場が「先生、真面目に授業してください!」と甲高く叫びました。「私は真面目ですよ。」と教授は狼狽えと怒りが半々といった風で、結局ムニャムニャ授業を終えました。大場が「明石が本気になるなら先生も本気になれよ!」とそう言いたかったのはよくわかっていました。そんな目で見ていたのかと、この時から私も大場に多少は態度を軟化させて、時々話したりもするようにもなりましたが、前期が終わって後期になると私はばったり講義には出なくなりました。
本来の目的通り下宿の部屋に籠って文学、哲学思想、歴史、心理学に至るまで、古今東西の著作を手あたり次第読み漁りました。一日500〜600ページは読んでいましたが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は一気読みみたいに、それでも何日かは続くので最後の頃は発熱して、読み終えると寝込んでしまいました。
大場が自殺したと聞かされたのは、一回生の終わり頃なのか二回生になってからなのかは忘れましたが、内臓をざっくり抉られるようなショックがありました。あのゼミ以後会えば短い言葉でも交わすようになって、同人誌だったか彼の文章を読んだりもしたのですが、中身のない小生意気なポーズだけで、私の嫌いな文学少年そのものでした。話している時見せる屈託のない笑顔が本来の大場であるのなら、自縄自縛のポーズを壊してやったほうが良かったのではとの思いも掠めたのですが、私も自分のこともままならず、そんな余裕も力もなっかたはずです。なんで大場が自殺したのか真相は闇の彼方ですが、コンプレックスがその一因にあったのではと、なぜだか強くそう思いました。
今考えてみても、あの笑顔であれば、他者とフランクに交われたはずで、良いおじさんになれてしっかり生きられたはずだと、そう思います。
出会いは一瞬の交錯であったかも知れませんが、50年経っても私は大場のことを覚えているし、或いは彼が望んでいたかもしれない、友人に知らぬ間になっていたのかもと思ったりします。
posted by 明石 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月10日

月の道

3年前大学時代の友人3人と淡路島の温泉ホテルに集って、ミニ同窓会を行った時の情景が時々頭に浮かんでくることがあります。大阪出身で今は和歌山県橋本市に住むY氏、京都のI氏、加古川のU氏、それに私の4人で、I氏はその前年にも我が家に来ていますが、Y氏とは20年は会っていないように思えるし、U氏とは学生の頃からだと40何年になるのか考えると面倒くさくなります。
その数年前からY氏が、元気なうちに一度皆に会っておきたいと、I氏を通じて言ってくるのですが、あいつどこか悪いのかと聞くとそんなことはないとのことで、あまり気が乗らない私は先送りし続けていました。都会育ちほどに大学時代の仲間を懐かしむのは何なのだろうと、高校や大学に懐かしさのカケラも持ち合わせていない私からは奇異に映ります。もっとも向こうからすると、私の薄情そうなところが不安要素であるようですが、田舎人特有の土着体質なのか、私は小学時代を一緒に過ごした仲間が比較にならないほど懐かしい。
業を煮やしたY氏が直接再三電話してくるようになって、私も観念してミニ同窓会が実現した次第です。
最初は南紀の温泉ということでY氏に任せていたのですが、いささか独特の趣味嗜好の持ち主で、I氏がそれを懸念して私に電話してきたので、それでは関西と四国の中間淡路島にして私が手配すると決めました。
10月のよく晴れた日の昼下がり、私は淡路島は初めてでしたが、予定通りに2時間足らずで到着しました。ホテルのロビーで寛いでいると、ほどなく全員集合というか、皆私より早く着いて近辺をうろついていたらしい。
Y氏はさすがに老けて、何をやらかすか得体の知れないようなオーラが消えて、なんとなく小さくなったなと感じてしまいました。小柄なU氏が学生時代そのままで殆ど変わっていないのには驚きました。
海を見渡せる眺めのいい部屋を用意しましたとのことで、10階だったかどうか忘れましたが、部屋に入ってみると眺めの良さは言葉以上で、気持ちが伸びやかになります。20年とか、40年ぶりとかそんな長い時間を経てでも同じ部屋に集えば、何の違和感もなく収まるのも不思議ですが、部屋の背景に伸びやかな眺望が開けていることも無関係ではないのだろうと思ってしまいます。
60半ばを過ぎると皆さすがに憑きものが落ちているというか、口角泡を飛ばして激論とか、そんなエネルギーは源で枯れてしまっています。Y氏が「生きた証を何か残したい。」と真顔で言うので、「お前子供がいるだろ、子供や孫がいるなら、それがお前が生きた証だろ!」と即座に返してしまったのですが、いかにも不機嫌な言い方で自分でもびっくりしました。私は時々他者が消えてしまうほど自己完結的であり過ぎるところがあって、他者の中に自分を刻み込むような欲求は見失いがちです。高校時代からの悪友K氏の葬儀の話をしたのですが、関係性の中で人は死んでも、その人を知る人が居て思い出されたり話題になったりする限り存在し続け、そういう人が一人も居なくなった時初めてこの世から消滅する、ということを。
「生きた証」とか死後何時までも名前を残したいとしても、歴史に名を刻むような大人物にならない限り、人は皆大差なく忘れられ消えていく存在なのだということです。野に咲く花は誰のために咲くのではなく、自分という一つの命を精一杯生きているから、変わらぬ一つの命の尊さを宿しているのです。
Y氏はスマホで私のブログを読み始めました。U氏が「悪友の死」のブログ読んだけど、あれからブログが更新されていない、もう書かないのかと聞く。分からないと答えると、特異な生き方をしているのだから小説を、自伝小説とか書いてほしいと言う。
自伝小説はどこまで本当の自分に迫って描いたとしても、どこまで行ってもフィクションでしかあり得ない。日本の近代小説が私小説云々は、読者も作者もここを混同して描かれた主人公と作者を同一視するから、作品という次元へ飛翔しないのだ。もし私が小説を書くなら、私は私のこと以外書けないから、その意味では自伝的と言えなくもないが、生身の総体を書ききることは不可能で、書かれた私は主題視点とかで切り取られた断面である上、私の気づかない作意がどう働いているかも分からず、故に描かれた私は作品としてしか成り立たないということです。ここに集った4人は皆文学部で、最後に自伝の一つも書いて自分を残したいらしく、それが妙に私を苛立たせます。
夜9時ごろだっただろうか、仲居さんが教えてくれていたのですが、ベランダへ出てみると、満月が海面に月の道を描いていました。一人で暫くその幻想的な風景を眺めていると、それだけでもここへ来た甲斐はあったと納得できました。その後も時々あの月の道を思い出すということなのです。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言