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2017年10月23日

暗欝な日々

卒業してから50年経っても、高校時代をことをあまり思いだしたくないのは、在学中私は高校を刑務所のように、自分はそこに繋がれた囚人のように感じ続けていたからです。いまだに高校に近づきたくないほどの嫌悪感が残っていて、残念ながら私には愛校心は殆どなさそうです。
県内3番手の進学校に入ったのですが、進学校だから毎月模擬試験があって、成績順位が出されます。私はトップクラスの成績で入学したそうですが、その4月から3カ月連続で150番前後成績順位を落とし続けて、そこがどん底なのか卒業するまでその位置をキープし続けました。学年の総数が600人だから、500番落ちれば底に着くはずです。
授業は聞かない、家庭学習はしないのは完璧と言えるほどで、劣等生を極め尽くした3年間でした。家庭学習日誌を提出する時、0時間とは書けないので1時間前後と嘘を書くのですが、それでよく進級できたなと担任に呆れられたのですが、後々考えてみても、よく卒業できたものだと自分でも思います。もともとの志望校、県内トップの進学校に行っていたら、まわりとの落差があまりに極端で、卒業できずに退学することになっていたではと思わずにはおれませんでした。
高校生になると反抗的な態度に暴力的なところも加わって、私が何をしようと授業の邪魔をしないなら放置すると、先生方もそう決めていたようです。態度の悪さは目立っていたはずで、補導部の主任先生がやってきて、「おまえは今のところは目立った悪さをしていないが、そのうち尻尾を捕まえて、必ず退学にしてやる。」と仰る。何もせずに1日を過ごすことは苦痛過ぎて、早退したり不登校だったり、市内をうろうろして補導員に追っかけまわされたりしましたが、いつも逃げ切ったので退学騒動までには至りませんでした。
私はいつも単独行動でグループ行動はあまりしません。落ちこぼれたり悪になったりするのは自分一人でいい、他者を巻き込みたくないと、その心構えだけははるか子供のころから身に付けていたようです。
高校1年生のある日、私は突然物語を書き始めました。幼少のころから私には夢想癖があって、反抗的になるほどに、救いを求めるように夢想世界に浸るのもありがちでした。夢物語の世界を突然文章表現し始めたのは、何もしない苦痛感から抜け出したかったからですが、最初はお試しの暇つぶしであったはずです。それがほそぼそでも続いて次第にのめり込み始めると、一つの思いが芽生え始めました。
私は依然として自分が何をやりたいのか、何になりたいのかを見出してはいませんでした。大人社会に目を向けると、やりたくない、なりたくないばかりで、自分の居場所が何処にもないのを知るばかりです。夢物語を書き続ける自分が、「ないのなら作ればいい、自分の世界を作るんだ。」と声をあげました。「自分の世界を作るために作家になる。」と繰り返すと、その思いは一つの芽となって私の内側に根付いて、それ以後育ち膨らんでゆきました。文学、哲学、思想書等古今東西の著作を読み漁るために進学したいと思うようになった時、私は多分初めて勉強したい自分と出会っていたのです。
posted by 明石 at 20:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月22日

何処へ

エリートにならないと決心してからは、離脱の日々が始まって、ただ遠くを眺めているような時間が増えたような気がします。授業は全く聞いていないし、それだけで辛うじて学力を保っていた、試験前の一夜漬け学習も以前よりなおざりになり、本音を言えばどうでもよくなってゆきました。
授業を受けるのが苦痛で、その度合いが日々膨れ上がっていたある日、1年生時の担任の数学の授業中、苦痛感が極度に高まって、額は汗ばんで体は小刻みに震えていました。必死で我慢していたのですが、もう駄目だとパンクした瞬間、筆箱を叩きつけて教室を駆けだしました。「爆弾教師」だから追いかけてくると思ったのですが、来ませんでした。考えてみると、あまりに唐突で訳の分からない出来事だったのかも知れません。ちなみに同窓会とかで同じクラスだった者に聞いてみても、この事件を記憶している者は誰も居ませんでした。
自分が何をしたいのかが皆目見えてこないので、手も足も出せず、ストレスばかりが増大して、精神とか神経に障害が出るようになり、発作も時々出て、情緒不安定とか集中力欠如とかの評価を受け続けました。
私が一番困ったのは笑えなくなったことです。笑おうとすると顔面の神経が硬直して、苦痛に歪んだような顔になるので、相手は驚いたような表情になり、それが度重なると対人恐怖症になりそうになる。負の連鎖的に次々いろいろな神経症に襲われたのですが、なんとか持ちこたえて中学を卒業するまでには自力で克服しました。
当然のことながら、成績はずるずると上級生になるほど下がり続けました。「お前はなんだ!皆が受験で一生懸命勉強しているのに、上の空で他ごとばかり。高校を受験する気があるのか!」3年生時の担任が苦々しく吐き捨てるように言う。私も嫌いなタイプなので無視して相手にしません。
これほど授業を受けるのが苦痛なのに高校へ行くのかと考えると、気持ちが萎えてきますが、大人社会に出て行くのは尚更嫌だから選択肢はなしです。
posted by 明石 at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月19日

刻みこまれた情景 13歳の春

中学2年生の13歳の春、私は「エリートコースは歩まない、エリートにはならない。」といやにはっきりと決心しました。まわりの大人たちとか世の中の価値観、例えば東大を出て大蔵省へ入るのがベストというようなエリート人生を思うと、そんなつまらない生き方はしたくないと強く思ったからです。この決意、決心は今も明確に私の内に深く刻まれています。というより、その後現在に至るまでここをベースに歩んだのだから、この思いを抱えて私は生きてきたと言っても過言ではありません。
私にとってそれほどの大事件ででありながら、心の内の問題であるだけに外からは一切見えず、何も無かったことになるのですが、この時から周りの同級生達に私は一切見えなくなるだろうとの思いもあって、心のどこかで秘かにさよならを告げていました。
1年生終了時に担任に言われたことが、自分の進路を考える引き金になったのは間違いありません。私は小学校の6年間は担任は女の先生ばかりで、中学生になってやっと男の担任になった安ど感もあって、担任に悪い印象は持っていませんでした。担任はびんた制裁も時々ある「爆弾」とあだ名された数学の教師で、当然私もびんたを食わされたことはありますが、親父の鉄拳制裁に比べると蚊程度でたいして気にもならず、私としてはまともに先生の授業は聞いていたはずです。中学は学年ごとにクラス編成があってクラスメートが変わり、担任が変わります。それ故なのかどうかは分かりませんが、1年生の終わりごろになって先生が皆の前で、「明石よ、まだ勉強する気にはならないか。お前は今回の試験でも主要5科目は素晴らしく、学年で2番だった。先生はお前が本気で勉強するとどこまで伸びるのか、それが見てみたい。」と懇願するように言われて、頭からがつんと勉強しろと言われれば猛然と反発するのですが、そんな風に言われると私でも少しは心に刺さりました。
私は中学生になっても授業はあまり聞かないし、家での学習も普段はまるでしませんが、試験になると主要5科目だけは前日に一夜漬け程度には勉強しました。他の4科目はまるでやらないから点数はせいぜい40〜50点で、9科目合計での順位は250人中10〜15位程度だったと記憶しています。成績とか順位とか殆ど気にしていなかったのは小学生の頃から変わらずで、その意味では向上心は全然とは言いませんがあまりなかったです。主要5科目ならトップ争いをしていたと先生に言われて、初めてそのことを知って、少し心に刺さった先生の言葉を反芻していました。
いくら想って見ても先生が見たがっているようなエリートになる自分は想像できず、もう既にまわりの大人とか社会への反抗心は目覚め過ぎていて、翻意の余地は殆どなかったようです。エリートコースを歩まない、エリートにはならない、と決心したのはわたしにとってはごく自然な成り行きだったと思っています。
posted by 明石 at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月17日

刻みこまれた情景 小学生の頃

自分が見る自分と他人が見る自分との違いはいつでもあるものですが、同窓会で何十年振りかの同級生に会うと、「明石は勉強ばかりしていた秀才だった。」とよく言われるのには愕然とします。自分の知る自分とは天地ほどの落差があって、それではまるで見られていないのと一緒で、一体何なのだと思ってしまいます。
私の記憶に今も鮮明に刻みこまれている自分は、勉強する暇がないくらい野山を駆け回って遊び呆けている自分です。平日でも放課後4〜5人は遊びに来ていたし、休日だと10人前後というのも珍しくなく、自分では遊びの天才だったのではと思っています。小学校5〜6年時の記憶は特に鮮明で、担任にとって厄介な生徒であったことは間違いありません。
授業はあまり聞かないし、宿題は殆どやらない、罰で立たされるのはクラス最下位の落ちこぼれ君と双璧で、例えば夏休みの宿題とか、まったくやらなくても1〜2時間立たされれば済むのだから、それなら当然罰を受ける方を選ぶという生徒でした。
授業を聞かないというのは元々と言うのもありますが、聞いていると同じ事を何度も先生が繰り返すのに苛立って、進むペースの遅さに我慢できなくなり爆発しそうになり、噛みつくような顔を先生に向けていたと思いますが、「あなた一人のために授業をしているのではない。進むのが遅くて我慢ができないのなら一人でどんどん先に行きなさい。」と怒られて、「あ そう。分かりました。二度と授業は聞きません。」と密かに応えていました。
母親が授業参観に来ると、先生は私が机の奥に押し込んでいる0点とかそれに近い答案用紙を引っ張り出して見せ、「授業を聞いていない時はこうなんですよ。」と私の素行を教える。テストの点数とか成績とか全く気にしていないから、気が向かないと答案用紙を白紙で出すというのも、この頃から始まったようです。
それでもトータルすると成績はクラスで3番手で、さすがに先生も納得がいかないのか、「皆さん、明石君に騙されてはいけません。明石君は勉強しないふりをして秘かにやっているのです。」とやられた時は私も頭に血が上って、この先生は許さないぞと誓っていました。
6年生の3学期、先生がひそひそ声で「中央委員会でのあなたの発言が建設的だと先生方の間で評判になっていて、校長先生も卒業時に特別表彰しようと言ってる。」と嬉しそうに私に聞かせました。話の途中から自分の顔から血の気が退いてゆくのがはっきり分かったし、聞き終わった時には私は完璧に破壊者に豹変していたはずです。次の委員会から凄まじく破壊者一辺倒で、手当たりしだい壊しまくって、そして小学校を卒業しました。
posted by 明石 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月15日

老いた子供

2年余りブログの更新はしませんでしたが、この間も月1回定例のお茶会とか年に数度の飲み会とか、同級生と付き合いは変わりなく続いていて、お茶会などここまで長く続くとは予想していなかったので、メンバーそれぞれが相当くたびれるかなり大詰めまで続くのではと、改めて考えると驚きも混じってきます。
70という歳が近くなってきた同級生の集いで不思議なのは、共に過ごした小中学生時代を起点にして、そこから老いた現在のお互いを見ているのか、現在から共に過ごした子供時代を手繰り寄せているのか、両方が入り混じって判別しづらいということです。どちらの割合が大きいのかあえて判定すれば、多分子供時代から現在を見ている方だと思えるのは、私だけなのかどうかそのうち皆に聞いて見るつもりです。
いずれにしろ私が思うのは、同級生の集いとかで顕著ですが、人の記憶に10歳前後の頃が何時までもまざまざ鮮明に在り続けるのは、この歳になってみると驚くほどです。私自身振り返っても、30代から50代の記憶の残像は薄く、20代前半までが圧倒的に鮮明であるようです。
何故なのかひとつ言えるのは、人それぞれ感受性が鋭敏で豊かであるのはおそらく10歳前後を頂点に若い時ほどで、大人になって社会化されるほどに感受性は鈍化しているのだと考えます。
個人が社会に組み込まれていくほどに感受性を失っていくとすれば、人間の成長ってなんだろうとふと思ってしまいます。
この歳になってもその頃の同級生が集えば、いともたやすく子供心に帰り着くのであれば、年齢を重ねるほどに外側は劣化して老いても、浸食され尽くさないかぎり、内側コア部分には子供心が刻まれていて、老人とは老人の衣装を着た子供なんだ、と考えると少し楽しくなってきます、「俺たちは子供だ!俺たちは自由だ!これからはやりたいことをやるんだ!」と。
posted by 明石 at 16:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2017年10月10日

やっと来たその日

愚図ついた天気が続いて久々に晴れた日の朝、10時になったので倉庫に降りて栗の実を取りだしていると、うちの奥さんの車が上がってきました。後ろのドアが開いて「おじちゃーん!」アカリちゃんです。「アカリちゃん、おはよう。」笑いながら言うと、なんだか照れくさそうにもじもじしています。一か月余りのご無沙汰が正直に反映しているようです。
早すぎず遅すぎずという絶妙のタイミングで、ヒサヨちゃんとうちの奥さんがこの日を決めたのですが、別れ際の言葉を本音と受け取っていいのかどうか、お互いに手探り的なところもあったようです。そんな心配は取り越し苦労で、お互いに本音だったからすんなり実現したのだと思います。
「すごく楽しみにしていました。」とヒサヨちゃんが何度も言いましたが、それは私等も同じで、来る日が決まったその時からカウントダウンの日々を指折り数えていました。
ヒサヨチャン一家が私の近所のアパートに居たのは、昨年3月から今年の8月までの1年半で、それはヒサヨちゃんにとって過酷といえるほどに厳しい1年半になったのではと思っています。あちこちの休耕地や放棄地を借りて、総面積5町(5ヘクタール)でにんにくを栽培するためにやってきたと言うので、7〜8人の作業員でやるのかと思えば、3人でやるのだと言う。3人で5町の栽培は不可能で、5反の間違いでは問い直すと、間違いなく5町だと言う。その無茶無謀さに呆れ返ったのですが、50代の社長をはじめ全員農業未経験で、盲蛇に怖じずとはまさにこのことだなと溜息が出ました。
今年の1月、実は旦那が昨年10月に出て行ったのだとヒサヨちゃんから聞かされた時は、私はその場に凍って固まりました。どんな事情があるにせよ、1歳と3歳の幼子を抱えた妻を残して出て行くなど、もうそれだけで男として人として失格だと、やがてめらめら怒りが燃え上がって来て、この時から私と妻はヒサヨちゃん一家に気持ち的に本気で肩入れするようになり、通常のご近所さんラインは越えてしまったようです。
今年8月でヒサヨちゃんは会社を辞めましたが、これがまた酷い話で、胸糞悪いので要約しますが、社長がとんでもないペテン師であることが発覚したということです。今年は猛暑日がうんざりするほど続いて私でもへとへと気味でしたが、ヒサヨちゃんに聞くと草刈りをするのだと言う。馬鹿な、こんな猛暑の中で毎日8時間以上も草刈りなどしたら死ぬぞと警告をしても、ヒサヨちゃんに仕事を指示するのは社長だからどうにもならず、私ほどにヒサヨちゃんも社長もその危険性を認識していない故に、素人の馬鹿社長に殺されてしまうぞと心配で心配で、怒鳴りこんでやろうかと発作が起きそうになるほどでした。「私、そんなに弱くない。大丈夫だから。」と猛暑の中で毎日草を刈り続けるヒサヨちゃんに驚きました、「なんて凄い娘なんだと!」
1年余り子育てに仕事に一生懸命なヒサヨちゃんを見てて、なんでそんなに頑張れるのか心打たれるほどで、体力も精神力もこんな凄い娘もいるのだと自分の認識を改めさせられました。
私等にはヒサヨちゃんは前向きな顔しか見せませんでしたが、旦那さんのこととか長年信じてきたお寺さん社長のこととか、本当は深く傷ついていたのだろうと思っています。どれほど深く傷ついてもアカリちゃんやダイゴちゃんの世話は泣く暇もないくらい待ったなしで、それが逆にヒサヨちゃんを救った面もあるのだろうと思います。子供が居なかったら一人で持ちこたえられたのかどうかそれは分かりませんが、子供を守ることで逆に子供に守られていることもあるのだろうと思えます。
私には子供も居ないし後継者もいません。私と妻、私等が終われば園地は廃園、家は廃家となります。市場関係者とかお客さんとか行政など関係各方面から後継者をなんとかと言われ続けてきましたが、どれほどレベルの高いぶどうを作っても食べていくのが精いっぱいというのでは後継者を作ろうという気にはなりませんでした。
それが猛暑の中で草刈りをするヒサヨちゃんを見てて初めて気が変わりました。1週間余り考え尽くして、ヒサヨちゃんに伝えたのは、「農業で自立したいと言うのがにんにくでなくぶどうでもいいのなら、うちでぶどうを作るという手もあるよ。私には子供も後継者も居ないし、私が終われば廃園になるだけだから、ヒサヨちゃんがやるのであればいずれヒサヨちゃんに全部あげるよ、農地も家も。ただ養子縁組して法定相続人になってもらわないと、私には甥や姪がいるので、贈与では立場が弱いから。」ということです。
その時はヒサヨちゃんはにんにくに一生懸命であまりピンとこなかったようですが、この件に関しては私の方は全く同じ変わっていません。ヒサヨちゃんのお父さんにも引き上げる際にはっきりそう伝えています。
ただ決めるのはヒサヨちゃんです。そんなに慌てて決める必要もありませんが、技術の伝承というか、1人前のブドウ作りに育てるために、3〜5年の期間が必要ということもあり、私がくたびれてしまってからではきつくなるということと、現在どんどん規模を縮小しているのをどうするかということもありますが、今の私の体力、能力ならまだ暫くは両睨みでもいけそうです。今回園地でヒサヨちゃんに言ったのは、やれるかどうかではなく、やる気になるかどうかだということ。私の密かな想いは、もしやるのであれば、5年で日本のトップクラスのブドウ作りに育てる自信はあるし、本人がどう思おうと、ヒサヨちゃんはそれだけの人材だと私は勝手に惚れ込んでいます。
私の現状に問題なのは販売面です。商売の資質が乏しいこともありますが、それ以上に職人としてのプライドとか整合性を求めすぎる性格が、販路を細くしているのはよく分かっています。ここをどうするかが経営上の最大の問題点であり、打開策が無い訳ではありませんが、自分の生き方にかかわることなので簡単ではありません。が、自分だけの問題で済まなくなれば、突破することになるのだろうとおもいます。
今回やっとヒサヨちゃんと一緒にカラオケに行けました。ヒサヨちゃんは20代の頃は演歌歌手を目指していたそうで、その歌を聴いてみたかったのですが、こちらに居る時のあの忙しさでは到底無理でした。ここ3〜4年あまり歌っていないそうで、それでは思うように声が出ないだろうと思っていたのですが、迫力のある綺麗な声に驚きました。高い声が出るかどうかと言っていましたが、よく響く個性豊かな声で、キーンと金属音が入ってくる高温はボイストレーニングでどんどん高くなりそうです。プロを目指していたのはもっともだと、私も奥さんも全く納得しました。ほぼ40年前、会社の慰安旅行で宮崎に行った時、スナックのお姉さんの歌声にしびれたことを思い出しました。プロを上回る個性豊かな歌い手に出会うと、プロって何なのだろうと思ってしまいます。
posted by 明石 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言