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2014年12月27日

岩手県一関産のサンフジ

岩手県江刺のリンゴが日本で一番美味しいリンゴと市場では評価されているそうですが、それより美味しいリンゴが同じ岩手県内にあると、私のブドウを15年も前から販売してくれている業者さんから聞かされて、是非一度は食べてみたいと無理を言って先日送ってもらいました。
岩手県一関産のサンフジで、光センサーを通過した糖度14度以上であるとのこと。箱を開けるとやや小玉のリンゴが20個入っていて、その1個を真っ二つにすると、果肉の半分ほどには蜜が広がっていました。食べるとやはり甘いし(奥さんは甘すぎるとか)、それほどの甘さを乗せながら果肉は歯ごたえ十分にしっかりしていて、期待以上というか、出会わないだけでこういうリンゴがやっぱりあるんだと嬉しくなりました。
本物の味というか、本当に美味しいものと出会うと感動したり嬉しくなったりして、それが物作りとして私には励みとなります。だから値段とか関係なく年に一度でもいいから、食べるのなら極上の物を食べて、自分の物作りの糧にしたいと欲します。実際年に一度はイチゴとか桃とかキウイなど、市販されていないようなレベルの物を求めて、一番良い時季に県内の生産者から直接買ったりもします。
そのうち桃は姉が買って来てくれるのですが、同じ生産者の清水白桃をおそらくもう20年近く食べ続けています。その桃の生産者も私のブドウを必ず毎年食べるそうで、どちらが先だったのか笑い話にもなりましたが、お互いがファンで励みとなっているのは間違いありません。それほど長い年月に渡っているのに、直接会って話したことは一度もありませんが、作った物を通しての会話はあたかも成立しているかのようです。
果物といえども物には作り手の心が宿ります。特上の一品にはそれを作るのにどれほど苦労したのか、作り手の心、魂が色濃く籠っています。その心、魂に触れることが、わたしの活力の源となることは確かです。
posted by 明石 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年12月20日

35年目にして

釣りを始めて35年目にして、今年は釣行歴の途切れる年となりそうですが、実のところは10年ほど前から釣りへの意欲は薄れてくる一方で、ブドウから少し離れるために釣りを利用していたようなものです。一作に集中するあまり、次の新たな一作に移るにはリフレッシュする必要があって、ここを上手くやらないと疲労感を持ち越してスタミナ切れの恐れがあるからです。
親父殿の死後状況が一変して、ブドウ一事に専念すればいいという訳に行かなくなったということもあり、ブドウ以外にも手を伸ばそうという選択をしたのだから、尚更忙しくなったということもあります。
結果的に言えば、ブドウが終わるのを待ちかねてブドウ以外の事々にあたれば、別に釣りに行かなくてもブドウから離れて気分転換になっているようです。
ブドウとミカン以外は販売目的ではありませんが、果物ではリンゴ、栗、さくらんぼ等、花木では桃、桜、椿、さざんか、つつじ等々、親父殿の趣味道楽の遺産に少しずつでも手を加えれば、いずれ趣味と遊びの園芸も形を整えるだろうと思いながら、結構楽しみながら手入れしています。私は植物と向き合ってのモノ作りが自分で思う以上に性に合っているようです。
昨年病気になって手術を受けた前後の経緯から、心境がまた変化してきているようで、モノ作りで在り続けモノ作りとして終わりたい、その一点に自分が収束してきているのを覚えます。釣りに行けば疲れが3日も残ることもあり、そんな類いのことを避けて少しでも体力を温存したいと思うようになってきているのも、かつての釣リキチの自分からは想像できないことであるはずです。
自分の中に様々な自分があって、時が来ればどれかの自分が熟して、それまでの自分と交代するというような時は確かにあるようです。その静かな声に耳を傾けて歩が定まってくるのが自然体ということであるのだろうと思っています。
posted by 明石 at 14:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年12月13日

最後の当主

一昨年親父殿が亡くなって昨年相続も済ませて私が当主となったのですが、明石家最後の当主として、そろそろ家を畳む準備をしなければという思いが次第に強くなってきています。
私は自分が何代目の当主であるのか分かりませんが、私の後は居ないということから、私が最後であるのははっきりしています。我が家の墓地にはご先祖様の墓石が100個以上あり、断じて名家ではありませんが、江戸時代から数百年続いた家系であるのは間違いありません。どこかのお寺さんに我が家の家系図が保存されている話を何度か聞きましたが、純然たる日本人であることは間違いないようなので、それ以上に我が家のルーツを辿るような興味はありません。
何百年も続いた家を終わらせることがどういうことなのか、その意味はおそらく私には理解できないだろうとは思っていますが、私があの世に行けば歴代の当主様達が居並んで、怒りの火責めにでもしてくれんわと待ち構えているだろうな、とは思ったりもします。あるいは私は種の保存本能が先天的に乏しい欠陥品であるのかもと疑うこともありますが、居ない者は居ないのだから仕様がないと開き直ります。家系図という見地に絞れば、私は家を終わらせるために生まれてきた最後の跡継ぎであるのだろうと思います。付け加えるなら、家督制度が旧民法となって以来、現在では家族親族関係も随分様変わりして、墓の維持さえ困難になるほど家系も希薄になってきていて、私の例もどこにでもあることのようです。
だが見方を変えると、現在生きている人は総て、何千年か何万年か延々と繋がれて、その上に生まれてきているということは、一つの生命ひとりの人間に膨大な数のご先祖様が繋がっているということで、この視点を持つと端緒には自分という存在への見方が違ってくるのだろうと、そう思います。
posted by 明石 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年12月06日

手ごたえ

雨が降ろうと、風が吹こうと、雪が降ろうと、私が畑の園地に行かない日は滅多にありません。盆も正月も休むということはないし、実働日数は多分年間350日に達するだろうと思いますが、これはそれほどに私が勤勉であるということではなく、1日の生活のリズムが日中は園地で過ごすように組み込まれてオート化されきっているというだけのことです。たまに用事があってこのリズムのスイッチをオフにしなければならない日もありますが、どこか不承不承の抵抗感を伴っているのを覚えたりします。
私はいまだ自分の部屋で1日を過ごすということは辛抱ができません。動きが止まると気が滅入って来て、多分3日も部屋に居続けると鬱病になりそうだと感じたりします。
いったい何時になったら自分の部屋に帰ってくるのだろう、と呟く声を40年間も折々聞き続けてきたような気もしますが、ここまで来ると時の彼方の幻聴のようにやり過ごしたりもします。
田や畑の園地は私にとって単に仕事の場としてあるのではありません。趣味や遊びもその中にあって、日々の生活の場そのものです。農家に生まれた幸運はありますが、全身全霊を賭けて自分を燃焼させる場として、物つくりの農業は最適であったと喜んでいます。
農業の厳しさ困難さも随分ブログに書き続けてきましたが、私自身はこのまま農業人として生涯を終えるだろうことは間違いありません。
現在金峰みかんの収穫中ですが、親父殿から引き継いで2年目、間伐をしたり木の形をすっかり変えるほど大胆に剪定をしたり再生に取り組んできた結果、ここ20年来お目にかかれなかった程の品質の良いみかんに様変わりし始めているのが、ともかく嬉しくて、儲かるかどうかは関係なく、更に良いみかんを目指そうと本気度を増しています。普通温州の金峰みかん以外に、ブドウを止めたハウスに小原紅みかんを既に10aほど植え付けています。生育状況からして多分3年後辺りからは収穫が始まりそうですが、こちらの方も美味しい特上品を目指して虎視眈眈というところです。
私はやはり美味しさとか品質にこだわり続けて農業人生を全うしたいし、日本の農業も品質を捨てたら生き残る道はないと思っています。どうにか食って行けたら、後は職人魂の意地を押し通すだけです。厳しさは今後とも増す一方かもしれませんが、私の作った物を食する人の喜びに弾けた表情を見れれば、それが掛け値のない一つの答えであるのは間違いありません。
posted by 明石 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言