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2014年11月29日

やっとミカンの収穫期

12月になると「金峰みかん」の収穫となりますが、天気予報は雨と曇りばかりですんなり収穫とは行きそうにもなく嫌な気配です。防止柵で囲った園地はその後1ヶ月間イノシシの侵入を完全に防いでいますが、目下数百羽(200前後)のカラスギャング共とのバトルの真っ最中で、みかんの園地に張り付け状態となっています。音だけが本物そっくりのおもちゃのピストルを鳴らすとカラス共は慌てて飛び去るのですが、2時間銃音がしないとまた園地に近づいてきて、カラスと私の根比べとなっています。いくらなんでもこんな数のカラス共に襲われたら、15a程度のみかんはひとたまりもありません。いいかげんくたびれて早く収穫しようかとも思わなくもなかったのですが、少しでも味を乗せるためにと11月いっぱい我慢し続けました。
中山間地の農業はここ10年くらいで、増え続ける獣害等で、環境そのものが困難さを増すばかりとなっています。設備投資をするにも販売収入でそれを回収することができないから手を打てず、獣害による耕作放棄は山間部に入るほど全国的に深刻なはずです。
私の園地も国の補助事業で50年ほど前開墾された、全畑面積40haみかん作地域でしたが、30名前後居た組合員で現在残っているのはその子世代5名だけで、全面積の8割は放棄地で荒れ放題となっています。みかんとなると多少なりとも残しているのは3名だけで、イノシシやカラスの食害はそこへ集中するため根こそぎ的となります。山間地域で単独で農業を続けようとしても、これほど鳥獣共が増えてくると、単独で集中攻撃を受けるので困難を極めます。
山間地域から耕作放棄が始まって、それに伴い獣共も平野部の市街地へ移動しているというのが、全国の現状なのだろうと思います。005.JPG
posted by 明石 at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年11月22日

ロックサウンドが流れて

グラハム ナッシュだか時折頭の中にロックサウンドが流れてきます。
眼前の風景は古いフィルムが擦り切れるようにモザイクに覆われて、こちら側に開けるのは海原で、サウンドは海原を渡ります。
人気のない海辺、学校に行きたくなくて終日海辺に寝転んで過ごしたあの気が遠くなるほど長い時間、海で繋がってそんな少年時代を垣間見ます。
何もない方が良い風景の中では自分という存在にも違和感を覚えて、風景の中に溶け込んで完璧な消滅を願ったりもしますが、地を這う虫のように私は私の中に閉じ込められて在り続けます。
陽光に光る海がまぶしく、目を閉じると単調な波の音が果てしなく続く。
多分このサウンドは私が居なくなった後、少しボリュームを上げて流れ、the end と片隅に印字されて映像は終わるのだろう。
posted by 明石 at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年11月15日

普通温州 青島系「金峰」みかん

写真は「金峰」みかんですが、今年は秋めくのが早かったせいか、例年より20日程度は早く色づいてきています。何だってこんなに早くからイノシシに食われるのか、試しに糖度を測ってみると、10月下旬で11度もあり酸抜けも進んでいてほぼ食べられる状態になっているのには唖然とします。
「青島」「金峰」など普通温州は12月に収穫して土壁倉庫で貯蔵して3月に出荷するのを常としてきたのですが、今年は酸抜けが早すぎてそこまでは持たないだろうと予想しています。持たないのなら今までに例のない平均糖度14度に仕上がらないかという密かな期待もあります。
普通温州は収穫後1月ほどして皮が萎び始めてからが味の本領が出ます。「金峰」も今年は熟れるのが早くどこまで貯蔵できるかわかりませんが、3L級の大玉でも13度程度の糖度は乗せ酸味が残っている間はその分味が濃厚で、極早生、早生みかんほど水っぽくなく、同じ量食べたとしてもはるかにお腹の水膨れ感は少ないようです。採算を無視しても残すことに決めたのは、その美味しさを味わえなくなるのが私自身が承服できないからです。
みかんの園地まわりにイノシシ防止柵がとりあえず完成しています。これでどこまでイノシシを防げるかかですが、今のところイノシシ小僧の侵入もほぼ止まっています。あとカラス対策も必要ですが、そこまでは手が回らないので今年はこれで様子見です。
11月も半ばになってふと思うのは、今年はキノコ採りも釣りも行こうという気にもならないということです。ブドウから解放されてじりじりするほど待っていたブドウ以外の事ごとに目下全開モードです。これほど仕事人になるとは自分でも想像もしていませんでしたが、植物相手の物作りは趣味も遊びもその中にあって、仕事というより生活そのものであるのだろうと実感しています。005.JPG004.JPG
posted by 明石 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年11月08日

試論

人口減少に伴い全国1800市区町村の約半分が2040年頃までに消滅するという地方消滅論が物議を醸していますが、そのことの正否は別として、農林水産業の衰退と共に地方から国の崩壊が始まっているのは確かで、リーマンショック前年の原油高不況辺りからの急加速には凄まじささへ覚えます。食っていけない農林漁業は消滅するのだろうと思っていますが、企業だけのいわば経済オンリーの国を想うと寒気がします。
経済は世界が連動しているだけに不安定不確定要因が多く、何時何が起こるか針のむしろで世界の動向を注視し続けねばなりません。確かさと安定にはほど遠いのが常態だということです。日本が経済力がある間はいいとして、そうでなくなった時、この国はどうなるのだろうと考えるとぞっとします。国の基本的な在り方を問うことなく経済一辺倒でひた走ったつけはその時一気にきます。
私は農林漁業の第一次産業は国の基盤であり、そこを確保できなければ国は崩壊すると思っていますが、この国の政治家や官僚、経済界は長きに渡っていまだにそんな考えは持ち合わせてはいないようです。経済がこけた時どうやって国民が食ってゆくのか、ぜひとも教えてもらいたいものです。
資本主義市場経済は勝者に富を独占させる弱肉強食社会であるが故に、資本力のある富める者がますます富み貧しき者は更に貧しくなる、貧富の格差拡大社会であることは既に端的に世界で露見している通りです。行き着く末の悲惨さが見えているのに新自由主義とか、更にこれを推し進めようというのは狂気としか思えず、自由主義の内実は独占欲支配欲以外の何物でもないのだろうと思ってしまいます。
私は経済活動にも「共存共生」といった本来経済の性格とは相容れないモラルか精神を組み込まないと行く末は悲惨だと、尚一層強く思うようになってきていますが、多分これは国際法として理念を明確にする必要があるのだと考えます。「共存共生」の理念は国と国、人と人は言うに及ばず、地上の全ての動植物とも、地球全体を包み込むまで広がるものであるはずです。「共存共生」の理念を掲げる国際法を順守すべく世界の各国が努めるなら、新たな時代新たな社会に向けて方向転換する可能性は開けてくると想います。
共産主義国家の崩壊により平等な社会は夢のまた夢で終わり、自由主義の自由な社会も国別個人別でも悲惨な結末しか見えてこないようです。
思想に拠らず宗教にも拠らずとしたら、人としてモラルを高めるところにしか行く道はないようです。人として豊かに幸せに生きたいということに尽きるのではないかと思います。
posted by 明石 at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年11月01日

知の巨人 宇沢弘文

私は経済学者とか経済評論家とかの類はあまり好きではないのですが、先日NHKクローズアップ現代で取り上げられた「知の巨人 宇沢弘文」は、こんな経済学者も居たのかと実に興味深かったです。経済は人を幸せにするものでなければならないという経済学は、30分間の番組でそのアウトラインに少し触れただけとはいえ、哲学の上に築かれた経済学で、手法論ばかりを論じる他の経済論者とは全く異質ものでした。
金が支配する社会では、人は生活するためには否応なく金儲けのために働かねばなりませんが、ここが端緒で生きるために必要な金を稼ぐというのであるならば、金を稼ぐために生きるのではないと決して本末転倒にはならないはずです。つまり、働くということは自分の生活を確保し、できれば多少でも豊かになり、結果幸せになりたいためであるということには、異論はあまり生じないように思えます。
この端緒から見れば、人を幸せにする宇沢氏の経済学は、その根っこの部分で共鳴するはずのものであるだろうと思いますが、現実はあまりにかけ離れた経済最優先で企業の論理に覆われた社会であるが故に、その落差の分宇沢経済学に違和感が生じるのだろうと思います。
経済というものはそれ自体に貪欲な性格を内包するものだと見ていますが、現代社会はどちらを向いてもこの経済の性格ばかりがむき出しで、生き残るという大義名文掲げた企業の勝手気儘な生態にに封じ込められて、人の姿は地下に閉じ込められたように見えにくくなっています。これでは人のための経済ではなく、経済のための人と逆転現象社会です。
前記ブログの続きともなりますが、戦後の貧しさの中で育った団塊世代の一人として、自分の幼少年期に比べて現在の社会のほうが良くなったかと自問すれば、貧しくてもあの頃の方が良かったと即答してしまいます。物は溢れ生活スタイルは比較にならないほど便利にはなっているのだけれど、それで豊かになったのか幸せになったのかと問い返せば、どうもそうではないと思い続けている自分が居るようです。今ではなくバブルの絶頂期との比較がより分かりやすいのですが、物が溢れ持つほどに心貧しき社会になってゆく様を見てくると、醤油や味噌の貸し借りまで隣近所と日常的に行っていた戦後の貧しき社会のほうが、貧しいが故に助けあい分かち合うような気持が自然と育まれて、自分のところの台所が隣近所に筒抜けという鬱陶しさはあったにせよ、今に比べればはるかに心豊かな社会であったような気がします。貧しさも周りが同じように貧しければたいして苦にもならず、盆とか正月とかとかのたまのご馳走が子供心にわくわくするほど嬉しかったし、美味しかったものです。今ならそんな料理は日常的で珍しくも嬉しくもありませんが、たまのご馳走を喜べたその頃のほうが物を大切にし感謝する気持ちが養われる、些細なことで幸せになれる時代であったのは間違いありません。
バブル期を過ぎたあたりから私が思い続けているのは、物が溢れた社会より、例えば必要度が10として調達度が8〜9程度の、多少貧しい社会の方が良いのではないかということです。1程度の不足は知恵を絞って創意工夫でなんとかカバーしようと人の能力を高めるだろうし、2不足すれば助け合い精神が必要になるはずだからです。
あまりに貧しいのは争いが絶えず困りますが、多少貧しくとも心豊かな社会が良いと国民の大多数が望んでその覚悟が持てるのなら、この国は変われるのだろうとは思います。
私が思う豊かさとは我執を離れて他を思いやる心の豊かさであり、他との関係性の豊かさが自分に還元されることで人は幸せになれるのでなないかということです。
posted by 明石 at 19:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言