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2014年05月30日

ブドウ以外

サクランボが色づいて熟れてきています。
今年は花が咲かないのか思うくらい開花が遅れたのですが、仕上がりは例年よりやや早く、「何で?」と目をぱちぱちしています。ここのところ気温が急上昇してきているのと雨が適当に降っているからだとしても、生育サイクルがこれほど急ピッチになるのは合点がゆきません。
ぶつくさ思いながらよく色づいているのを3粒ほど食べてみると、もう十分に美味しく、着色が始まった一週間前とは全く別味。サクランボは親父殿の領域だったので糖度を測ったことはありませんが、3本の木から2粒ずつ糖度を測ってみると、19度から22度で平均でも20度はあります。糖度計の0調が狂っているのかと確認してみましたが、やはり間違いはなさそうです。
こんなに凄い糖度のサクランボだったのかと、また目をぱちぱちしながら今更ながら驚いています。サクランボでもリンゴでも本場の東北を上回る美味しいものができることは確信していますが、このサクランボの糖度がそれを実証しているようです。
このサクランボの木が何年生なのかは、親父殿が何時植え付けたのかは思い起こせませんが、古い木ほど葉が少なく枯れ枝も目立ち、このままだと3年以内には終わってしまいそうです。完全無農薬で放っておくと、様々な害虫が木を食い荒らすため寿命が短く、成木になる前に終わってしまう木も珍しくありません。今年落葉した後木全体の3分の1程度は、特に直に立ち上がった枝を幹元から強剪定して、根部分とのバランスを測ってみる積りです。
サクランボを1粒ずつ丁寧に並べて箱詰めすることを考えると、気が遠くなりそうで私には到底無理ですが、小鳥の餌用であってもこれほどの味を乗せる木の再生には取り組む積りです。
ミカン園も本格的に再生に乗り出しています。ブドウだけだったのが親父殿の死後、残すものは残すべくブドウ以外にも着手しています。
ブドウの規模を縮小して楽になれるとは思っていませんでしたが、ブドウとブドウ以外とでこれまで以上に忙しくなって、毎日目眩がするほどです。けれど、自分の能力を最大限にぶっつけているという実感は、熱っぽい疲労感のなかに燃えてあるようです。「相変わらずだな、、、」別の私が呟いているようです。 002.JPG
posted by 明石 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年05月23日

ブドウとブドウ以外と

ブドウの生育状況を逐一ブログに記すのは今年から止めましたが、今のところ全品種順調に育っています。4月5日に15ミリ程度の雨の後降雨量が殆どなく、水の心配をし始めていたのですが、5月20日にほぼ40ミリの降雨があって久々に水がめに水が流入しています。喜怒哀楽がお天気に支配されてあるというのも農業の特性ですが、雨が欲しい時に降ってくれると嬉しくなって、それだけで機嫌が良くなるという呆れるほどの単純さがあります。
4年前ホームページを立ち上げた年に、ブドウの生育状況とそれに伴う全工程をかなり踏み込んで記しましたが、ああいうのは一度でいいと本当は思っていました。
ブドウが仕上がるまでの生育過程と工程は基本的には毎年同じで、その年の天気の推移で生育に違いが出てきたり、工程的にはその一つ一つの中身が試行錯誤で毎年微妙に違っていて、技術の進化に繋がればということです。
今年は設定温度をさらに下げた加温栽培を試しています。野菜でも加温栽培を止める人が増えてきているようですが、それほどに油代が高く経営を苦しくさせているため、リスクは承知で生育可能な限界値を探っています。ここ4〜5年で設定温度はかなり下げてきているのですが、さらに下げた今年は多分ギリギリのライン上にきていて、仕上がり具合がどうなるか予断を許さないところがあります。
私が今年特に注目しているのは「天山」「クイーンニーナ」です。6年生の「天山」は昨年よりは花芽が少しだけ増えましたが、枝数の3割あるかどうかでは、まだ木が本格的に果実を作ろうとする域には至っていないようで、本格化は来年以降にお預けです。
3年生の「クイーンニーナ」はよく育った木には1本あたり20房ほど結実させていますが、早く見てみたくて無理に結実させた昨年とは随分違って楽しみです。来年からは商品化できそうです。
私の日々の時間はブドウ作りが圧倒的な割合を占めています。ブドウの記述が少なくなると、ブドウから離れ始めているように見えるかも知れませんが、ブドウ作りは私の生活のベースですからそんなことは全くないです。
ブドウの記事も折りに触れては載せますが、ブドウ以外の2ヘクタールの畑で趣味の園芸を展開し始めていて、四季折々の花木とか果実とか、これからはそちらの方へもご案内しようと思っています。
posted by 明石 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年05月16日

最良の教育論

昨年の春頃だったと思いますが、以前市の教育部長だった人と話をしていて、つい調子に乗って「どんな教育論にも勝るのは昔のように兵役を課すことですよ。」と私が言うと、元部長さんしげしげ私の顔を見ながら「今の子供には無理ですよ、耐えられませんよ。」と苦々しくおっしゃる。
その軟弱さこそが問題だから言うのですよ、と続けそうになったのですが、元部長は優等生タイプということもあり、私がそれ以上持論を展開すれば極右とでも思われるのがせいぜいだろうからやめました。
兵役が無くなった戦後生まれの私が兵役があった方がいいと言うのも、自分が経験していないだけに片腹痛いところもあるのですが、私の親父殿は戦争末期やっと18歳に届いた大日本帝国海軍志願兵で、私は幼少の頃から親父殿に鉄拳教育を受けました。今だったら児童虐待で逮捕されるほどに事ある度に殴られて、お陰で少々殴られても一向に怯まない、しぶとく育ちました。(笑)
兵役があった方がいいと考えるようになったのは、基本的には自分の国は自分で守るという意識を持つべきだというところからです。更には、指揮命令系統縦一本の規律厳しい軍隊生活を等しく体験すれば、共通体験を経て共有できる何かが生じるだろうし、一人のミスがチーム全体の壊滅につながることを学べば人との関わり方も学ぶだろうし、そうした兵役での鍛錬はその後の人生に大きな力を与えることになると思うからです。百年くらいで日本人の資質が変わるはずがないし、入隊前ひ弱であってもたくましく変身するはずです。ここを心配し過ぎて過保護にするから余計虚弱化するのだと思います。
戦後の日本社会は日本人を骨抜きにするという米国の占領政策もあって、個人にばらけてしまったアメーバ的な拡散は現在では収拾不能というところまで至っているようです。個人主義というにはどこか半端で、多様な価値観というほど大層なものでもなく、根なし草的に浮遊拡散消滅傾向にあるようだと感じています。
戦争は誰でもしたくはありませんが、気がつけば日本の周囲は危ない国ばかり、中国の核弾頭ミサイルは常に日本を標的にしていることを国全体としてもう少し眼を覚まして考えないと、まさかが本当に起こり得る可能性は十分あると私は思っています。
ベルリンでの習主席のデタラメ発言も、だから日本人3800万人程度殺してもおあいこなのだと、日本に戦争を仕掛ける踏み込んだ発言のようにも受け取れます。中国軍幹部の中には日本に核弾頭を打ちこめという輩がいるのも事実のようです。
それに中国と戦争状態になれば、どさくさまぎれに北朝鮮が攻撃を仕掛けてくる可能性も高く、ロシアも油断できないところがあります。日本人が考えるほど周辺諸国は友好的でも良心的でもなく、弱みや隙を見せればかさにかかって襲いかかってきそうです。
私は政治家は殆ど褒めませんが、阿部首相はよくやっていると思っています。憲法を改正して自衛隊を国防軍にするのが本筋ですが、それでは時間がかかり過ぎて差し迫った危機に対応できず止む無しだろうです。
永世中立国スイスでも徴兵制、兵役はあります。20歳前後で15〜17週基礎訓練の兵役があります。昨年6月に徴兵制を廃止するかどうかの国民投票を行った結果、78パーセントが廃止に反対して否決されたとあります。
日本ではNHKの最新の世論調査で憲法を改正すべきだという国民の割合が伸び悩んでいるようです。何時になったら自分の国は自分で守ろうとするのだろうかこの国は、と考えるとため息が出ます。
posted by 明石 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年05月09日

何時か 何処かで

文章を刻みながら、ふと「一体誰に語りかけているのだろう?」と思う時があります。
二十歳頃のようにそこで立ち止まったりはしませんが、誰に語りかけているのか分からない不明さは、書くという行為の裏側にいつも貼り合わされてあるようです。
私は私という一つの感性がこの世で受け取ったものを、多少でもこの世にお返ししてから逝くべきなのだろうとの思いもあって、文章を刻むということに向き合っていますが、それを読んだ人がどう思うかということは殆ど気にしていません。
他者の眼を意識しないようにして出来るだけフリーに自分を解き放ち、どこに自分の核心があるのか凝視する、私流の手法であるのは間違いありません。
ネット上のブログという私的なスペースで私が何を語ろうと、世の中がいささかも変わるはずがないし、何の影響もあるはずがないということは、却って安心感があってその分尚更自分がフリーになれるということもあります。過激過剰な若い時なら絶望感や無力感に打ちひしがれていたことが、今ではそれを逆手に取れるというところがあります。
私が読者として唯一意識しているのは、数年後とかの後日、書かれたものを自分で読み返した時、自分で耐えられる程度に書かれているかということです。他者の眼はごまかせても自分には通用しません。書くことのキツサがあるとしたら、自分の眼に耐えられるかというが先ずあるようです。それが最大の読者は自分である所以です。
十代後半に入る頃には宛名のないラブレターを折々書くようになっていましたが、私にとって書くという行為に向かう動機は、その頃と何も変わっていないようです。誰かという特定の対象者ではなく、未知なる何処かの誰かにラブレターを書き続ける、それが私にとって書くということであるようです。
posted by 明石 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2014年05月02日

古い扉の向こうから

文章の怖さは、たった一行でもその人の本質が出ることがある、ということです。
私が三島由紀夫氏著作の「金閣寺」を読んだのは二十歳前後の頃ですが、主人公の青年僧が金閣寺を前にして「美しいと思った。絶対に美しいと思った。」と述べた時、「嘘だ!」と私の内に鋭く叫び声が上がりました。今ではその叫び声以外「金閣寺」は全て忘れてしまい、その一行も正確にそう書かれていたのかどうかは分かりませんが、「金閣寺」を評論するわけでもないので再読して確認することはいたしません。
「嘘だ!」という叫びは、圧倒的な美に直面したとき人の感性はそのような反応を示すはずがない、というところからです。青年僧にとって金閣寺の美は感性に訴えるものではなく、美しくあらねばならぬ強いられた美、観念の所産であることを直感したということです。
私は三島文学の愛読者でもなく、「金閣寺」以外に「仮面の告白」は多分読んだと思う程度ですが、そんなことと関係なく、「金閣寺」のあの一行に三島由紀夫という作家の本質が出ていて、その眼で見れば三島文学の構造が浮き彫りにされてくるのだと思っています。
真に偉大な文学、芸術、哲学、思想は、感性を解放してくれるものであるはずだと、その思いは私の中で脈々と生き続けているようです。白は黒であるというようなヘーゲル観念論とか、快感原則のフロイトの夢理論とか、観念の世界は読者をその世界に閉じ込めようとします。比較が適当でないかもしれませんが、誰もが知っている芭蕉の句例えば「夏草や兵どもが夢のあと」は、読み手の数だけ無限に広がっていく世界です。
優れた作品は、作家の手を離れた瞬間からそれ自体ひとつの生命のような存在となり、作家の意図をはるかに超えて飛翔する。
読者が何を受け取るかは千差万別です。殊更に作家の意図に沿って読む必要もないのだと思います。その作品を読んで自分の琴線に触れる一行一文に出会えたなら、その幸運に感謝する、それでいいのだと思います。001.JPG

ピオーネの着果状況
posted by 明石 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言