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2019年06月22日

梅雨が来ない6月

先週15日の土曜日、やっと雨が降りました。63ミリの雨量で、久々に雨水が貯水池に流れ込んでいるのを見てほっとしたのですが、翌朝見ると水の流入量が嘘みたいに少ない。通常50ミリを越える雨だと3〜4日は勢いよく流れ込むのですが、それほど地面が乾いてて水が吸い込まれたのかと驚きます。予想外とは言えそれでも全5か所の池や水槽に半分程度には雨水が流入したため、5回5週間程度の水が確保できたため一先ずピンチは脱しました。
今年は春先から雨が少なく4月頃から水の心配ばかりです。2月程度の水は確保していたのですが、5月から6月中旬までの1月半の総雨量が14ミリとまで雨が降らないと、さすがに水も底をつきます。先週一通り潅水して後1回分の水があるかどうかというところまで来ていて、一体何時になったら雨が降るのか、梅雨が来るのか、ストレスが眠りまで圧迫しているようで、ブドウ作りの一番忙しい時期と重なって、疲れ方が異常です。仕事を終えて家に帰り横になるとすぐ寝入ってしまいます。何も考える暇がないくらい精一杯仕事をしているのなら充実しているのだけれど、どうにもならない天気にただひたすらストレスをため込んでいるのです。
ブドウは今粒の肥大期です。過去に何度か経験していますが、この時期に水がないと粒は小さいままで商品にならないバラ房になります。今年駄目でも来年出直せるかとなると、干ばつで早々と葉を黄葉させたり落葉させたり樹を傷めると、来年以降も品質低下は免れません。一年生の野菜や花と違って果樹は多年生で、一年一年をしっかり作ってその連続した積み重ねがあって、品質の維持向上が計れるのです。一年でも樹を傷めるような天気とか事象があれば、成木ほど品質は下降線を辿ることになります。
お天気に傷められてまた苗木にやり替えるのは理不尽ですが、この理不尽は農業の宿命です。ブドウの施設栽培を30年続けてきて、どうにもならないお天気ばかりを気にするのはもううんざりだというところもあります。ミカンに移行を目指すのはいろんな事情や理由が絡んであるのです。
posted by 明石 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月29日

前記続き

私は経済最優先の破壊尽くしの現代を史上最悪の時代と思っていますが、国連の報告書でも、経済第一主義の最近50年間の破壊が過去とは比較にならないほどひどいとしています。自然や多様な生物生態系を破壊し、つまりは地球を傷めて住みづらくして、或いはいずれは住めないような星にして、それでも進化向上していると思うならそれは完璧に気狂いの領域です。
経済を極めて単純化して金儲けと考えて、金になるかどうかが唯一の価値観であるなら、金にならないことは全て壊れることになり、人は金の盲者以外の何者でもなくなります。自然や生物生態系ばかりでなく人も、その一点に支配されると壊れてしまうことになるのだと思います。企業の生態、企業の論理は経済の持つ性格に支配されていて、その中に組み込まれて人は経済を生きてそれ以外の自分を生きられないようになっているのだと思います。
経済最優先の経済至上主義は最悪の結果しか招かなかったのだから、史上最大の間違いと言われても仕方がないはずです。何時どんな時代に姿形を変えても、根底にあるのは独占欲、支配欲という人間の欲望。結果的に言えば、自由な競争経済社会もほんの数パーセントがその欲望を叶えるために仕組んだ、巧妙な罠なのかと思ってしまいます。
経済の膨張と人口の爆発的な増加は市場の拡大というところで繋がっているようにも思えますが、いずれもこれ以上野放しにすると破滅的です。私は以前経済にも共存共生の理念を組み込む必要があると記しましたが、共存共生の理念は人と人、国と国は無論、多様な生物生態系つまり地球の自然環境を同レベル以上で含むということです。経済の中に敢えて性格的に相容れない共存共生の理念を組み込んで経済を規制しないと、今の延長線上には未来は見えないというか、無いのではと思ってしまいます。
投資ファンドのマネーゲームで株価が実体経済とかけ離れた動きをすることもよくありますが、これも以前懸念を記したことですが、今世界の穀倉地帯の2割が天気とかで壊滅的な不作になると、世界は食糧パニックに陥ります。ここに先物買いの投機マネーが流れ込むと世界の食糧は一気に高騰して、アフリカとか途上国では何億もの餓死者がでるとされています。何億人餓死者が出ようと投資は自由な経済活動だから合法だとするなら、合法な大量虐殺がまかり通ることになります。どこかで国際的な規制をかけないとそれはいつでも起こりうることです。こんな気違いじみた話がまかり通るほどおかしな時代になっているのに、世界はそんな危機感を持っていないかのようです。
世界が食糧パニックになったら日本も無事で済むはずがありません。今現在でも世界で食料を買いあさろうとしたら、多分中国に歯が立たないだろうし、世界的な食糧パニックが勃発すれば経済力があったとしても買えないと考える方が正しいように思えます。今国内で農業は衰弱の極みにあって、もともと低い自給力が更に低下し続けているはずです。他国から買えなくて自給力が乏しいとなると餓死せざるを得ないのに、この国は何度も申し上げるけれど本当に危機感が欠如しています。国の政治の最大の責任事はなにがあっても国民を餓死させないことだと私は思っていますが、本気でそのことに命を懸けるような政治家が果たしてこの国に居るのか疑問です。
私等団塊の世代が子供の頃日本は戦後ということもあって貧しかったのですが、それでも狭い農地にしがみついて食べ物を作って隣近所助け合ったりして餓死というような心配はあまりなかったようで、今よりは確かさがあったのだと感じます。これからの日本の貧しさはコンクリートのカケラを食っていけるのかな的な貧しさなのだと思います。
posted by 明石 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月21日

百万種が絶滅の危機

つい先日ニュースで流れていましたが、2019年5月7日、国連報告書は「人類が自然環境と生物多様性に壊滅的な打撃を与えて、動植物百万種が今後30年以内に絶滅の危機に瀕している。」と警告しました。百万種とは驚きますが、雪崩を打って種が絶滅するそんなところまで来たかという思いと、人類は善なのか悪なのか単純な二元論的な問いに、地球にとって決して好ましい存在ではないという一つの答えが出始めているのを覚えます。
環境とか生態系とかの問題で私が以前からずっと疑問だったのは、爆発的に増え続ける世界の人口こそが問題なのに、なぜ誰もそのことに触れようとしないのかということです。経済最優先という時代に人口を減らさねばという話は、市場の縮小ということになるので、著しく時代にそぐわないからなのだろうと思っていますが、世界の人口は毎年1億増えて今75億、2055年には100億に達するそうで、ついこの間70億になったばかりだと思っていただけに、爆発的な増加とはまさにこのことだなと驚いています。
世界の人口の増加と食糧難ということもあって、今現在でも農地にできるところは農地にしようと、南米とかを筆頭に森林の伐採は広がり続けているようです。自然環境や多様な生物生態系の破壊は広がり続けて、温暖化ガスの排出は毎年過去最高を更新するほど増え続けているのですが、人類はいまだ何の対策も講じることができず、COPとかIPCCとか国連での世界会議でも世界は結束することも出来ず、結局は無為無策のまま爆発的に増加する人口に呑まれて、最悪のシナリオを辿ることになるのだろうと思っています。どのみち避けられないのなら行きつくところまで行って、なるようにしかならないのだから、その地点が次への始まりとなるのであれば幸いかなと楽天的に思ったりします。
環境問題とか多様な生物生態系の問題とか、私は学者ではないのでどれくらいの数が適当なのか分かりませんが、それでも今の世界の人口を2分の1とか3分の1とかに、50年後とか100年後とかに減らすことが唯一の解決策だと思っています。ちなみに先進国諸国は日本もそうですが軒並みに人口減少傾向にあるようで、過渡的に超高齢化社会を潜り抜けねばなりませんが、30年後あたりを考えるとかなり人口は減るのではと思ったりします。中国でも1人っ子政策が30年も続いて、凄い逆ピラミッドの超高齢化社会をやがて迎えますが、1人っ子政策を辞めても子供をあまり作らない傾向は変わらないようで、30年くらいのスパンで考えると過激に人口は減少しそうです。
爆発的に人口が増加しているのは途上国ですが、先進国諸国が途上国の子供の教育をもっと支援すれば、教育水準が上がるほどに爆発的な出生率は自ずと下がってくるのではと思います。            続く
posted by 明石 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年05月12日

悪い予想はよく当たる

本業のブドウ作りが今年は忙しい。12月〜1月が暖冬になると7度以下の休眠500時間に達するのが遅くて、3か所40aのブドウが発芽から全部一緒になって困ったことになります。3か所の園地で、発芽が10日から14日ずれるように、被覆の時期をずらしたり1番手を加温したりしているのですが、暖冬だと500時間に達するのが遅れて、発芽をずらすことができなくなります。予想はしていましたが、3か所一斉に同じ作業に追い回されると、とんでもなく忙しくなります。かつて5か所90aでハウス栽培していた頃の眩暈がするような忙しさを、それほどではないにしろ久々にちらり思い出したりします。
このまま同時進行で1番手のピオーネと3番手の瀬戸ジャイアンツのジベ処理が同時になったりすると、摘粒房づくりが支障が出て困ったことになると思っていたら、幸い4月が寒暖の差が激しく寒の功績というか、1番手の加温を強めてジベ処理で2週間のずれは確保できたのでやれやれです。
落葉樹は7度以下の低温に500時間以上置かれないと休眠から目覚めないそうですが、これ以上あまりに暖冬になると500時間が難しくなりそうで、落葉樹の生理障害を招くことになるのではと危惧します。
気象環境が全く過去のデーターが役に立たなくなるほど激変して、寒暖の差の激しさ、極端な雨量、毎夏の猛暑とか巨大化する台風など、農産物の生産には厳しくなる一方のようで、品質が総じて低下一方なのは市場関係者が口を揃えるところです。品質が低下しても出来てるうちはまだいいのですが、出来なくなることが何時起きても不思議ではないと、私の想定内に既に入っています。
施設園芸ブドウのハウス栽培で、一番苦労するのは室内の温度管理です。もう20年以上前のことですが、丁度ジベ処理時期の今頃、朝から雨で昼からも雨の確率が90パーセントとの予報。昼食に家へ帰ったのですが、食事中ににわかに陽が差して晴れ間となり、しかも強い日差しです。信号を無視するほど慌てて軽トラで山へ駆けあがったのですが、それでも家からだと15分前後は要し、最初に1番手のハウスに入ると熱くて息ができませんでした。温度計を見ると55度で花穂も葉もぐったり萎れ気味だったのですが、ハウスの上下を全開して晴れてから30分以内の短時間で30度くらいに下げられたので、傷みは全体の10パーセント程度で済みました。もしあんな高温の中に何時間も置いたらそれで全て終わると思うと、この時以来4月以降になると、ハウスを離れる時は雨が降っていてもハウスの上側は開けるようにしています。30分も待ってくれない温度管理の厳しさはこの時たった一回で骨身に沁みました。
温度管理の次は水の確保です。週一回30ミリ程度潅水するなら40aで120トン、1か月だとその4倍で480トンとなり、200トン、300トン、500トンの水槽というより池を作りましたが、セメントのひび割れ補修とか水漏れ防止に努めないと維持できないのが常態です。雨が全く降らなくても2か月は凌げますが、今年は春から雨が少なくて残量であとどこまで行けるか計算ばかりでストレスが溜ります。
あと被覆中だと風とか雪とかも程度によっては壊滅的な災いとなるし、猛暑続きの夏場に気温が40度を越えると多分持たないだろうとか、心配してもどうにもならないお天気なのでストレスばかり溜まります。「雨にも負け風にも負け」は決して冗談ではありません。風でハウスがごっそり持ち上げられたり、雪で全ハウスが壊滅したり、ハウスでブドウ作り30年の間には随分痛い目を見ています。長い年月の間には時として自然が猛威を振るって襲い掛かることもありますが、これまでより本当に怖いのはこれからです。温暖化による気候変動とか、地球が壊れかけているのだから、経験したこともない予測も出来ないことが頻発するのは当然なのだろうと思えます。
posted by 明石 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月24日

一瞬が一生に

夜10時頃だっただろうか、部屋のドアがノックされて「すみません!」と女の人の声。ドアを開けると少女っぽく見える女の子が立っていて、「私カギを忘れてきて部屋に入れないんです。泊めてもらえないでしょうか。」と困り果てた顔で言う。同じアパートの二つ隣の部屋だというのですが、私は会ったことも見たこともありません。切羽詰まった彼女の気迫に押されとりあえず部屋に入ってもらったのですが、まさか4畳あるかどうかの狭い部屋で見ず知らずの若い娘と朝まで一緒に過ごせるはずもなく、「俺、友達のところへ行くから朝までこの部屋使ってくれたらいいよ。」と咄嗟に決断しました。部屋に入ってから彼女の表情は固く押し黙ったまま、頷くだけで一言もありませんでしたが、お茶とか必要なことを伝えて私はバタバタ部屋を後にしました。道中、「何なんだこれは?これじゃあ俺が夜逃げしているみたいだ!」と愚痴りたくなるほど奇妙な展開です。
翌日部屋に帰った時にもちろん彼女は部屋にはいませんでした。その後も彼女の音沙汰は皆無で、お礼の一言くらいあってしかるべきなのではとちらっと思いが掠めたりもしましたが、そんなことに頓着しないのが私の流儀です。結局その後二度と彼女を見ることも会うこともありませんでしたが、一体何だったのだあれはと、何かに化かされたような不思議さだけが残りました。
私は想像力を働かせて事件事象の核心に迫るのが遊び心的にも好きで、好奇心が刺激されれば気づけば対象の回りをあらゆる角度から覗こうとぐるぐる回っていたりします。今回のことも本当言えば最初に直感はあったのですが、一晩部屋を提供してお礼の一言もないということで、それはある程度は裏付けられたようです。
多分彼女は余程思い詰めた行動であったようで、であるが故に時間とともに冷静さを取りもどしたときに、恥ずかしさに包まれたのではと推測したりします。はたまた女心を全く理解しない私に腹を立てたのかとおもったりもしますが、私の方からすると見たことも会ったこともないのにそんな無茶苦茶な話はないということになります。私は自由人志向で常識的や良識的な枠外に自分の立ち位置を探し続けますが、自分の心や欲望の在り様を拠点としているのだと思っています。つまり、心とか欲望とかが、反応して動かないと、何も始まらないということです。
事故のように突発的な出来事でしたが、半世紀近く隔たった今も、あれは本当は何だったのかとふと思ったりします。彼女と一緒に居たのは10分あるかどうかのはずですが、いまだに私の記憶の中に存在し続けています。瞬間的な出会い、ごく短時間の交わりを書き綴っていますが、例え10分程の出来事だったとしても、半世紀も生き続けるなら、他者との出会い触れ合いは感受性次第で無限に広がっていく可能性があるのだと思います。
posted by 明石 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月15日

消息不明

何処へ行っても同じだと頭で分かっていても、今ここに居ることに耐えられず、アルバイトで旅費を作っては行ったことのない地へ飛び出す、20歳の終わり頃からそんなことを繰り返すようになっていました。旅とかいうそんな余裕とはおよそかけ離れていて、日常性を絶たないとパンクしそうになって、それを避けるために飛び出す放浪というよりは彷徨だったのだと思っています。
以前ブログに記しましたが、中学生の頃授業を受けるのが苦痛でその限界に達した時、筆箱を黒板に叩きつけて教室を飛び出したことがありますが、それと全く同じことだったような気がします。ここに居れないとしたら住めば地獄で、どこだろうといずれ居れなくなるのは必至なのは分かっていますが、動き回ることで多少の時間差や未知との出会いとかで自分が持ち直せて、その積み重ねの中どこか別のところに新たな自分が熟してくるのを願うところもあります。
2回生になると大学へは殆ど寄り付かず、講義を受けることは全くなく取得単位はゼロで、3回生になった時にさすがに心苦しくて、もう大学は辞めるから授業料は納めなくていいと実家へ葉書を送り、この時から表向きは学生でも本業はアルバイターとなったのです。様々な職種のアルバイトをして分かったのは、私は決して働くのが嫌いなのではなく、肉体酷使の重労働でもそれほど苦にもならず、資質的にも肉体的にも仕事人としての適性能力は高いようで、大学を辞めるならうちへ来ないかと様々な業種で声を掛けられたりしました。
アルバイトで旅費を作っては旅に出る、その繰り返しが正味2年は続いて、網走から根室に向かうバスの中で旅の終わりを感じて一段落したのですが、私にとってこの期間が無ければこの世から消えていただろうと思えるほど、それほど重大な期間であったのだと今そう思います。
母が授業料を収め続けてくれていたので大学に籍は残っていて、4回生になって大学に戻った時に何年かかっても卒業だけはしなければ申し訳ないと思い直して、結局6回生で卒業したのですが、2,3回生時が全く抜けているので実質4年で帳尻は合います。4回生になった頃には喫茶レストランのバーテンが本業で、学生は付録のようでした。満席だと105人お客さんを収容できるほどのお店で、ここで3年間シェーカーからフライパンまでマスターにみっちり仕込まれて、プロのバーテンを使うまでになっていました。卒業して店を辞める時、「大学を出てバーテンはもうやらないだろうけど、全国どこでも一人前のバーテンとして立派に通用しますよ。」とマスターが太鼓判を押して送り出してくれました。45年前のことですが、ブドウを感謝の気持ちを込めて送ったりマスター夫婦との付き合いは途切れることなく続いています。
それで旅は終わったのかと言えば、そんなことはなく、旅はいまだに続いています。命は生まれ、育ち、真っ盛り、老い、衰え、そして終わる、その一生で同じ状態で同じ場所にとどまるものは何一つない、時は無常の旅を強いています。私が時々不思議に思うのは、昨日があって明日があるように私たちは慣らされているが、本当にあるのは永遠に今という瞬間であるのだろうということです。この時の不思議さをいつか大天才が説明してくれるだろうかとふと想ったりします。
posted by 明石 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月05日

最北へ

雪の原野を倒れるまで歩き続けたい、いつの間にか根付いたそんな願望が次第に成長して、時折熱い疼きとなって私の内部を駆け巡るようになっていました。
学生生活2年目の12月、アルバイトでどうにか旅費を作って、意を決するように北海道宗谷岬へ私は旅立ちました。京都から稚内までは鉄道で急行などを乗り継いでも二晩三日は要したような記憶がありますが、50年近く前のことだから定かではありません。
日本海側を北上しながら東北に入ると空は黒々雲に覆われて、白く波立った海は牙をむいて襲い掛かるとてつもなく巨大な猛獣のようにも見えた。車窓に映った自分が固まったような表情でこちらを見返している。なんて暗いのだと自分でも思う。東北でこれだと北海道の最北端宗谷はどうなのだろうと胸騒ぎもします。
列車を乗り継いで2日目になると寝不足もあってさすがに疲れます。途中下車なしの稚内までノンストップの旅だから猶更です。京都を出てどれくらいの時間を経て旭川に辿り着いたのか分かりませんが、仕事帰りの勤め人に交じって普通列車に乗っていました。二人掛けが向かい合った座席にあまり空席もなく、私の向かい側は慎ましやかそうなお姉さんが腰かけていました。
「旭川は日本で一番冷え込む処だと言われているけど本当?」と多分私が話しかけたのだと思いますが、彼女は首を横に振って「私の住む名寄の方がもっと冷え込む、氷点下30度以下に下がることもある。」と寒そうな顔をする。「寒くて寒くてあんまり寒いと心も凍ってしまいそうになるのよ。」彼女はその寒さの中に居るような表情を見せたが、私は彼女のずっと向こう、先ほどこの車両に入ってきた熊のような大男が、多分酔っ払いなのだろう、乗客に絡みながらこちらに近づいてきているのを見てる。ここへ来て彼女に絡んだらただではおかないぞともう心は構えています。「こんな寒い処に住んでいると、暖かい処に住んでいる人が羨ましいし、あの活気が私達にはない異質さで、怖いとさえ感じるの。」「だったら関西人は一番怖いかも知れないね。」と私が言ったとき大男が彼女に倒れ掛かるように絡みついた。
「おい、おっさん、お前ぶっ殺すぞ!頭かち割ってザクロにしたろか!」大男の胸倉を掴んで彼女から引き離して凄むと、私の目が余程殺気立ったのか、大男は一瞬でしゅんと凋んですごすご車両から出て行った。見ると彼女は蒼ざめて震えているようだ。言葉を掛けようとすると、彼女が怖がっているのは酔っ払いではなく私だと気づいた。ヤクザとでも思われたのかも知れない、列車が名寄に着くと彼女は逃げるように降りて行った。なんでこんな馬鹿馬鹿しいことになるのか、世の中を嫌っているから、世の中に嫌われてもしようがないと思ってしまう。
翌日やっとというか、とうとう稚内駅に着いた。雪は降っているが小雪で空は明るい。宗谷岬行きのバスに乗り込むと、明るかった空が次第に暗くなり、途中から吹雪、猛吹雪となり宗谷岬に近づくほどに視界は閉ざされた。終点宗谷岬は猛吹雪で視界は無いに等しい。バスを降りると数秒で雪柱になり、息をするのも困難だ。バスの待合室に飛び込んで難を逃れたのですが、雪の原野を倒れるまで歩き続けたいなど、なんて現実知らずの妄想だったのか、バスを降りた一瞬で自分の馬鹿さ加減を強烈に悟りました。結局乗ってきたバスが折り返すのを待って稚内に引き返したのですが、笑い話以下のお粗末さだったのは間違いありません。
稚内市内に戻ってラーメンをたべていると、森進一の歌が流れていました。好きな歌手でもないのですが、こんな北の最果てでラーメンを食べている自分が浮き彫りにされるようで、何故なのかわかりませんが、涙が溢れてきます。名寄の彼女は心が凍りそうになるといいましたが、誰のどんな声も届かないほどに凍ってしまっている自分に、私はただ立ち尽くしているだけだったのです。
posted by 明石 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月28日

金沢の女

北村が関西大学だったので時々ふらり京都に来ることがあった。下宿の部屋に居ても面白くないので、どこかへ行かないかということになり、美人の多い北陸金沢に決めました。二人とも学生で所持金は乏しいのですが、往復の運賃と飯代くらいは何とかありそうで、後の展開はパチプロまがいの北村が金沢で稼げるかどうかです。
朝金沢に着いて、パチンコ屋をチェックしながらぶらぶら金沢城公園あたりまで来ると、ほどなく開店という時間になって、来る途中決めていたパチンコ屋へ北村は戻って行った。私は金沢城付近の芝公園で寝ると決めていました。春だったか秋だったか忘れましたが、暑くも寒くもない戸外が最適の季節だったのは間違いなく、穏やかによく晴れた日、木陰で芝生の上だと夕方まででも寝られそうです。
周りを見回しても芝公園に人の姿はなく、木陰で芝生の上に寝転んで思い切り手足を伸ばすと、あまりの気持ちよさに日ごろの鬱々した気分も消えていました。下宿では眠りさえ四方八方から脅迫されて神経衰弱気味なのですが、知らぬ土地で快適な環境に解放されて、心地よい眠りにすんなり落ちました。
久々の快眠でどれくらい時が経ったのか、何かの気配でふと目が覚めました。寝ている私のすぐ近く女の人が芝生に足を投げ出して座っている。眠りが深かったようで私も咄嗟の状況判断が出来ません。少し微笑んでいるような優し気な彼女の目に、「ここはどこ?」と聞くと、「芝公園よ。」と返ってきました。「違うよ!どこでもないわまだ、だよ。」と突然自分でも何を言い出すやらですが、「谷川俊太郎ね。」と彼女。「あんたは誰?」と言うと、「誰でもないわまだ。」と彼女。何か嬉し楽しくなってきて私は笑っている彼女に、「ここがどこかで、あんたが誰かになるためには、どうすればいいのだろう?」と言うと、「それはあなた次第よ。」と彼女。
こんなほんわか優しそうな美人が、何故わざわざ寝ている私のすぐ側に腰を下ろしたのか、それは今考えても不思議です。彼女は北國新聞社の社長秘書で、昼休みで芝公園に寛ぎに来たそうです。出会った一瞬で触れ合えるところがあるのを感じ取りながら、好みのタイプであるがゆえにその先に私は進めません。就職はしたくないし生活に夢も望みも未来志向が全くない人間に恋愛は不可能で、好みのタイプほどに関わるのを避けてしまいます。
芝公園の入口付近に北村が見えた。宿泊費を稼ぎに行った友達が帰ってきたと言うと、彼女は立ち上がって帰って行った。お互いに名前とかを教えることもなく、その場限りの出会いで終わらせたのですが、どこかに切なさが疼くような心残りはあります。そんな気持ちを処理するのにも慣れていますが、ふと思うのは、仮に神様が出会いを仕組んだとしても意志が無ければ何も生まれない、ということです。「あなた次第よ。」と彼女の言葉が胸に刺さっているのに気付いて、「痛っ!」と顔を顰めました。
posted by 明石 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月16日

知らぬ間に

私は10代後半頃から作家志望で、そのために読書とか勉強する時間が欲しくて大学へ行ったのですが、自分は作家志望でも文学少年少女とかはあまり好きではありませんでした。妙に老成して斜に構えている頭でっかちを見ると、それ自体中身のない虚構のようで、汗や涙や血を生身で流して自分を知ったらどうなのだと腹立たしくなりました。
大学は京都の立命館大学で、言うのが気恥ずかしくて言わなかったのですが、文学部英米文学科です。特に英米文学が好きだとかは一切ありませんが、どうせ勉強しないのはわかっているから、得意の屁理屈を捏ね回して単位が取れそうな文学部を選んだだけです。あの美人シンガー倉木麻衣ちゃんの落ちこぼれ大先輩でもあるのです。
50年前の学園紛争の真っただ中の学園生活は、今の時代からだと想像するのも困難なほどに隔たってしまっています。あちこち窓ガラスが割れ、学生運動の貼り紙だらけで散らかり放題の大学に初登校の日、私は下駄ばきジーパンで真っ赤なセーター真っ黒なサングラスとさながらチンピラ姿で、校舎ロビーでいきなり上級生と喧嘩となり、学園生活は騒々しくスタートしました。
同じゼミに富山県高岡市から来た大場という、まさにそのものという文学少年がいました。小柄で長い前髪が顔を隠していて、髪の間から時々メガネが覗いていました。嫌いなタイプなのでこちらから話しかけたりはしませんが、妙にいろんなとこで顔を合わすのには閉口しました。
私は最初の半年は毎日講義に出ていました。大学の教授とはどの程度なのか興味があったからです。特に専攻ゼミでは気が向けば積極的に発言したりすることもあって、チンピラ然とした最初の印象からは皆意外であったようです。
ある日確かエドガー・アラン・ポーに関する講義中、作品のモチーフとか作品論になった時、私は教授に襲い掛かってしまいました。「死を凝視する感情の透明さ」ということを私は言ったのですが、教授が理解不能で半ばパニックに陥っているようでもあり、蓋をしてその場を脱しようとした時、大場が「先生、真面目に授業してください!」と甲高く叫びました。「私は真面目ですよ。」と教授は狼狽えと怒りが半々といった風で、結局ムニャムニャ授業を終えました。大場が「明石が本気になるなら先生も本気になれよ!」とそう言いたかったのはよくわかっていました。そんな目で見ていたのかと、この時から私も大場に多少は態度を軟化させて、時々話したりもするようにもなりましたが、前期が終わって後期になると私はばったり講義には出なくなりました。
本来の目的通り下宿の部屋に籠って文学、哲学思想、歴史、心理学に至るまで、古今東西の著作を手あたり次第読み漁りました。一日500〜600ページは読んでいましたが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は一気読みみたいに、それでも何日かは続くので最後の頃は発熱して、読み終えると寝込んでしまいました。
大場が自殺したと聞かされたのは、一回生の終わり頃なのか二回生になってからなのかは忘れましたが、内臓をざっくり抉られるようなショックがありました。あのゼミ以後会えば短い言葉でも交わすようになって、同人誌だったか彼の文章を読んだりもしたのですが、中身のない小生意気なポーズだけで、私の嫌いな文学少年そのものでした。話している時見せる屈託のない笑顔が本来の大場であるのなら、自縄自縛のポーズを壊してやったほうが良かったのではとの思いも掠めたのですが、私も自分のこともままならず、そんな余裕も力もなっかたはずです。なんで大場が自殺したのか真相は闇の彼方ですが、コンプレックスがその一因にあったのではと、なぜだか強くそう思いました。
今考えてみても、あの笑顔であれば、他者とフランクに交われたはずで、良いおじさんになれてしっかり生きられたはずだと、そう思います。
出会いは一瞬の交錯であったかも知れませんが、50年経っても私は大場のことを覚えているし、或いは彼が望んでいたかもしれない、友人に知らぬ間になっていたのかもと思ったりします。
posted by 明石 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月10日

月の道

3年前大学時代の友人3人と淡路島の温泉ホテルに集って、ミニ同窓会を行った時の情景が時々頭に浮かんでくることがあります。大阪出身で今は和歌山県橋本市に住むY氏、京都のI氏、加古川のU氏、それに私の4人で、I氏はその前年にも我が家に来ていますが、Y氏とは20年は会っていないように思えるし、U氏とは学生の頃からだと40何年になるのか考えると面倒くさくなります。
その数年前からY氏が、元気なうちに一度皆に会っておきたいと、I氏を通じて言ってくるのですが、あいつどこか悪いのかと聞くとそんなことはないとのことで、あまり気が乗らない私は先送りし続けていました。都会育ちほどに大学時代の仲間を懐かしむのは何なのだろうと、高校や大学に懐かしさのカケラも持ち合わせていない私からは奇異に映ります。もっとも向こうからすると、私の薄情そうなところが不安要素であるようですが、田舎人特有の土着体質なのか、私は小学時代を一緒に過ごした仲間が比較にならないほど懐かしい。
業を煮やしたY氏が直接再三電話してくるようになって、私も観念してミニ同窓会が実現した次第です。
最初は南紀の温泉ということでY氏に任せていたのですが、いささか独特の趣味嗜好の持ち主で、I氏がそれを懸念して私に電話してきたので、それでは関西と四国の中間淡路島にして私が手配すると決めました。
10月のよく晴れた日の昼下がり、私は淡路島は初めてでしたが、予定通りに2時間足らずで到着しました。ホテルのロビーで寛いでいると、ほどなく全員集合というか、皆私より早く着いて近辺をうろついていたらしい。
Y氏はさすがに老けて、何をやらかすか得体の知れないようなオーラが消えて、なんとなく小さくなったなと感じてしまいました。小柄なU氏が学生時代そのままで殆ど変わっていないのには驚きました。
海を見渡せる眺めのいい部屋を用意しましたとのことで、10階だったかどうか忘れましたが、部屋に入ってみると眺めの良さは言葉以上で、気持ちが伸びやかになります。20年とか、40年ぶりとかそんな長い時間を経てでも同じ部屋に集えば、何の違和感もなく収まるのも不思議ですが、部屋の背景に伸びやかな眺望が開けていることも無関係ではないのだろうと思ってしまいます。
60半ばを過ぎると皆さすがに憑きものが落ちているというか、口角泡を飛ばして激論とか、そんなエネルギーは源で枯れてしまっています。Y氏が「生きた証を何か残したい。」と真顔で言うので、「お前子供がいるだろ、子供や孫がいるなら、それがお前が生きた証だろ!」と即座に返してしまったのですが、いかにも不機嫌な言い方で自分でもびっくりしました。私は時々他者が消えてしまうほど自己完結的であり過ぎるところがあって、他者の中に自分を刻み込むような欲求は見失いがちです。高校時代からの悪友K氏の葬儀の話をしたのですが、関係性の中で人は死んでも、その人を知る人が居て思い出されたり話題になったりする限り存在し続け、そういう人が一人も居なくなった時初めてこの世から消滅する、ということを。
「生きた証」とか死後何時までも名前を残したいとしても、歴史に名を刻むような大人物にならない限り、人は皆大差なく忘れられ消えていく存在なのだということです。野に咲く花は誰のために咲くのではなく、自分という一つの命を精一杯生きているから、変わらぬ一つの命の尊さを宿しているのです。
Y氏はスマホで私のブログを読み始めました。U氏が「悪友の死」のブログ読んだけど、あれからブログが更新されていない、もう書かないのかと聞く。分からないと答えると、特異な生き方をしているのだから小説を、自伝小説とか書いてほしいと言う。
自伝小説はどこまで本当の自分に迫って描いたとしても、どこまで行ってもフィクションでしかあり得ない。日本の近代小説が私小説云々は、読者も作者もここを混同して描かれた主人公と作者を同一視するから、作品という次元へ飛翔しないのだ。もし私が小説を書くなら、私は私のこと以外書けないから、その意味では自伝的と言えなくもないが、生身の総体を書ききることは不可能で、書かれた私は主題視点とかで切り取られた断面である上、私の気づかない作意がどう働いているかも分からず、故に描かれた私は作品としてしか成り立たないということです。ここに集った4人は皆文学部で、最後に自伝の一つも書いて自分を残したいらしく、それが妙に私を苛立たせます。
夜9時ごろだっただろうか、仲居さんが教えてくれていたのですが、ベランダへ出てみると、満月が海面に月の道を描いていました。一人で暫くその幻想的な風景を眺めていると、それだけでもここへ来た甲斐はあったと納得できました。その後も時々あの月の道を思い出すということなのです。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言