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2019年04月15日

消息不明

何処へ行っても同じだと頭で分かっていても、今ここに居ることに耐えられず、アルバイトで旅費を作っては行ったことのない地へ飛び出す、20歳の終わり頃からそんなことを繰り返すようになっていました。旅とかいうそんな余裕とはおよそかけ離れていて、日常性を絶たないとパンクしそうになって、それを避けるために飛び出す放浪というよりは彷徨だったのだと思っています。
以前ブログに記しましたが、中学生の頃授業を受けるのが苦痛でその限界に達した時、筆箱を黒板に叩きつけて教室を飛び出したことがありますが、それと全く同じことだったような気がします。ここに居れないとしたら住めば地獄で、どこだろうといずれ居れなくなるのは必至なのは分かっていますが、動き回ることで多少の時間差や未知との出会いとかで自分が持ち直せて、その積み重ねの中どこか別のところに新たな自分が熟してくるのを願うところもあります。
2回生になると大学へは殆ど寄り付かず、講義を受けることは全くなく取得単位はゼロで、3回生になった時にさすがに心苦しくて、もう大学は辞めるから授業料は納めなくていいと実家へ葉書を送り、この時から表向きは学生でも本業はアルバイターとなったのです。様々な職種のアルバイトをして分かったのは、私は決して働くのが嫌いなのではなく、肉体酷使の重労働でもそれほど苦にもならず、資質的にも肉体的にも仕事人としての適性能力は高いようで、大学を辞めるならうちへ来ないかと様々な業種で声を掛けられたりしました。
アルバイトで旅費を作っては旅に出る、その繰り返しが正味2年は続いて、網走から根室に向かうバスの中で旅の終わりを感じて一段落したのですが、私にとってこの期間が無ければこの世から消えていただろうと思えるほど、それほど重大な期間であったのだと今そう思います。
母が授業料を収め続けてくれていたので大学に籍は残っていて、4回生になって大学に戻った時に何年かかっても卒業だけはしなければ申し訳ないと思い直して、結局6回生で卒業したのですが、2,3回生時が全く抜けているので実質4年で帳尻は合います。4回生になった頃には喫茶レストランのバーテンが本業で、学生は付録のようでした。満席だと105人お客さんを収容できるほどのお店で、ここで3年間シェーカーからフライパンまでマスターにみっちり仕込まれて、プロのバーテンを使うまでになっていました。卒業して店を辞める時、「大学を出てバーテンはもうやらないだろうけど、全国どこでも一人前のバーテンとして立派に通用しますよ。」とマスターが太鼓判を押して送り出してくれました。45年前のことですが、ブドウを感謝の気持ちを込めて送ったりマスター夫婦との付き合いは途切れることなく続いています。
それで旅は終わったのかと言えば、そんなことはなく、旅はいまだに続いています。命は生まれ、育ち、真っ盛り、老い、衰え、そして終わる、その一生で同じ状態で同じ場所にとどまるものは何一つない、時は無常の旅を強いています。私が時々不思議に思うのは、昨日があって明日があるように私たちは慣らされているが、本当にあるのは永遠に今という瞬間であるのだろうということです。この時の不思議さをいつか大天才が説明してくれるだろうかとふと想ったりします。
posted by 明石 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年04月05日

最北へ

雪の原野を倒れるまで歩き続けたい、いつの間にか根付いたそんな願望が次第に成長して、時折熱い疼きとなって私の内部を駆け巡るようになっていました。
学生生活2年目の12月、アルバイトでどうにか旅費を作って、意を決するように北海道宗谷岬へ私は旅立ちました。京都から稚内までは鉄道で急行などを乗り継いでも二晩三日は要したような記憶がありますが、50年近く前のことだから定かではありません。
日本海側を北上しながら東北に入ると空は黒々雲に覆われて、白く波立った海は牙をむいて襲い掛かるとてつもなく巨大な猛獣のようにも見えた。車窓に映った自分が固まったような表情でこちらを見返している。なんて暗いのだと自分でも思う。東北でこれだと北海道の最北端宗谷はどうなのだろうと胸騒ぎもします。
列車を乗り継いで2日目になると寝不足もあってさすがに疲れます。途中下車なしの稚内までノンストップの旅だから猶更です。京都を出てどれくらいの時間を経て旭川に辿り着いたのか分かりませんが、仕事帰りの勤め人に交じって普通列車に乗っていました。二人掛けが向かい合った座席にあまり空席もなく、私の向かい側は慎ましやかそうなお姉さんが腰かけていました。
「旭川は日本で一番冷え込む処だと言われているけど本当?」と多分私が話しかけたのだと思いますが、彼女は首を横に振って「私の住む名寄の方がもっと冷え込む、氷点下30度以下に下がることもある。」と寒そうな顔をする。「寒くて寒くてあんまり寒いと心も凍ってしまいそうになるのよ。」彼女はその寒さの中に居るような表情を見せたが、私は彼女のずっと向こう、先ほどこの車両に入ってきた熊のような大男が、多分酔っ払いなのだろう、乗客に絡みながらこちらに近づいてきているのを見てる。ここへ来て彼女に絡んだらただではおかないぞともう心は構えています。「こんな寒い処に住んでいると、暖かい処に住んでいる人が羨ましいし、あの活気が私達にはない異質さで、怖いとさえ感じるの。」「だったら関西人は一番怖いかも知れないね。」と私が言ったとき大男が彼女に倒れ掛かるように絡みついた。
「おい、おっさん、お前ぶっ殺すぞ!頭かち割ってザクロにしたろか!」大男の胸倉を掴んで彼女から引き離して凄むと、私の目が余程殺気立ったのか、大男は一瞬でしゅんと凋んですごすご車両から出て行った。見ると彼女は蒼ざめて震えているようだ。言葉を掛けようとすると、彼女が怖がっているのは酔っ払いではなく私だと気づいた。ヤクザとでも思われたのかも知れない、列車が名寄に着くと彼女は逃げるように降りて行った。なんでこんな馬鹿馬鹿しいことになるのか、世の中を嫌っているから、世の中に嫌われてもしようがないと思ってしまう。
翌日やっとというか、とうとう稚内駅に着いた。雪は降っているが小雪で空は明るい。宗谷岬行きのバスに乗り込むと、明るかった空が次第に暗くなり、途中から吹雪、猛吹雪となり宗谷岬に近づくほどに視界は閉ざされた。終点宗谷岬は猛吹雪で視界は無いに等しい。バスを降りると数秒で雪柱になり、息をするのも困難だ。バスの待合室に飛び込んで難を逃れたのですが、雪の原野を倒れるまで歩き続けたいなど、なんて現実知らずの妄想だったのか、バスを降りた一瞬で自分の馬鹿さ加減を強烈に悟りました。結局乗ってきたバスが折り返すのを待って稚内に引き返したのですが、笑い話以下のお粗末さだったのは間違いありません。
稚内市内に戻ってラーメンをたべていると、森進一の歌が流れていました。好きな歌手でもないのですが、こんな北の最果てでラーメンを食べている自分が浮き彫りにされるようで、何故なのかわかりませんが、涙が溢れてきます。名寄の彼女は心が凍りそうになるといいましたが、誰のどんな声も届かないほどに凍ってしまっている自分に、私はただ立ち尽くしているだけだったのです。
posted by 明石 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月28日

金沢の女

北村が関西大学だったので時々ふらり京都に来ることがあった。下宿の部屋に居ても面白くないので、どこかへ行かないかということになり、美人の多い北陸金沢に決めました。二人とも学生で所持金は乏しいのですが、往復の運賃と飯代くらいは何とかありそうで、後の展開はパチプロまがいの北村が金沢で稼げるかどうかです。
朝金沢に着いて、パチンコ屋をチェックしながらぶらぶら金沢城公園あたりまで来ると、ほどなく開店という時間になって、来る途中決めていたパチンコ屋へ北村は戻って行った。私は金沢城付近の芝公園で寝ると決めていました。春だったか秋だったか忘れましたが、暑くも寒くもない戸外が最適の季節だったのは間違いなく、穏やかによく晴れた日、木陰で芝生の上だと夕方まででも寝られそうです。
周りを見回しても芝公園に人の姿はなく、木陰で芝生の上に寝転んで思い切り手足を伸ばすと、あまりの気持ちよさに日ごろの鬱々した気分も消えていました。下宿では眠りさえ四方八方から脅迫されて神経衰弱気味なのですが、知らぬ土地で快適な環境に解放されて、心地よい眠りにすんなり落ちました。
久々の快眠でどれくらい時が経ったのか、何かの気配でふと目が覚めました。寝ている私のすぐ近く女の人が芝生に足を投げ出して座っている。眠りが深かったようで私も咄嗟の状況判断が出来ません。少し微笑んでいるような優し気な彼女の目に、「ここはどこ?」と聞くと、「芝公園よ。」と返ってきました。「違うよ!どこでもないわまだ、だよ。」と突然自分でも何を言い出すやらですが、「谷川俊太郎ね。」と彼女。「あんたは誰?」と言うと、「誰でもないわまだ。」と彼女。何か嬉し楽しくなってきて私は笑っている彼女に、「ここがどこかで、あんたが誰かになるためには、どうすればいいのだろう?」と言うと、「それはあなた次第よ。」と彼女。
こんなほんわか優しそうな美人が、何故わざわざ寝ている私のすぐ側に腰を下ろしたのか、それは今考えても不思議です。彼女は北國新聞社の社長秘書で、昼休みで芝公園に寛ぎに来たそうです。出会った一瞬で触れ合えるところがあるのを感じ取りながら、好みのタイプであるがゆえにその先に私は進めません。就職はしたくないし生活に夢も望みも未来志向が全くない人間に恋愛は不可能で、好みのタイプほどに関わるのを避けてしまいます。
芝公園の入口付近に北村が見えた。宿泊費を稼ぎに行った友達が帰ってきたと言うと、彼女は立ち上がって帰って行った。お互いに名前とかを教えることもなく、その場限りの出会いで終わらせたのですが、どこかに切なさが疼くような心残りはあります。そんな気持ちを処理するのにも慣れていますが、ふと思うのは、仮に神様が出会いを仕組んだとしても意志が無ければ何も生まれない、ということです。「あなた次第よ。」と彼女の言葉が胸に刺さっているのに気付いて、「痛っ!」と顔を顰めました。
posted by 明石 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月16日

知らぬ間に

私は10代後半頃から作家志望で、そのために読書とか勉強する時間が欲しくて大学へ行ったのですが、自分は作家志望でも文学少年少女とかはあまり好きではありませんでした。妙に老成して斜に構えている頭でっかちを見ると、それ自体中身のない虚構のようで、汗や涙や血を生身で流して自分を知ったらどうなのだと腹立たしくなりました。
大学は京都の立命館大学で、言うのが気恥ずかしくて言わなかったのですが、文学部英米文学科です。特に英米文学が好きだとかは一切ありませんが、どうせ勉強しないのはわかっているから、得意の屁理屈を捏ね回して単位が取れそうな文学部を選んだだけです。あの美人シンガー倉木麻衣ちゃんの落ちこぼれ大先輩でもあるのです。
50年前の学園紛争の真っただ中の学園生活は、今の時代からだと想像するのも困難なほどに隔たってしまっています。あちこち窓ガラスが割れ、学生運動の貼り紙だらけで散らかり放題の大学に初登校の日、私は下駄ばきジーパンで真っ赤なセーター真っ黒なサングラスとさながらチンピラ姿で、校舎ロビーでいきなり上級生と喧嘩となり、学園生活は騒々しくスタートしました。
同じゼミに富山県高岡市から来た大場という、まさにそのものという文学少年がいました。小柄で長い前髪が顔を隠していて、髪の間から時々メガネが覗いていました。嫌いなタイプなのでこちらから話しかけたりはしませんが、妙にいろんなとこで顔を合わすのには閉口しました。
私は最初の半年は毎日講義に出ていました。大学の教授とはどの程度なのか興味があったからです。特に専攻ゼミでは気が向けば積極的に発言したりすることもあって、チンピラ然とした最初の印象からは皆意外であったようです。
ある日確かエドガー・アラン・ポーに関する講義中、作品のモチーフとか作品論になった時、私は教授に襲い掛かってしまいました。「死を凝視する感情の透明さ」ということを私は言ったのですが、教授が理解不能で半ばパニックに陥っているようでもあり、蓋をしてその場を脱しようとした時、大場が「先生、真面目に授業してください!」と甲高く叫びました。「私は真面目ですよ。」と教授は狼狽えと怒りが半々といった風で、結局ムニャムニャ授業を終えました。大場が「明石が本気になるなら先生も本気になれよ!」とそう言いたかったのはよくわかっていました。そんな目で見ていたのかと、この時から私も大場に多少は態度を軟化させて、時々話したりもするようにもなりましたが、前期が終わって後期になると私はばったり講義には出なくなりました。
本来の目的通り下宿の部屋に籠って文学、哲学思想、歴史、心理学に至るまで、古今東西の著作を手あたり次第読み漁りました。一日500〜600ページは読んでいましたが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は一気読みみたいに、それでも何日かは続くので最後の頃は発熱して、読み終えると寝込んでしまいました。
大場が自殺したと聞かされたのは、一回生の終わり頃なのか二回生になってからなのかは忘れましたが、内臓をざっくり抉られるようなショックがありました。あのゼミ以後会えば短い言葉でも交わすようになって、同人誌だったか彼の文章を読んだりもしたのですが、中身のない小生意気なポーズだけで、私の嫌いな文学少年そのものでした。話している時見せる屈託のない笑顔が本来の大場であるのなら、自縄自縛のポーズを壊してやったほうが良かったのではとの思いも掠めたのですが、私も自分のこともままならず、そんな余裕も力もなっかたはずです。なんで大場が自殺したのか真相は闇の彼方ですが、コンプレックスがその一因にあったのではと、なぜだか強くそう思いました。
今考えてみても、あの笑顔であれば、他者とフランクに交われたはずで、良いおじさんになれてしっかり生きられたはずだと、そう思います。
出会いは一瞬の交錯であったかも知れませんが、50年経っても私は大場のことを覚えているし、或いは彼が望んでいたかもしれない、友人に知らぬ間になっていたのかもと思ったりします。
posted by 明石 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年03月10日

月の道

3年前大学時代の友人3人と淡路島の温泉ホテルに集って、ミニ同窓会を行った時の情景が時々頭に浮かんでくることがあります。大阪出身で今は和歌山県橋本市に住むY氏、京都のI氏、加古川のU氏、それに私の4人で、I氏はその前年にも我が家に来ていますが、Y氏とは20年は会っていないように思えるし、U氏とは学生の頃からだと40何年になるのか考えると面倒くさくなります。
その数年前からY氏が、元気なうちに一度皆に会っておきたいと、I氏を通じて言ってくるのですが、あいつどこか悪いのかと聞くとそんなことはないとのことで、あまり気が乗らない私は先送りし続けていました。都会育ちほどに大学時代の仲間を懐かしむのは何なのだろうと、高校や大学に懐かしさのカケラも持ち合わせていない私からは奇異に映ります。もっとも向こうからすると、私の薄情そうなところが不安要素であるようですが、田舎人特有の土着体質なのか、私は小学時代を一緒に過ごした仲間が比較にならないほど懐かしい。
業を煮やしたY氏が直接再三電話してくるようになって、私も観念してミニ同窓会が実現した次第です。
最初は南紀の温泉ということでY氏に任せていたのですが、いささか独特の趣味嗜好の持ち主で、I氏がそれを懸念して私に電話してきたので、それでは関西と四国の中間淡路島にして私が手配すると決めました。
10月のよく晴れた日の昼下がり、私は淡路島は初めてでしたが、予定通りに2時間足らずで到着しました。ホテルのロビーで寛いでいると、ほどなく全員集合というか、皆私より早く着いて近辺をうろついていたらしい。
Y氏はさすがに老けて、何をやらかすか得体の知れないようなオーラが消えて、なんとなく小さくなったなと感じてしまいました。小柄なU氏が学生時代そのままで殆ど変わっていないのには驚きました。
海を見渡せる眺めのいい部屋を用意しましたとのことで、10階だったかどうか忘れましたが、部屋に入ってみると眺めの良さは言葉以上で、気持ちが伸びやかになります。20年とか、40年ぶりとかそんな長い時間を経てでも同じ部屋に集えば、何の違和感もなく収まるのも不思議ですが、部屋の背景に伸びやかな眺望が開けていることも無関係ではないのだろうと思ってしまいます。
60半ばを過ぎると皆さすがに憑きものが落ちているというか、口角泡を飛ばして激論とか、そんなエネルギーは源で枯れてしまっています。Y氏が「生きた証を何か残したい。」と真顔で言うので、「お前子供がいるだろ、子供や孫がいるなら、それがお前が生きた証だろ!」と即座に返してしまったのですが、いかにも不機嫌な言い方で自分でもびっくりしました。私は時々他者が消えてしまうほど自己完結的であり過ぎるところがあって、他者の中に自分を刻み込むような欲求は見失いがちです。高校時代からの悪友K氏の葬儀の話をしたのですが、関係性の中で人は死んでも、その人を知る人が居て思い出されたり話題になったりする限り存在し続け、そういう人が一人も居なくなった時初めてこの世から消滅する、ということを。
「生きた証」とか死後何時までも名前を残したいとしても、歴史に名を刻むような大人物にならない限り、人は皆大差なく忘れられ消えていく存在なのだということです。野に咲く花は誰のために咲くのではなく、自分という一つの命を精一杯生きているから、変わらぬ一つの命の尊さを宿しているのです。
Y氏はスマホで私のブログを読み始めました。U氏が「悪友の死」のブログ読んだけど、あれからブログが更新されていない、もう書かないのかと聞く。分からないと答えると、特異な生き方をしているのだから小説を、自伝小説とか書いてほしいと言う。
自伝小説はどこまで本当の自分に迫って描いたとしても、どこまで行ってもフィクションでしかあり得ない。日本の近代小説が私小説云々は、読者も作者もここを混同して描かれた主人公と作者を同一視するから、作品という次元へ飛翔しないのだ。もし私が小説を書くなら、私は私のこと以外書けないから、その意味では自伝的と言えなくもないが、生身の総体を書ききることは不可能で、書かれた私は主題視点とかで切り取られた断面である上、私の気づかない作意がどう働いているかも分からず、故に描かれた私は作品としてしか成り立たないということです。ここに集った4人は皆文学部で、最後に自伝の一つも書いて自分を残したいらしく、それが妙に私を苛立たせます。
夜9時ごろだっただろうか、仲居さんが教えてくれていたのですが、ベランダへ出てみると、満月が海面に月の道を描いていました。一人で暫くその幻想的な風景を眺めていると、それだけでもここへ来た甲斐はあったと納得できました。その後も時々あの月の道を思い出すということなのです。
posted by 明石 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月28日

初出荷

まさか東京市場へミカンを出荷することになるとは思ってもいませんでしたが、2月に入るや担当者からサンプルが欲しいと連絡があって送ると、何時から出せますかと問われ2月中旬からの予定だと答えると、出荷スケジュールが自動的に確定してしまいました。
初出荷は2月17日でした。青果高速のトラック便のため販売は2日後となりますが、どんな入りになるやら私ほどの市場経験をもつと、最低ラインを考えるだけであまり期待はしません。昔大阪本場の担当者に「お前は市場と言っても自分とこだけだろ、俺は全国何か所も北海道市場でさへ出したことがある、市場がどんなところかお前よりはるかによくわかっている。」と怒鳴ったことがありますが、地元、東京、大阪、愛媛、岡山、北海道等私ほど単独で市場を渡り歩いた生産者はあまり居ないだろうと思えるほどです。
東京市場でブドウの実績はあってもミカンの実績はゼロです。実績がゼロだとどんなに良いものを出しても、いきなり高値を付けてくれないのが市場の常です。特に個人出荷物はこの傾向が顕著です。私が注目してるのは単に買いたたかれるだけなのか、伸びしろを含ませた評価を出すのかです。
初出荷の販売市況が2日後にFAXで送られてきて、少し驚いたのは予想外の高値がついていたことです。調べてみると静岡三ヶ日と同じだから、青島系としてはトップレベルということになります。今年からブドウの出荷を再開すると伝えていたから、ブドウへのラブコールなのかこれ一回ではわかりません、
1週間後2回目の出荷時の市況も同じでした。そんなにあっさりトップレベルに仲間入りさせてくれるのは、合点がいかないところもありますが、嬉しいことは嬉しいです。
55年ほど前、ミカンを作るため、国の補助事業で山の斜面を開墾して40haの畑を作った親父等先人達、そこへ植え付けた苗木が成木になって本格的な収穫時に入るころには、ミカンは全国で生産過剰になって暴落して、そこから10年ももたず撤退を余儀なくされ、ミカンの木を切り倒すと奨励金を出すような農政で、先人たちがこの地で作ったミカン組合は数年で実質崩壊してしまいました。日の目を見ることが一切なかった先人達のミカンづくりの、その崩壊の末期に30年前私は就農しました。
私は初めからブドウ作り一本で30年を過ごしてきて、父の死後わずかのミカンを引き継いだ形ですが、最初気が乗らなくてお座なりでも、何年も続けると次第に本気になってくるという私特有のパターンです。従業員とか人を雇って大規模なブドウづくりは経営維持が困難で、夫婦二人だけでできる程度にブドウの規模を縮小したことで、多少はミカンに手を回せるという事情もあって、年々ミカンへの本気度が加速したようです。特にここ3〜4年、品質が目に見えて向上して、どこにもないようなレベルのミカンを作れるのではとの手ごたえを得ていました。
私の頭の片隅に全く日の目を見ることがなく終わった先人達があって、私が本気でミカンに取り組んでそれに全国レベルの光が少しでも当たれば、それは報われなかった先人達の苦労に意味のある光を当てることになるのではと考えると、おまけでそんなことが出来ればと意欲が増します。
日本のトップの市場でトップレベルの評価を受けることは、全国に認知される端緒であり、今回思いもかけずその端緒に着かせてもらって、一矢報えたかなという思いと、今植え付けている苗木が成木域に入る頃にはと、、、、、秘かに期すものがあります。
私は10年後にはブドウ作りは辞めているかも知れません。幅4m近い100m巻きのビニールは70〜80sはありそうで、それを持ち運び出来なくなった時がブドウを辞める時だときめています。いつまで生きていつまで働けるかそればかりは分かりませんが、父と同じ85歳まで働けるなら、最後はミカン作りで終わろうとの思いが固まりつつあります。無論自分事ではありますが、どこか先人達の思いに応えたい自分も、おまけ程度にはあるようです。
posted by 明石 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月19日

続 30年を過ぎて

先日ミカンの出荷で地元の市場へ行くと、果実部の幹部連中に取り囲まれて、「明石さんお久し振り、元気でしたか。」から始まってわいわいがやがや。4年ほど前からミカンを出荷しているのだけれど、夕方ごろ行くから会わなかっただけで、部長、課長とは10年くらいは会っていないから久し振りなのは間違いないです。
「どうしてます?」と聞かれ、「うん、ブドウを半分くらいに規模縮小して、ブドウを止めたハウスにミカンを植えている。小原紅は15aのところに100本ほど植えて、半分は6〜7年生でやっと出荷できるレベルになってきた。普通温州も昨年50本植えて、今年も50本、来年は100本植えようと、、、」と明石先生の演説が始まると、皆ニヤニヤしながら結構楽しそうなのでつい調子に乗ってしまいました。帰り際部長が「明石さんが時々来て吠えてくれたら僕らも元気がでますよ。」と言われると、お笑いタレントなのかとがっくり。
夢や野望が潰えてもそれで全てが終わるわけでもなく、生きて在ることの副産物程度のことなのだろう。専業農家なのだからそれで食っていかないと死活問題になるのだけれど、だからといって、食っていくためだけに農業をしているのではない自分があります。
専業の果樹農家として30年を越えてくると、苗木を植え付けて育てることはそれもまた一つ一つの命と向き合うことで、私の生活は樹々と不可分変更不能となっているようです。雨が降ろうと雪だろうと台風だろうとどんな悪天候でも、一日一度は必ず園地を巡回します。寝床に入ると明日の作業を考え、目覚めると今日の仕事の段取りを反芻してから起き、私の日々は果樹を作るためにオートシステム化されてしまっているようです。雨とか悪天候で二日も仕事ができないと気が滅入ったりしますが、そんな時文章を刻むことに向き合えばと言われそうですが、余暇ですることは本分がしっかり確保されているからこそできることなのです。
30年を過ごしてみて、これほどまでに農業に適性があるとは自分でも予想外でしたが、土に根ざす農業は土に根ざすような生き方と重なり合ってあるようです。成功者となり得ませんでしたが、破局へ向かう一方と言えるほど困難な時代に農業に従事したことは、自分ではらしくて良いとどこか納得できるところがあります。終活を破棄していわば墓場から蘇生してきて、近頃、このまま終わってたまるかと、持ち前の反骨精神がむくむく頭をもたげてきています。時代と衝突して生きて、自己主張を貫くには、或いは農業が最適であったのかもと思ったりもしますが、死ぬまでまだ終わっていないのは確かです。
農業、漁業、林業はさながら絶滅危惧産業と化していますが、第一次産業が終われば国が形を失って崩壊するのは間違いないと思っています。経済は世界が連動しているだけに、どこかの国の事件が深刻な世界同時不況になったり、先が見通せないし不安定です。本当に強い国、少しでも確かな国とは、農業、漁業、林業の第一次産業の基盤整備ができていて、そこをベースに確保できている国だろうと思います。経済がこけた時に何もない国、そんな日本を想像してみる必要が切迫してあるのだと言いたいです。


posted by 明石 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月11日

農業歴30年を過ぎて

私の農業歴は今年で何年になるのだろうとふと思うと、始まりは平成元年とほぼ同時だから分かりやすくて、農業に従事して専業農家として30年が過ぎたことになります。専業だから一個人一経営者ということもあって、30年間生産資材、機材の価格とか市場価格の変動をつぶさに見てきましたが、生産資材、機材の価格の上昇にはただ呆れるばかりです。20年以上続いたデフレスパイラルのなかでも、農業の生産資材は原油が値上がりするたびに値上げを繰り返し、30年前となら2〜3倍価格が上昇しているはずです。
デフレスパイラルの中で他の殆どの物価は据え置かれたままなのに、農業の生産資材(漁業、林業も多分同じだと思う)は何故毎年のよう値上げを繰り返すことができるのかと考えると、値上げに歯止めを掛けるものが何もないという実情です。個人である農家がいくら文句を言ったところで、気に食わなければ買わなければいいとメーカーに言われればそれまでです。農協がもし本当に農家のためにあるのなら唯一歯止めになれるのだけど、販売価格が高いほどに農協に落ちる金額が増えるのだから自ずとメーカーサイドになり、農家のために農協があるのではなく農協のために農家があるのが実情です。
少し前、小泉進次郎氏が自民党の農政部長をしている時、日本の農業の生産資材は韓国に比べて2〜3倍高いと発言して、私はこの人は本物かもと見直したのですが、物価がほぼ同じの韓国の2〜3倍高い生産資材というのはどうみたって異常です。例えば30年前20s1袋1000円以下だった肥料が今3000円前後です。これを10アールあたり7〜8袋使用するとその費用の回収が難しくなります。今全国の畑で土壌の栄養不良化が過激に進んでいるそうです。
生産コストの過激な上昇とは逆に、農産物の市場価格はこの30年まさにデフレスパイラルで下がり続けています。市場の仲買さんは生産コストは一顧だにせず売れるか売れないか商売の都合だけで価格を決めてきたからです。農家は安く買いたたいて殺しても次々現れるから大丈夫と平気で放言する仲買を何人も見てきたし、価格を決める市場の現場にはそんな雰囲気がいつもどこかにあったのを感じ続けていました。
生産コストの上昇と市場価格の低迷にじりじり追い詰められて、リーマンショックの前年の原油高ショックは衝撃でした。当時私は東京市場に出荷していてつぶさにそれをわが身で体験しましたが、高額なブランド農産物がばったり売れなくなりました。東京日本橋の百貨店本店筋でです。翌年リーマンショックが起きて不況風が吹き荒れると、あろうことか百貨店がやがてスーパーと青果物の安売り価格競争を始め、市場価格は更に急降下となり、何年もしないうちにブランド農産物の産地が全国のあちらこちらで崩壊し始めました。
品質の高いものを作ろうとすると手間もコストも増大しますが、市場で軒並みスーパー価格で扱われたのでは生産コスト割れとなって、経営が困難になるのは必至です。良い物を作ろうと一生懸命に努力するほどに貧しくなり成り立たなくなる、なんて馬鹿馬鹿しい時代に入ったんだと苦虫を噛むばかりです。
私の30年の農業歴は農業の崩壊最終局面と重なってあるようです。価格上昇を続ける生産資材、機材、下がり続ける市場価格でじわじわ追い詰められた挙句、原油高ショックとその翌年のリーマンショックによる不況風がとどめとなったようです。
今全国の青果市場が血眼になるほどに生産者は激減しているはずです。生産コストが販売価格より高くなれば経営が不可能になるのは自明で、結局農業農家は四方八方から食い潰されて終わるのだなというのが私の見方です。
生産者サイドで販売価格が決められない農業、漁業、林業の第一次産業は、多分同じ状況下にあるはずです。一昨年今国民民主党の党首である玉木雄一郎氏と話す機会があって、その時「突き詰めると非常に単純な結論に至りますよ。農業も製造業の一つと横並びに考えると、販売価格が生産コストをもとに生産者サイドで決められるよう構造改革がなされない限り、産業としての自立はあり得ないし、どこまで行っても食い物にされるだけですよ。」と私は言ったのですが、氏からコメントは返ってきませんでした。
市場が色めき立って生産者確保に走り回っても、生産コスト以上で販売価格を確約しない限り、農家を繋ぎとめることは無理です。先日東京市場の担当者が来た時、「最低でも今の市場価格の倍」と言ったのですが、スーパーとかの店頭価格が今の倍以上になった時、果たして売れるのかとなると多分売れないだろうとまで付け加えました。地元の小売業者さんから「安くても売れない時代に入った」との声が時々耳に入ります。「地方は安くても売れない時代に入り始めている」と言うと、「東京は下げればまだ売れますよ」と返ってきましたが、地方から始まっていずれ波及するのは時間の問題です。
本当に最大の問題は、日本の国内消費力がどこまで落ちるかです。私等団塊の世代からは年金だけでは生活が厳しく、大半が生活苦予備軍となります。また全国の就業者の40%余りが非正規雇用ということは、そこも生活苦予備軍ともいえ、合わせると国民総数の半分近くになりそうです。ここがベースになると内需で成長してきた日本経済が凋んでいくのは疑いのないことに想えます。
posted by 明石 at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年02月06日

8年ぶりに

昨年7月に愛知県の販売業者さんが8年ぶりに電話してきて、シンガポールから特上のブドウが欲しいと言ってきているのだけど、出せますかと問う。この業者さん、思えば8年前、名古屋在留の中国政府高官に私のピオーネを試食させたことがあって、その時こんな美味しいブドウ初めてですと感激するくらい気に入れられたそうで、輸送ルート販売ルートは確保するので来年から出してもらえませんか、というところまで話が進んだそうです。中国は日本の果物はリンゴと梨の2品目だけが輸入が認められていますが、表向きはそうであっても香港とか台湾とかの迂回ルートから、それ以外の品目でも多少は北京まで届いているらしい情報はありましたが、あからさまに中国政府高官に輸入規制を無視するようなことを言われると、国策って何なのだと馬鹿馬鹿しくなってきます。加えて、北京の中国政府の高官達は中国の農産物は安全性に問題があるから食べたがらない、とその高官が言ったそうですが、「よく言うよ、あんたら政治が悪いから、虐げられた農家農業に歪みが集中しているんだろ!」と怒りがこみあげてきます。
実はこの年の秋、中国政府が日本の果物の輸入規制を大幅に緩和して、2品目以外の輸入を認めようとの発言がありました。ブドウはその一番手とされていました。また中国最大手の一つである米業者が来日して、来年度日本の米を20万トン入れることを明言し、それを皮切りに米輸入拡大を本格化させるとの見通しを語っていました。中国が米とか果物日本の農産物を大きく門戸を開いて受け入れようとしている、その報道は末期的状況に喘いでいる私達農業者には救いの光のようでもありました。
例えば米で考えると、中国の必要量は1億5千万トン、日本の生産量は8百万トンで、中国の富裕層をほぼ1億人くらいとしてみて、安全で美味しい日本の米を食べる流れが加速すると、8百万トン程度あっと言う間だろうし、中国が日本の米に乗せてる関税を考えると、それが撤廃されるか近いところまで下げられると、日本国内の倍以上の価格も可能なのではとおもえてきます。蓋を開けてみるまで分からないということはありますが、中国の方針転換で日本の農業に希望の光が差した瞬間でした。
ところが翌年3月の東日本大震災、ことに福島の原発事故です。海外の空港に降り立った日本人があちこちの国々で放射能検査をされる映像を見ると、中国政府がコメントを出す必要がないくらい、日本の農産物が海外に出ることがなくなったのはあまりにも明白でした。私のブドウが中国に出ることが無くなったのも相手に聞く必要はありませんでした。農業に光が差したと喜んだ途端このどんでん返しは、以前にも増して闇を深めるばかりでした。その後今日に至るまでそんなことを言う人を見かけたことはありませんが、日本の農業が息を吹き返す絶好の機会が福島原発事故で潰えてしまったと、私はいまだにその無念さをどこか引きずっています。
昨年愛知の業者さんにシンガポールへブドウをと問い合わせられた時、8年の空白期間の後止まっていた時間が再び動き出す、再現フィルムでも見ているような感覚に見舞われました。
シンガポールは私が一番出したいところだから、言われるままにブドウのサンプルを二度送りました。相手はシンガポールでトップクラスの食品関係業者さんだそうで、日本のトップクラスのブドウを要望されたとのことですが、サンプルとして送ったピオーネ、ゴルビー、クイーンニーナの3品種ともに好評価だったようです。
ついては原産地証明書が必要だから取ってくれないかと業者さんが私に言う。生産者が取る証明なのか少し疑問だったのですが、商工会議所に行くと、原産地証明書は国内の輸出最終業者さんが取る書類ですよと言われ、業者さんに返しましたが、その後連絡がぷっつり途絶えました。おそらく原産地証明書を取る手続きとかが面倒で、そこまで本気でない業者さんが退いてしまったのだろうと、私の方も出荷に忙しい真っ最中であえて連絡はしませんでした。
海外は個人で直接だと言葉の壁を始めとして問題が多々あって、加えて私も全盛期の半分程度までに規模縮小していて、海外への意欲は最近は殆ど薄れてしまっているようです。
posted by 明石 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言

2019年01月26日

本気になるほどに

ブドウを作るのをやめた15aのハウスに小原紅ミカンを植えて、半分は6〜7年生で3年前から収穫を始めていますが、今年度やっと商品化できるレベルになってきました。昨年は収穫後に追熟させるのが上手くできなくて、糖度は12度前後はあるものの酸抜けがまったくせず、食味は酸味ばかりで商品レベルではないので全部廃棄処分にしました。今年度は追熟のさせかたをあちこち調べて昨年とは全く違ったやりかたで、着色と酸抜けにほぼ成功して、商品化してもいけそうな程度の仕上がりにはなりました。糖度的には11〜14度で殆ど12度以上だから、JAだと最上ランクの讃岐紅ミカンとなります。
これから一年一年木が育って葉が茂って果実のグレードも上がってゆくはずで、3〜4年先成木域に達し始める頃には、糖度13度以上の最高レベルのものを作れそうだと思うと、早生系は上手くいかないかもとの予想を覆せそうで嬉しくなってきます。試食モニターをと、収穫した400sは年末年始に親戚友人とかに配ってしまいましたが、食味感想は概ね良好だったようです。
先週東京の市場関係者がやってきました。今年から市場出荷を再開すると昨年伝えていたこともあって、こちらへ来る機会に会っておきたいとのこと。以前私のブドウを担当してくれたO氏と久々に会いましたが、10数年振りだと聞かされて、改めて驚きました。新しく私の担当になるS氏も一緒で、新年早々2人に小原紅ミカンを試食用に送っていたのですが、答えは出荷OKのレベルに達しているとのことで、日本のトップ市場が認めるなら、商品化にお墨付きをもらったようなものです。
ブドウとミカンの園地を一回りして、倉庫に貯蔵している「金峰ミカン」を見てもらったのですが、無造作に取った2個のミカンの糖度を測るといずれも15度以上で、こんな高糖度のミカンは初めてだとあっさり認めました。市場出荷をやめてからもO氏との付き合いは続いて、年に何度かは電話で話すことがあって、数年前から「金峰ミカン」の糖度15度は珍しくなくなってきていることを話してはいたのですが、実際に現場で現物を試食して嘘でなかったことを確認できたようです。「可能なら今年少しでも出荷してもらえませんか。」とミカンの出荷要請は全く予想していなかったので、「少しでもいいなら試しに出してみますか。」と控えめに返答しました。
東京市場にないほど高糖度のミカンに化け始めたことを改めて思うと、強剪定で木の形を縦より横に広げるように作り変えたこととか、全くの自己流でやってきたことが間違いではなかったのを確信できます。ブドウをやめたハウスに小原紅ミカンを植え始めた6〜7年前から、ミカンに取り組む本気度が徐々に増して、普通温州を植え付けようと決めた一昨年から急加速です。本気で取り組むほどに想う以上の結果が出始めると、ものづくりとしての充足感はそれだけでも何物にも替えがたく、更なる次元へとエネルギーが湧いてきます。
posted by 明石 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 園主の独り言